竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
ジャックの言葉は、鐘楼の間にしばらく残響していた。
世界を問い続けろ。
それは呪いのようでもあり、先達に課せられた宿題のようでもあった。
「……」
アレクサンドラも、ヴィクターも、すぐには何も言わなかった。
剣を突きつけたまま、霧へ
頭上では、
窓の外では、
「……そういえば」
沈黙を破ったのは、アレクサンドラだった。
彼女は、ジャックの首筋に突きつけていた剣をわずかに下げる。
警戒を解いたわけではない。
ただ、もうこの男が戦える状態ではないことを見て取ったのだ。
それに、ここまで来てなお、彼女の中の好奇心は死んでいなかった。
目の前の男が何者であったのか。
ジェーン・リードでも、ジャックでもない、本来の名を。
「お前、本名を聞いてなかったな。この際だ、教えてくれてもいいんじゃないか。どうも君は教えたがりのようだし」
ジャックは、少しだけ笑った。
「……フ、それもそうだな」
偽名を重ねてきた男だった。
ジェーン・リード。
ジャック。
どちらも彼を指す記号であり、同時に彼自身ではなかった。
ジャックは壁にもたれたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。
身体はすでに霧へ溶け始めている。
だが、その声はまだ明瞭だった。
まるで、最後の授業を始める教師のように。
あるいは、処刑台の上で自分の罪状を読み上げる死刑囚のように。
「俺の先祖は、元々、罪を犯した竜裔を処断する処刑人の一族だった」
ヴィクターは、わずかに眉を動かした。
「もっとも、その役割は今や君たち審問官に取って代わられたがね」
竜裔を裁く者。
竜裔を殺す者。
いまその役割を担うのは審問官だ。
だが、かつてその前身となるような者たちがいたのだとすれば。
ジャックの一族は、教会秩序の外側にいる異端者ではなかった。
むしろ、その最奥に近い場所で、死を扱ってきた者たちであったはずだ。
「我が一族は、竜裔を殺すための"死の技法"を継承することを密命として竜公に課されてきた」
死の技法。
その言葉は、鐘楼に吊るされた
「"死の技法"、古典語で
竜裔は永き時を生きる。
少なくとも、普通の方法では死に至らない。
だからこそ、竜裔を死なせるための技が必要だった。
そして、それを受け継ぐ一族がいた。
「故に、"未だそれに達せざるもその頂を目指す者"として、竜公にこの姓を賜った」
死に方の技術。
あるいは、死なせ方の技術。
「
そこから与えられた姓。
「モリアーティ……ジェームズ・モリアーティだ、俺の名は」
青年は、薄れゆく身体でなお、どこか誇らしげに笑った。
ジェームズ・モリアーティ。
霧に消えようとしている男が、最後に告げた、自分自身の名。
「……。仕方ねえな。報告書にはそう記しといてやるよ」
ヴィクターは、少しだけ目を伏せた。
霧に消える竜裔は、血も肉も、形見すら何も残さない。
ならば、せめて報告書に名を残す。
それが審問官としての、最低限の手向けだと、ヴィクターは考えた。
「ジェームズ。
アレクサンドラは、剣を下ろしたままジェームズを見ていた。
彼は敵で、止めるべき相手だった。
多くの死を引き起こした張本人でもある。
それでも、彼の語ったもの全てをくだらないとは斬り捨てられなかった。
世界の仕組みを知りたいという欲求。
隠された歴史に手を伸ばしたいという好奇心。
その点においては、アレクサンドラはジェームズに共感していた。
「……そうか、危ない奴だ」
ジャックは、くつくつと喉を鳴らして笑った。
ヴィクターは、心底嫌そうな目でアレクサンドラを見た。
「ならば、それに免じて一つ試させてくれないか?」
ジャックは笑いながら、二人に提案を投げかけた。
「竜裔が死を迎える場に居合わせられることは少ない。モリアーティの一族の者として、自らの身であっても実験しておきたくてね」
