竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
鐘楼の中に、沈黙が落ちた。
赤き竜。
あるいは、
それは、神話上の存在であるはずだ。
絵画に描かれ、聖句に讃えられ、竜敦国教会のすべての権威を支える象徴。
それが今、血と霧を流しながら梁に吊るされている。
「────その通りだ」
ジャックの言葉が、沈黙を破った。
「あれこそは我ら竜裔が祖にして、教会権威の頂点に坐する……偉大なる赤き竜。その、ヒトとしての姿……真祖ドラクル」
「……」
銀色の前髪の奥、ヴィクターの額に、冷や汗が滲んでいた。
ヴィクターは信心深い男ではない。教会の
それどころか、竜裔を嫌ってすらいた。
それでも、目の前の光景は別だった。
竜裔の祖と呼ばれる存在。
自らにも半分流れているその血、その身体が、竜敦を覆う霧の源として、今も
それは理屈ではなく、本能に近い部分を冷たく撫でた。
「……ヴィクターの言っていた、竜敦の霧を集積・拡散する装置の正体がこれか」
アレクサンドラは、わざとらしく息を吐いた。
分からない。見てはいけないものを見ている。
だからこそ、彼女はいつもの調子を崩さないことにした。崩せば、足元から大きな何かに呑まれそうだったから。
「聞いて欲しそうなので聞いてやるが、何故その偉大なる赤き竜がこんなところで磔になっている?」
「……良い質問だね、アレクサンドラ」
ジャックは楽しそうに笑った。
しかし、その笑みは勝ち誇るものではなかった。
むしろ、ようやくここまで辿り着いたか、とでも言いたげな顔だった。
秘密を暴く者ではなく、秘密を友と共有するために待っていたかのような、幼気な顔。
「……少し、歴史の勉強をしよう」
鐘楼の外では、霧が流れている。
「かつてこの地では、我らの祖先と、それに敵対する種族とが争っていた」
その霧の源を背後に、ジャックは語り始めた。
「数百年前、千年をも数えようかというほどの昔。この地はその敵種族が治めていてね。……そこを争いの末勝ち取ったのが、将軍であり、指導者でもある彼────ドラクルだった」
「流石にそのくらいは私でも知っている。それで?」
「おや、それは失礼した。では続けよう……
しかし、それだけではただの簒奪者に過ぎない。ドラクルと十三人の配下は、この地を支配下に納める正統性の根拠を欲していた。
そこで目をつけたのが、この地で民間伝承として語り継がれていた"赤き竜"ア・ドライグ・ゴッホの伝説だ。
ドラクルは自らを赤き竜の化身と称し、それを正当化する"物語"を語らせた」
赤き竜。
ア・ドライグ・ゴッホ。
それは、古くからこの地に伝わる守護者の竜の伝説だった。
人々は、その名を知っていた。
その姿を畏れ、敬い、語り継いでいた。
ドラクルはそこに、自らの姿を重ねた。
征服者は土着の物語を身にまとい、神話になったのだ。
「……竜敦国教会の誕生だ」
ヴィクターは目を細めた。
彼は古典語にも、教会史にも明るい。
少なくとも、アレクサンドラよりは遥かに多くを知っている。
その彼が知らない。
つまりこれは、単なる失伝ではない。秘められた歴史のはずだ。
「……初耳だな。何故お前がそんなことを知ってる?」
「……ヴィクターも知らないとなると、知っていてはまずい類いの話なんじゃないか、それは」
「ッハハ、聞いてしまったね」
「こいつむかつくな」
屈託なく笑うジャックに対して、アレクサンドラは率直に言った。
「……力を持ち、正統性も手に入れたドラクルらだったが、彼らはひとつ重大な問題を抱えていた」
「……何だ? それは」
ジャックは、
竜裔。
長命で、強靭で、自己治癒能力を備えた貴種。
アレクサンドラたちは、そう教えられてきた。
だが、強さには裏面がある。
神話が覆い隠してきた、弱点があるのだ。
「それはだね。彼ら……いや、我らの種が、直射の陽光への耐性を著しく欠いていたということだよ」
アレクサンドラは反射的に窓の外を見た。
竜敦の霧。
朝も昼も夜も、街を白く覆うもの。
人々はそれを赤き竜の加護と捉え、ありがたがってきた。
だが、もしそれが加護ではなく、遮蔽だったとしたら。
守っていたのは平民ではない。
竜裔たち自身だったのだとしたら。
「陽光への……耐性?」
「……!!」
「心当たりがないと言いたげだね……まあそれも当然だろう。なぜなら我らは、それを防ぐものによって堅固に守られているのだから」
「……"恩寵の帳"か!」
「竜敦を覆う霧は陽光を防ぐためのものだと?」
「そう……まさしく"恩寵の帳"と言うべきだ。
元来、我らの種は他の種よりも高い身体能力を有していた。しかし陽の下では大手を振って歩けない、という最大の障害をも抱えていた。
それが"恩寵の帳"を得たことで、その軛から解き放たれたのだよ」
"
アレクサンドラは、チラッとヴィクターを見た。
「……散々もやしもやしと言ってはきたが、まさか本当にもやし野郎だったとは」
「うるせえよ」
あまりにも重い真実が続いたせいで、アレクサンドラは反射的に軽口を探していた。
そうでもしなければ、目の前の磔の男と、窓の外の霧をまともに見ていられなかったのかもしれない。
しかし、ジャックは笑わなかった。
彼の視線は、ずっと磔の男に向けられている。
怒り。
哀れみ。
敬意。
そして、殺意。
相反するものが、ひとつの眼差しの中に同居していた。
「……だが、果たしてそれでよいのか?
