竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
銃声が鐘楼に炸裂した。
狭い空間の中で、音は倍にも膨れ上がって響く。
巨大な鐘が震え、足元の石床までもがかすかに揺れたように感じられた。
二つの銃口から放たれた弾丸が、アレクサンドラとヴィクターへ向かって走る。
「甘えんだよッ!」
ヴィクターは避けなかった。
むしろ、弾丸へ向かって踏み込んだ。
宝剣の刃が閃く。
火花のような光が散り、放たれた弾丸が空中で二つに割れた。
そのままヴィクターは、勢いを殺さずジャックとの距離を詰める。
「自分の目で見られないもののために死のうだなんて、理解に苦しむな!」
アレクサンドラは、ヴィクターほど無茶な真似はしなかった。
身体を捻り、銃弾の軌道から半歩外れる。
耳元を熱い風が掠めた。
遅れて、背後の石壁に弾が当たる乾いた音が響く。
「意外と動けるものだな!」
ジャックは感嘆してみせた。
「だが、これはどうだ?!」
ジャックは撃ち続けなかった。
接近してきたヴィクターに対し、二挺拳銃を逆手に持ち替える。
銃把を拳の延長として使い、掌底を叩き込むように踏み込んだ。
その動きは、射撃手ではなく、武道家のもののようだった。
「ハッ、力比べか? 体格差を考えるんだな!」
ヴィクターはその打撃を真正面から受けた。
宝剣の腹で銃把を受け止め、そのまま力で押し返す。
小柄なジャックの身体が、わずかに後ろへ沈んだ。
体格差は明らかだった。
真正面からぶつかれば、ヴィクターに分がある。
「!」
だが、ジャックは力で押し合うつもりなど毛頭なかった。
押し込まれる力を利用して、身体を後方へ跳ね上げる。
宙返りの途中、片足が鋭く伸び、ヴィクターの剣の柄を蹴り上げようとした。
刃ではなく、握った手をを狙う。武器を落とさせるための動きだ。
しかし、そこにはアレクサンドラが回り込んでいた。
ヴィクターが正面から押せば、ジャックが後方へ逃げるだろう、と。その着地点を彼女は読んでいた。
「よいしょ、っと!」
軽い声とは裏腹に、放たれた蹴りは容赦がなかった。
上段から振り抜かれた足が、ジャックの顔面を捉える。
「ぐっ!」
ジャックの黒髪が衝撃に揺れる。
「っ、
痛みに顔をしかめ、ジャックの金眼が細められた。
「君たちを二対一で相手するのは、少し分が悪そうだ」
ジャックは口元の血を拭った。
それでも笑っている。
ジャックは、次の手を切るために、状況を冷静に確認したようだった。ただそれが、自分の不利であるというだけのこと。
「だが、日の入りまではしばしある。まだ足掻かせてもらおう……!」
ジャックは纏っていた警邏隊制服の上着を脱ぎ捨てた。
布が床に落ちる。
その瞬間、ジェーン・リードという偽装の名残がさらに薄まった。
そこにいるのは、初めから警邏隊の巡査ではない。
「我が友、ヘンリー・ジキルが開発した"退化薬"を知っているな?」
ヘンリー・ジキル。
その名をジャックが口にした瞬間、アレクサンドラとヴィクターの間に別の緊張が走った。
メアリを殺した竜裔。
退化薬を作り、自らに投与し、獣へ堕ちた化学者。
一方で、ジャックの声に緊張は見られない。言葉通りに、友の名を呼ぶ親しげな響きすら感じられた。
「おいおい、喋りながらとは随分余裕じゃねえか……!」
ヴィクターが前に出た。
狙いはジャックの胴ではない。
腕だ。
銃を持つ腕を一つでも潰せられれば、それだけで脅威度は大きく減る。
宝剣の切っ先が、ジャックの左腕へと真っ直ぐに向かう。
「我が友? それは初耳だな!」
同時に、アレクサンドラも踏み込んだ。
ダモクレスの剣は抜かない。
鞘ごと振りかぶり、頭部を叩き潰す勢いで振り下ろす。
「が、かは……ぐ!」
鈍い音がした。
アレクサンドラの一撃が、ジャックの頭部を捉える。
ほぼ同時に、ヴィクターの宝剣が彼の左腕を貫き、そのまま背後の壁へ縫い留めた。
普通ならば、悲鳴を上げて崩れ落ちる傷だろう。
だがジャックは歯を食いしばり、血を吐くように言葉を続ける。
「そうだ……ヘンリーとはスクールの同期で、親友だった!」
ジャックの声が、初めて大きく揺れた。
「あんな、あんな最期を迎えるべき男ではなかった!!」
これまでの彼は、世界を見下ろすように語っていた。
歴史を語り、時代を語り、これから起こるであろう犠牲を数字として扱っていた。
しかし、ヘンリーの名を口にした時だけは違った。
そこにあったのは、理想に殉じる革命家の声ではなく、友を失った一人の青年の怒り。
「竜裔は死ぬと、その痕跡を一切残さない。