彼の身体はもう長くは保たないだろう。
切断された腕も、ダモクレスに断たれた傷も、霧に変わりつつある。
ペンキを塗りたくったような、血に濡れた壁からも、赤が消えつつある。
しかし、その目にはまだ探究の光が残っていた。
死にゆく者の目ではない。
死そのものを観察しようとする者の目───その対象が、自分自身の死であったとしても。
「竜裔ってのはどうしてこうも……ハア、好きにしろ。ただし妙な事すりゃ即座に叩っ斬るからな」
ヴィクターは深く溜息を吐いた。
ヘンリーも、ジェームズも。
竜裔というものは、なぜこうも自分の身体を実験材料にしたがるのか。
理解できない。
理解したくもない。
とはいえ、ジェームズが今さら何かを企んだところで、ダモクレスの剣はすぐ届く位置にある。
「ああ、ありがとう」
ジェームズは、謝意を述べながら、少しだけ視線を上げた。
頭上には、磔にされた
自ら死に続けることを選び、竜敦の霧を生み出し続ける存在。
その姿を見上げながら、ジェームズは新たな秘密を口にした。
「君たちは、竜裔が自ら命を断つことができないと知っているか?」
「らしいな。それがどうした」
ヴィクターは、以前テオドリックが言っていたことを思い出した。
自ら死を選べない。
それは、長命な種族にとって祝福ではなく、呪いでもあった。
終わりを選べない。
竜裔は、自裁することができない種族であった。
「────それはな、真祖ドラクルが自らにそう呪いをかけたからだ」
ジェームズの言葉を聞いて、アレクサンドラは磔の男を見上げた。
「竜公は、永い時をかけて死に続けることを自ら選んだ。それを反故にすることのないよう、自らが永い時のなかで狂ったとしても、その契りを破ることのないように、な」
永い時をかけて
その契りを破らないために、自らに自死できない呪いをかける。
それは献身と呼べるのか。
執念と呼ぶべきなのか。
もはや、彼女には分からなかった。
「そして、その血の呪いは、同じ血を引く我々竜裔をも縛っている」
「面白い話だね。それで?」
ジェームズは、壊れた窓の方へ目を向けた。
「ここでひとつ疑問がある」
時計塔の外には、薄くなり始めた霧と、暮れかけの空がある。
「────もしここで、俺がこの塔から身を投げたらどうなると思う?」
この高さから落ちれば、普通なら助からない。
竜裔であっても、ダモクレスの傷を負った今の身体ではどうなるか分からない。
だが、問題はそこではない。
彼が試そうとしているのは、肉体の強度ではなく、呪いの解釈だった。
「死ぬためではなく、君たちから逃げて生き延びようと強く自分自身で信じたとき、竜公はそれをどのように裁定するのか、気になってね」
死ぬために落ちるのではない。
逃げるために落ちる。
そのように自分自身が信じたなら、それは自死ではなく逃走になるのか。
真祖の血の呪いは、そこにどのような裁定を下すのか。
ジェームズはそれを、自分の命で試そうとしていた。
「……!? おい、ふざけた真似したら斬るって言っただろうが……!!」
ヴィクターの反応は早かった。
ジェームズが何をしようとしているのかを理解した瞬間、ダモクレスの剣を握ったまま踏み込む。
今度こそ逃がすわけにはいかない。
「それは……確かに、ちょっと気になるが。流石に見逃すわけにはいかないんじゃないか」
一方で、アレクサンドラは一瞬だけ目を細めた。
たしかに気になる。その実験の結果は知りたい。
だが、知りたいから見逃すという選択は、もうしないと決めたばかりだった。
ジェームズは、二人を見た。
アレクサンドラ。
ヴィクター。
この数日間、自分の残した一冊の本の謎を追い、ここまで辿り着いた審問官たち。
敵であり、証人であり、自分の最後の問いを受け取った者たち。
ジェームズは、どこか晴れやかな顔で笑った。
「────じゃあな、楽しかったぜ。アレクサンドラ、ヴィクター」