"恩寵の帳"はどうやって生み出されている? そう、君たちも知っての通りだ。
我らが真祖《オーバーロード》、ドラクル=ア・ドライグは、自らを犠牲に竜敦の安寧の楔となることを選んだ」
ジャックの声が、鐘楼に反響した。
それは、告発だった。
教会へ向けたものでもあり、竜裔へ向けたものでもあり、そして自分自身へ向けたものでもあるように聞こえた。
「あれを見ろ! 彼は自ら"
我々はその献身を甘んじて享受すべきなのか!? いいや、違う! 我々は父祖から親離れすべきだ」
彼は真祖を憎んでいるのではない。
むしろ、痛ましいほどに敬っている。
だからこそ、その犠牲の上に成り立つ世界を許せないのだ。
「そして何より────誰か一人の犠牲でなりたつ平和なんて、あっていいはずがない!!」
ジャックの言葉には、確かに正しさがあった。
少なくとも、誰か一人の犠牲で成り立つ平和を否定するという一点においては。
だが、アレクサンドラは、その正しさに酔うほど素直ではなかった。
なぜなら、ここに至るまでの犠牲を知っているからだ。
メアリ。
ヘンリー。
ウォルター。
消えた近衛騎士たち。
その死を踏み台にして語られる理想を、無条件に美しいとは思えなかった。
「ご立派な思想だね。大した演説だ」
アレクサンドラは、気のない拍手をした。
「で、そのために君らは何人もの犠牲を出してる訳だが……ご感想は?」
ジャックは、アレクサンドラの皮肉を受け止めた。
否定しなかった。
怒りもしなかった。
「……痛みは皆で分かち合うべきだ。もちろん、この俺も例外ではない」
ジャックは磔の男を見上げた。
槍に貫かれた真祖ドラクル。
そこから漏れ出す、白くぼんやりと光る粒子。
「……今こそ問おうじゃないか、審問官」
それらを背にして、ジャックは審問官たちへ問いを投げた。
まるで、これから犯される罪に、裁決を求めているかのように。
「俺はこれから、何をしようとしていると思う……?」
答えは、もう見えていた。
ダモクレスの弾丸。
消えた近衛騎士。
鐘楼に磔された真祖。
恩寵の帳の正体。
すべてが、ひとつの結論へと向かっている。
「……"恩寵の帳"の破壊。そのためにその男……真祖ドラクルを完全に殺害しようとしている」
アレクサンドラが、導き出されたその結論を答えた。
「……ああ、そうだ。俺は父祖を弑逆し、
─────その時、鐘が鳴った。
巨大な鐘の音が、すぐそばで炸裂する。
空気が震え、石壁が震え、胸の奥まで鈍く揺さぶられた。
竜敦の街に時を告げる音。
それが今や、全ての終わりに至るまでの、残り時間を刻んでいるかのように聞こえた。
「……あと一刻で日暮れとなろう。それを待ち、俺は赤き竜の生死の天秤を傾けるつもりだ。
そして、いま対岸で行われている公会議に議題を持ち込もうじゃないか」
ジャックの計画は、単なる破壊ではなかった。
真祖ドラクルを殺し、"恩寵の帳"を消す。
竜裔は、翌朝にも陽光の下に晒されることになるだろう。
そして、そのうえで彼らに選ばせる。
「────竜裔の行く末を決めろ、と」
誰かの犠牲の上に守られ続けるのか。
それとも、自分たち自身の命を賭して竜敦を存続させるのか。
「俺の"計算"では、竜敦に生きる竜裔の半数が、自ら陽光に灼かれることを選び、それでもなお竜敦の存続を祈れば、"最期の奇跡"により間違いなくこの安寧は保たれる」
計算、と。ジャックはそう言った。
竜裔の死を、彼らの祈りの質量を、まるで数式の変数のように扱っている。
アレクサンドラには、その声が理知的にさえ聞こえた。
「だが、多くの枢機卿が保身を優先すれば、竜敦と教会秩序は崩壊するだろう。もちろん俺の命脈もその時までだ」
"最期の奇跡"は竜裔の死に伴って常に起きるというわけではない。あくまで、願いと、自らの全てを賭けてもいいという覚悟があって成立するものだ。
ジャックは、笑っていた。
勝利を確信したのではない。
むしろ、選択を突きつけられ運命の岐路に立たされた者が、それでも己を奮い立たせるために浮かべる、凄絶な笑みだった。
彼自身もまた、その選択の中に身を置いている。
自分だけは安全な場所から見物するつもりではない。
だからこそ、その狂気はなおさら厄介だった。
「どうだ? 共に見届けないか? 彼らが公会議でどのような結論を出すか」
西の空では、霧の向こうで日が傾き始めている。
日没まで、あと一刻。
鐘楼の中で、
そしてジャックは、その死に終止符を打つために、静かに二人を見つめている。
「────それとも、日没までに俺を止めてみせるか?」