竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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進化

 注射器の中の薬液が、ジャックの身体へ押し込まれていく。

 

 一瞬だった。

 しかし、その一瞬が、鐘楼の空気を変える。

 

 アレクサンドラは反射的に一歩飛び退き、ヴィクターもまた、剣を構え直した。

 

 目の前の青年が、何か取り返しのつかない境界を越えたのだと、二人の本能が告げていた。

 

「ぐ、グォオオオオオオオ!!!!」

 

 ジャックが咆哮すると、その身体が内側から膨れ上がるように変わっていった。

 

 骨が軋む音がした。

 

 伸びた背骨に合わせて、肩幅が広がる。

 裂けた皮膚はすぐに塞がり、その下で筋肉が盛り上がっていく。

 

 先ほど失ったはずの腕の傷口も、肉が蠢き、血が止まり、まるで時間を巻き戻すように形を取り戻していった。

 

 治癒というより、再生と言うべきだろう。

 ヒトの身体が、別の何かへと組み替えられていく過程が見えた。

 

 

 やがて、咆哮が止んだ。

 

 鐘楼の中に、荒い呼吸が響く。

 

 押し出された空気が戻るように灰白の霧が流れ込み、変貌を終えたジャックの身体を薄く包んでいた。

 

 ジャックは、ゆっくりと顔を上げる。

 

 目元にかかっていた前髪をかき上げる仕草だけは、先ほどまでの青年のまま。

 

 しかし、その姿はもはや別物だった。

 

 

「これが……"進化"か。これが、真祖の力……!」

 

 

 

 アレクサンドラは、思わず息を呑んだ。

 

 その体から発せられる威容には、見覚えがあった。

 ハロルドの局長執務室、壁に掛けられていた巨大な絵。

 翼を広げ、天より地を見下ろす『偉大なる赤き竜』。

 

 今のジャックには、あの絵画に描かれた存在と同じ圧があった。

 祈りの対象というよりも、審判そのものが具現化したような威圧感。

 

 そして同時に、鐘上に磔にされた男───竜公(ドラクル)を、若く、(しな)やかで、かつ凶暴に再誕させたようにも見えた。

 

 ジャックの目が、紅く光る。

 

「ああもう滅茶苦茶だな! いい加減にしろどいつもこいつも、こちとら三日目の新人審問官だって言ってるだろうが!」

 

 真正面から受け止めれば、足が竦む。

 

 相手はもはや、警邏隊に潜んでいた小柄な青年ではなく、神に近づいた何かなのだから。

 

 だから、アレクサンドラは怒鳴った。

 恐怖を怒声に変え、言葉にして吐き出す。

 そうしなければ、剣を抜く手が遅れてしまいそうだった。

 

 

 アレクサンドラは、腰のダモクレスの剣へ手を伸ばした。

 

 審問官の証。竜裔を殺しうる刃。

 本来なら、それを抜くことには重い意味がある。

 

 だが今は、その意味を噛み締めている余裕などなかった。

 

 抜かなければ死ぬ。

 

 アレクサンドラは、半ば自棄を起こしながらダモクレスの剣を鞘から引き抜いた。

 

 銀白の刀身が、鞘から走る。

 

「……!」

 

 ジャックの反応は速かった。

 

 アレクサンドラが剣を抜いた瞬間、すでに銃口がこちらを向いている。

 

 変貌で増したのは膂力だけではない。

 視線、判断、指先の動き。そのすべてが、先ほどまでより一段速い。

 

 ジャックは、無言でアレクサンドラに対して発砲する。

 

 銃声が響いた。

 

 弾丸は、目で追えるものではない。

 普通なら、避けることも、受けることもできない。

 

 だが、アレクサンドラは迷わなかった。

 抜き放つ動作を、そのまま斬撃に変える。

 

「舐めるな小男が!」

 

 銀白の刃が走り、火花が散った。

 飛来した弾丸が、刃の上で二つに裂ける。

 

「!」

 

 ジャックの目が、わずかに見開かれた。

 

 驚きは一瞬だけだった。

 すぐに表情は冷え、次の手へと移る。

 

 アレクサンドラが弾丸を斬るのであれば、それも考慮に入れた上で崩せばいい。

 彼の判断は早かった。

 

「ならば!」

 

 そのままヴィクターも含めてもう一発ずつ発砲した。

 ジャックはアレクサンドラに接近し、格闘戦を仕掛けようとする。

 

「存在だの才能だの、知らねえよ」

 

 ジャックの発砲に合わせて、ヴィクターも動いていた。

 

 ヴィクターの顔に浮かんでいたのは、怒りだった。

 

 ヘンリーの才能。進化薬。そして、竜裔(ドラキュラ)を超えた、真祖(ドラクル)の力。

 

 ジャックはそれらを誇るように口にした。

 そのことが、ヴィクターには我慢ならなかった。

 

 ヴィクターは、青筋を立てながら改めて宝剣を構える。

 

「例えヘンリーが優秀だろうが、それが原因で……驕った竜裔のくだらねえ色恋のせいでなあ、人が二人も死んでんだよ……!」

 