言い終えると同時に、ジェームズの身体が傾いた。
倒れるように。
眠りにつくように。
あるいは、舞台から退場する役者のように。
彼は鐘楼の開口部から、外へ身を滑らせた。
ジェームズはそのまま、倒れこむように鐘楼の間から身を投げた。
ヴィクターの手が、ジェームズの襟元へ伸びた。
だが、指先は布を掠めただけだった。
掴めない。
引き戻せない。
ジェームズの身体は、霧の中へ落ちていく。
「……っクソ!」
アレクサンドラは、開口部の縁まで歩み寄った。
止めるべきだった。
止められなかった。
「ああ……遅かったか。さて、どうなったやら。興味はあるが……」
だが、その結果がどうなるのかを知りたいと思ってしまう自分もいる。
そのことに、彼女は少しだけ顔をしかめた。
落ちる。
落ちてゆく。
ジェームズは落下していた。
風が耳元で唸る。
時計塔の石壁が、視界の端を上へ上へと流れていく。
地面はまだ遠い。
ジャックは、自然と
先ほど彼は、自分が生き残るための実験だと言った。
竜公の呪いが、自死と逃走をどう裁定するのかを試すのだと。
だが、それは半分だけ本当だった。
本当の願いは、別にあった。
ジェームズは落下する中で、想っていた。
先ほどの言葉とは裏腹に、ジェームズは、自分が生き残るためではなく、別の相手を想っていた。
落下の中で、ジェームズは目を閉じた。
思い浮かべたのは、地上ではない。
逃げ道でもなく、自分の命でもない。
鐘楼の上で、なお
────かみさま、ぼくたちのおとうさま
いままでつらいおもいをさせてごめんなさい
ねがわくば、せめて──────
それは、理想を夢見た革命家の祈りではなかった。
処刑人の末裔の祈りでもなかった。
ただ、長く苦しみ続けている父へ向けた、子の祈りだった。
「せめて────どうか一夜の安息を」
その願いが、竜敦の霧に触れた。
ジェームズの身体は、地面に叩きつけられる前に輪郭を失った。
血も、肉も、骨も、落下の衝撃さえも、白い粒子へほどけていく。
竜裔の死。
"霧隠れ"。
そして、"最期の奇跡"。
ジェームズ・モリアーティは、霧となった。
◇ ◇ ◇
その晩、ホワイトチャペル教区の路地。
眠れずに外へ出た孤児院の少年が、白い息を吐きながら空を見上げていた。
姉と慕ったメアリを失ってから、夜はひどく長くなった。
目を閉じれば、泣き声と、血と、あの日の光景が戻ってくる。
けれどその夜、少年はふと外へ出てみたくなった。
路地の先が、いつもより明るかったからだ。
「今夜は、ずいぶん月が明るいねぇ」
その声を聞いて、孤児院の少女が戸口から顔を出した。
肩掛けを羽織り、眠そうに目を擦っている。
普段なら、この時間のホワイトチャペルは霧に沈んでいる。
ガス燈の明かりもぼやけ、向かいの壁すら白く霞む。
それが、今夜は違った。
「霧がない?」
「ないわけじゃないよ。たぶん……いつもより薄いんだ」
二人は、なぜ霧が薄いのかを知らない。
時計塔で何が起きたのかも。
ジェームズ・モリアーティという男が、最後に何を祈ったのかも。
「でも、たまにはこういう夜もいいね」
ただ、いつもより明るい夜を見上げている。
それで十分だった。
「だって────こんなにも、月が綺麗なんだから」
時計塔の崩れた窓の向こう。
今宵は、
いつもなら、街路を、橋を、教会の尖塔を、区画ごと呑み込んでいるはずの白い帳が、今夜だけは薄かった。
もちろん、完全に消えたわけではない。
それでも、街は見えていた。
石畳の継ぎ目が見えた。
薄闇《テムズ》川の川面が見えた。
黒く濡れた屋根瓦の一枚一枚までが、月の光を照り返していた。
竜敦は、初めて自らの輪郭を晒していた。
恩寵の帳が消えたわけでもない。
竜敦の歴史が、今夜すべて変わったわけでもない。
世界は、変わらなかった。
ただ、この一夜だけ。
ほんの、一夜だけ。
赤き竜は、数百年も続いた苦痛の先で。
たった一夜の、安らかな眠りを得たのだった。