あの夜、ヘンリーは誰にも伝えず、駆け落ち同然でメアリに会いに行った。
……はぁ、ハ────もしあのまま、メアリの死体だけが発見されていたらどうなっていたと思う?」
ジャックは、壁に縫い留められた腕を押さえながらも、言葉を止めなかった。
「大した根性だな……その状態でまだお喋りか」
ヴィクターは、薄ら寒いものを感じた。
「メアリの死体だけが発見されていたら? 犯人不明の怪事件として迷宮入りでもしたんじゃないか? 仮定の話なんてどうでもいいが」
アレクサンドラは冷たく返したが、本当に全てをどうでもいいと思っているわけではなかった。
それがどういう意味か理解しているからこそ、ジャックの感傷に巻き込まれまいとしているのだ。
「いいはずがないだろう……!」
しかし、アレクサンドラの言葉は、ジャックを強く苛立たせた。
ヘンリーは死ねば消える。竜裔だからだ。
血も、肉も、骨も、形見すら何も残らない。
もし現場に残るのがメアリの遺体だけだったなら。
そこにヘンリーがいた証拠は、何一つ残らない。
メアリを殺した者の存在も、ヘンリーという男の最期も、霧の中に消える。
「メアリはなぜ死ななければならなかったのかも明らかにされず、そこにいたヘンリーはいなかったことにされる……そんなことがあっていいはずがないんだ。
だから、君たちには感謝している。我が友ヘンリーの実在を証明してくれて、ありがとう」
その感謝は、皮肉ではなかった。
少なくとも、その瞬間だけは、ジャックは確かに二人に礼を言っていた。
メアリの死を調べ、ヘンリーの痕跡を追い、彼がそこにいたことを証した者たちへ。
「……だが、それを誘うためにこれ見よがしに置いた『主の御代に』のためにこうも追い詰められていることを思うと、そうも言っていられないか」
ジャックは笑った。
「君たちはヘンリーの存在を証した。
────だから次は俺が、彼の才能を証そう!」
ジャックはヘンリーの罪ではなく、ヘンリーの才能を語ろうとしている。
メアリを殺した獣ではなく、その前にいた一人の化学者を証そうとしている。
そのために、彼は自分の身体すら証明の材料にしようとしていた。
ジャックは、壁に縫い留められた自分の腕へ視線を落とす。
次の瞬間、迷いなく身体を引いた。
肉が裂ける嫌な音が、鐘楼に響く。
骨が軋み、血が散る。
普通なら、それだけで意識を失う痛みのはずだ。
だがジャックは、歯を食いしばりながら腕を引き剥がした。
残った片腕の袖口から、細い
それは鐘楼の梁に絡みつき、ジャックの身体を一気に引き上げる。
小柄な身体が宙を舞い、反対側の足場へ移った。
血を流し、片腕を失いながらも、その動きにはまだ鋭さが残っている。
「チッ、ちょこまかと……」
ヴィクターは壁から宝剣を引き抜いた。
刃には、まだジャックの片腕が刺さっている。
彼はそれを見て、心底嫌そうに眉を寄せた。
そして、床へ払い落とす。
腕は濡れた音を立てて石床を転がった。
「どんな神経してるんだあいつ……」
アレクサンドラは頬を引き攣らせた。
反対側の足場で、ジャックは荒い呼吸を整えていた。
失った腕から血が滴っている。
「あの退化薬は失敗したが、それは理論の前提が誤っていたからだ」
それでも、彼の声には奇妙な熱が戻っていた。
ヘンリーの研究は失敗した。その結果として、ヘンリーも、彼が愛したメアリも死んだ。
だがジャックは、それでも、ヘンリーの才能だけは決して否定しようとしなかった。
「彼の才能そのものは天賦のものだったと、俺が示そう!」
ジャックは、残った手を懐へ差し入れた。
取り出されたのは、一本の注射器だった。
中には、淡く濁った薬液が揺れている。
"退化薬"。
その言葉が、アレクサンドラとヴィクターの脳裏を同時によぎった。
ヘンリーを獣へ堕とし、メアリを殺させた薬。
あれと同じものなら、ここで使わせるわけにはいかない。
「!? アイツまさか……ッ!!」
ヴィクターが先に動いた。
狙いは注射器。
あるいは、それを握る、残された腕そのもの。
彼は迷わず距離を詰める。
アレクサンドラも遅れて駆け出した。
だが、ジャックはすでに二人から距離を取っている。
「! クソ、この距離じゃ間に合わないか……っ」
ジャックは、二人の焦りを見て、かすかに笑った。
それは、友の研究成果をようやく世に示せるという、どこか誇らしげな笑みだった。
「そう焦るな。これは────“退化薬”ではない」
注射器の針が、腕を失くした方の肩へと向けられる。
ジャックは、自らを抱くようにして────
「それと対を為す、"進化薬"だ」
───針を、肩の筋肉に突き刺した。