 ヴィクターにとっては、ヘンリーの才能の有無などどうでもよかった。

 

 その脳裏に浮かぶのは、臨月の腹を裂かれたメアリ・ウォレン。

 生まれる前に、母を奪われた赤子。

 姉のように慕うメアリを失った孤児院の少年は世界を憎み、恩讐の連鎖はあの赤毛の警邏隊長を死なせるに至った。

 

 才能があったから何だ。

 愛していたから何だ。

 その果てに誰が死んだのか、忘れたとは言わせない。

 

「審問官として正当に裁いてやろうと思ってたけどな。やめだ。てめえがその気なら本気で殺してやる。ヘンリーの才能とやらが塵芥と同然だと証明してやるよ……!!」

 

 ヴィクターの声は、低く、鋭かった。

 

 これまで彼は、面倒を嫌っていた。

 目の前であの警邏隊長を失うまでは、審問官という肩書きにも、ダモクレスの剣にも、どこか距離を置いていた。

 

 だが今、彼は自ら、殺すと言った。

 目の前の相手を止めるために、命を奪う覚悟を口にしたのだ。

 

 

 ヴィクターは身を沈め、弾丸をすんでのところで躱した。

 頬を掠めた熱が、皮膚に細い痛みを残す。

 

 だが、止まらない。

 彼はむしろ加速した。

 

 狙うはジャックの喉元ただ一点。

 

 相手が(かみ)に近づいたのなら、中途半端な傷では止まらない。

 ならばどうするか。

 ヴィクターは真っ先に、相手の口を塞ぐことを選んだ。

 

「塵芥とは思わないが、そこはそれ。別に殺したいわけではないが……私は死ぬ気はないから、君がここで死んでくれ」

 

 アレクサンドラもまた、弾丸を避けた。

 

 ヴィクターほど感情を爆発させているわけではないが、彼女の中でも結論は出ていた。

 

 ジャックの思想には、理解できる部分もある。

 ヘンリーの才能を完全に否定する気もない。

 けれど、それと自分が死んでやることとは別問題だった。

 

 

 ジャックは、アレクサンドラへ向けて踏み込んだ。

 

 そう見えた。

 少なくとも、彼女には。

 

 銃口、視線、足の向き。

 すべてがアレクサンドラを狙っている。

 だから彼女は剣を構え、その接近を受け止めようとした。

 

 

 

「────そう来るだろうと思ったよ」

 

 

 

 だが、次の瞬間、ジャックの踵が床を蹴った。

 

 狙いはアレクサンドラではなかった。

 その背後からジャックに接近していた、ヴィクターの方だった。

 

 

 ジャックの唇が、弧を描いた。

 

 

 ジャックは跳躍し、ヴィクターとの間を急激に詰める。

 

 そこには、ジャックの喉元を貫かんと伸ばされた、ヴィクターの腕と剣があった。

 

 ジャックは、ヴィクターの剣を正面から受けることをしなかった。

 

 左手の拳銃を逆手に持ち、そのグリップで剣先を軽く叩く。

 剣の軌道がわずかに下へ逸れた。

 

 力の問題ではない。角度とタイミング。

 ほんの僅かな数字のずれが、致命的な隙を生む。

 

 

 ヴィクターは目を見開いた。

 

 

 なぜなら、それをした上でジャックは、剣を避けることも、受けることもしなかったからだ。

 

 ジャックは、自ら刃の先へ身体を進めた。

 

 

 宝剣の切っ先が、彼の腹部へ沈む。

 肉を裂き、骨に当たり、内側へ食い込む感触が、柄を通してヴィクターの手に伝わった。

 

 だが、ジャックは笑っていた。

 

 痛みを無視しているのではなく、痛みごと計算に入れていたのだ。

 

 

「肉を切らせて骨を断つ……その手の剣がダモクレスでないことが仇になったな」

 

 

 ヴィクターの掌中にあったのがダモクレスの剣ならば、話は大きく違っただろう。

 竜裔を殺すための聖具であれば、真祖に近づいた身体にも致命傷を与えられたかもしれない。

 

 だが、ヴィクターが今握っているのは、エヴァンズ家の宝剣にすぎない。

 鋭く、よく鍛えられた刃ではある。

 しかし、竜裔を殺すための刃ではない。

 

 ジャックの肉体は、その傷を塞ごうと蠢き始めていた。

 

 ヴィクターは剣を引こうとした。

 

 抜けない。

 

 刃の周囲の肉が締まり、まるで剣そのものを飲み込むように固定していた。

 次の瞬間、ジャックの手がヴィクターの襟元を掴む。

 

 距離が詰まる。

 逃げられないことを、ヴィクターは悟った。

 

 

 カチャリ、と。

 ヴィクターの眉間に、銃口が押しつけられた。

 

 

 冷たい金属が、ヴィクターの銀髪を分けて、額に触れる。

 

 ヴィクターは、無意識のうちに自らの呼吸を止めていた。

 

 

 引き金にかかったジャックの指が、わずかに動く。

 

 

 鐘楼の外では、日没へ向かう光が、霧の向こうでさらに薄まろうとしていた。

 

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