竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

39 / 40
結審

 それから、公会議は恙なく進行した。

 

 枢機卿たちが議題を読み上げ、有力な竜裔たちは例年通りに頷き、祈りの言葉は滞りなく大聖堂に響いた。

 

 時計塔で何が起きたのか。

 竜敦《ロンドン》の霧が、なぜ一夜だけ薄れたのか。

 その場に集う者の多くは、何も知らない。

 

 知らないまま、彼らはこれまでと変わらぬ竜公の御代────Anno(アノ・) Draculi(ドラクリ)言祝(ことほ)ぎ、会議の幕は閉じた。

 

 

 ジェームズ・モリアーティが夢見た"三冊目"、民の時代(アノ・デモクラティ)はいまだ遠く、それを知る者もまた、限られていた。

 

 その限られた者のうち、二人────アレクサンドラ・テリオンとヴィクター・エヴァンズは、再び審問局長執務室に立っていた。

 

 

 壁には、巨大な絵が掛けられている。

 

『偉大なる赤き竜』。

 翼を広げ、天より地を見下ろす赤き竜の姿。

 

 初めてこの部屋に入った時、アレクサンドラはそれを審判そのものの具現のように見た。

 

 だが今は違う。

 

 彼女は、時計塔の鐘楼で磔にされ、死に(生き)続けていた男の姿を思い出していた。

 絵の中の赤き竜は、何も語らない。

 ただ、かつてとは違う視線で、彼女たちを睥睨しているように思えた。

 

 

 執務机の向こうには、局長ハロルド枢機卿が座している。

 

 アレクサンドラとヴィクターはその前に並び、その傍らには、テオドリックの姿もあった。

 

 

 数日前、この部屋で彼らは任官し、初任務の報告を行った。

 

 その時と同じ部屋。

 同じ絵。

 同じ机。

 

 だが、彼らの認知している世界の有り様は、あの時とで一変していた。

 

「……これより語られる事柄は、我らが竜敦国教会異端審問録に収められる」

 

 異端審問録。

 

 それは、審問局が扱った異端事件の記録である。

 誰が、何を行い、いかなる思想を抱き、どのように裁かれたのか。

 そのすべてが、教会の歴史として記される。

 

 だが、記録されるものが真実のすべてとは限らない。

 

 記される真実と、記されない真実がある。

 アレクサンドラとヴィクターは、この数日間で否が応でもそのことを理解させられていた。

 

「心して語るがよい」

「はっ!」

「……承知した」

 

 威勢のいい声を上げるテオドリックとは裏腹に、ヴィクターは相変わらず面倒臭そうに答えた。

 

「承知しました」

 

 ほんの少しの間を置き、アレクサンドラも返事をする。

 

 ハロルドは、審問官たちの返事に頷きで答えると、机上に置かれた空白(ブランク)の多い記録簿へと目を落とした。

 

 そこにこれから、事件のあらましが刻まれる。

 

 生きた(死んだ)者たちの悲鳴も、怒りも、祈りも、平面的な文字の綴りへと捨象されるだろう。

 

 しかしながら、記録とは、歴史とは。得てしてそのようなものでしかなかった。

 

「ではまず、審問官アレクサンドラ・テリオン」

 

 ハロルドの呼びかけに、アレクサンドラは身じろぎした。

 

「ホワイトチャペル教区にて発見された遺体……そこから始まった"異端事件"について、そのあらましを陳述せよ」

 

 アレクサンドラは一度だけ息を吸った。

 

 メアリ・ウォレン。

 報告書の上では、被害者名として記される女。

 だが、彼女は孤児院で子どもたちに慕われ、誰かの母になろうとしていた人間だった。

 

 そのことを、記録が拾い上げることはないだろう。

 

「発見された遺体の名はメアリ・ウォレン。

彼女は腹部を中心に滅多刺しにされて殺害されており、事件現場には一冊の本が残されていました。

また、事件現場から立ち去ったものはおらず、犯人はまるで現場から消失したかのような状況でした」

 

 アレクサンドラは、全ての始まりとなったこの事件を、改めて思い返していた。

 

 

「一見不可解なこの事件は、二つの事件から構成されていました。

第一に、メアリ殺害事件。そして第二に、メアリ殺害者殺害事件。

第一の事件・メアリ殺害事件の犯人は竜裔であるヘンリー・ジキル。

そしてそのヘンリー・ジキルはダモクレスの剣を加工した弾丸による狙撃で殺害され、事件の発見者となった警邏隊巡査が現場に本を置いたと言うのが真相でした」

 

 

 ハロルドは、アレクサンドラの陳述を遮らなかった。

 最後まで聞き届けた後、静かに頷く。

 

 その表情からは、どこまで知っているのか読み取れない。

 ただ一つ確かなのは、彼がいま必要としているのは、真実そのものではなく、記録に収められる形に整えられた「真実」だということだ。

 

「宜しい」

 

 続いて、ハロルドの視線はヴィクターへ移った。

 

「次に、審問官ヴィクター・エヴァンズ」

 

 ヴィクターはわずかに眉をひそめる。

 面倒そうな顔は相変わらずだが、もう隙を見て逃走しようという気はなかった。

 

「その警邏隊巡査は、何の目的を以って、事件現場に本を残したのか?」

「……結論から言えば、事件現場に本を残したのは異端思想としてメッセージを伝えるためだった」

 

 ヴィクターは、少しだけ間を置いて答えた。

 

 本当は、それだけの目的ではないことを、彼は知っていた。

 

 

「メアリ殺害者殺害事件の犯人──ジャック一派は"竜公の御代(アノ・ドラクリ)"を超えたその先……"民の時代(アノ・デモクラティ)"を実現しようと画策していた。

ダモクレスの剣を弾丸として加工し、竜裔の殺害手段を得たのもその為だ」

 

 しかしヴィクターは、ここで語るべきこととそうでないこととを取捨選択した。

 

「故に、我々はジャック一派を赤き竜に仇なす者と裁定するに至った。……これが、本事件の大まかな全容だ」

 

 ハロルドが羽根ペンを走らせる音だけが響いた。

 

 紙の上に、事件が固定されていく。

 語られたものだけが記録となり、語られなかったものは霧の中に取り残される。

 

「然と記した」

 

 そして、ハロルドはテオドリックへ視線を移した。

 

「最後に、審問官テオドリック・ファリガ」

 

 テオドリックの表情は、いつものように明るくはなかった。

 

「卿が捕らえた、ジャック一派の手の者を、ここに」

 

 彼は時計塔でセバスチャンと刃を交え、そして捕らえた。

 

 その相手を、これから正式に被告人として差し出さなければならない。

 

「はっ……既に、扉の前で待たせてあります」

 

 テオドリックは、執務室の扉へと歩みを進め、ゆっくりとそれを開いた。

 

 局長執務室の扉の向こうで待たされていた人物が、入室(入廷)する。

 

 その人物の代名詞であった黒いフロックコートは取り上げられ、両手には手錠が嵌められている。

 

 それでも、その人物の姿勢は崩れていなかった。

 

「……」

 

 テオドリックに伴われて入ってきたのは、セバスチャンだった。

 

 しかし、その歩き方は虜囚のようには見えなかった。

 セバスチャンは、静かな足取りで、部屋の中心に立った。

 

「……被告人、名は?」

 

 ハロルドの問いに、セバスチャンは一度だけ伏せていた目を上げた。

 

「……セバスチャン」

 

 その声に怯えはない。

 抵抗もない。自分が何を背負うのかを、セバスチャンは既に決めていた。

 

「姓は?」

「……モラン。セバスチャン・モランと申します、枢機卿猊下」

「……」

 

 

 セバスチャン・モラン。

 

 その名を聞いた瞬間、テオドリックは目を逸らした。

 彼にとって、セバスチャンはただの被告人ではなかった。

 

 だが、その理由を彼がここで語ることもまたなかった。

 

「セバスチャン・モラン。汝は、ダモクレスの剣の破片を弾丸に加工し、竜裔ヘンリー・ジキルを狙撃した。相違ないか?」

 

 ハロルドの声は一定だった。

 

 そこに怒りも同情もない。ただ、罪状を一つずつ確認するだけのものだ。

 

 セバスチャン・モランが何を思い、誰のために動いたのか。この場で、それが問われることはない。

 

 問われるのは、その行動のみであった。

 

「はい、間違いございません」

 

 相対するセバスチャンにも迷いはなかった。

 

 その罪がどれほど重いものか。

 それを認めれば、どのような裁定が下るか。

 理解していないはずがない。

 

 それでも、セバスチャンは静かに頷いた。

 

「宜しい」

 

 そして、続く問いこそが、核心だった。

 

 

「次に、汝モランは、メアリ殺害事件の現場に本を残した警邏隊巡査と、如何なる関係にあるか?」

 

 

 警邏隊巡査ジェーン・リード。

 その正体であった青年。

 ジャックと呼ばれ、最後にはジェームズ・モリアーティと名乗った男。

 

 セバスチャンがその名を語れば、審問録にはそれが「真実」として残るだろう。

 

 

「……黙秘します」

 

 

 セバスチャンは、そこで初めて沈黙した。

 

 答えられないのではない。

 答えないのだ。

 

 死んだ主の名を守るために、セバスチャンは黙秘してみせた。

 

「大佐……」

 

 テオドリックの口から、小さくその呼び名が漏れた。

 

 大佐。

 それが、セバスチャン・モランを示す呼び名なのか。この場では誰も問い返さなかった。

 

 

 テオドリックとセバスチャンがいかなる関係にあったのか、それを知るのは当人同士のみだった。

 

 

「ふむ。それでは汝の犯した罪の分限が定まらぬが、よいのか?」

 

 ハロルドは、セバスチャンをじっと見据えた。

 

「はい、構いません」

「ジャック一派、その全ての責が汝にあると捉えられることになろう。それでも構わぬと?」

「────ええ、望むところです」

 

 セバスチャンは、口元を緩めた。

 

「……ふむ」

 

 その答えを聞いて、ハロルドはしばし沈黙した。

 執務室に、羽根ペンの音だけが響く。

 

「……それでは、此度の"異端事件"について、裁定を下す」

 

 

 真実とは、ただ事実を明らかにしたものではない。

 時に、秩序のために形を変えられる。

 

 

「被告人セバスチャン・モランを、ジャックなる一派の首領と見なし────」

 

 

 そして審問局長は、その権限を持つ者だった。

 

 

「────"異端"として、認定する」

 

 

 

 異端。

 

 その裁定が下されると、竜敦に生きる人は祈りの共同体から切り離され、教会秩序の外へと置かれる。

 

 セバスチャン・モランは、その言葉を静かに受け止めた。

 

「明日にでも、新門(ニューゲート)監獄の地下に移送されるであろう」

 

 新門監獄の地下。

 

 その言葉を聞いて、アレクサンドラは鉄格子の向こうにいた青い眼の囚人を思い出した。 

 

 シャーロック・ホームズ。

 あの男と同じ場所へ、セバスチャン・モランも送られることになる。

 

「このまま、懺悔室へと向かうがよい」

「猊下のご寛恕に、感謝いたします」

 

 セバスチャンは深く頭を下げた。

 

 敗者の礼ではなかった。

 主の名を守る機会を与えられたことに対する、執事としての、最敬礼であった。

 

「テオドリック……咎人を連れて行け」

「はっ! ……着いて来るんだ」

 

 

 テオドリックは、短く息を吐いた。

 

 セバスチャンとはもう少し別の形で話をしたかった、と彼は胸中で嘆いた。

 

 だが今は、審問官として咎人を連れていく。

 テオドリックはその任務に従事するだけだ。

 

 セバスチャンは一礼し、テオドリックに伴われて局長執務室を後にした。

 

 

 扉が閉じる。

 ぎぃ、と木が軋むその音は、事件の一つの終わりを告げるようだった。

 

 

 部屋には、ハロルドと、アレクサンドラと、ヴィクターが残されていた。

 事件は裁かれ、異端が認定され、それが審問録に収められた。

 

 だが、アレクサンドラとヴィクターは知っている。

 

 時計塔で見た、竜公(ドラクル)の姿。

 "恩寵の帳"の正体。

 

 そして、ジェームズ・モリアーティの最期。

 

 

 それらが、審問録に収められることはない。

 

 

 

「─────これにて、結審とする」

 

 

 

 ハロルドの声が、赤き竜の絵の下で静かに響いた。

 




次回、最終話
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。