竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
セバスチャン・モランが連行され、扉が閉じられた後も、局長執務室の間にはしばらく沈黙が漂っていた。
本件は、ついに結審を迎えた。
事件は記録され、異端認定された咎人は裁かれることなった。
だが、すべてが終わったわけではない。
ハロルド枢機卿の視線が、今度はヴィクターへ向けられた。
「……して、ヴィクター・エヴァンズ」
ヴィクターは、目線だけを真っすぐに向けた。
「卿の肩には今、銀地に赤の逆十字は無い。そうだな?」
「……ああ。相違ない」
逃げる気はない。言い訳をする気もなかった。
謹慎中の身でありながら現場に出向き、ダモクレスの剣を抜いた。
結果としてジャック───審問録に語られざるジェームズ・モリアーティを止めたとはいえ、手続き上の問題が消えるわけではない。
彼は、どのような処分を下されても受け入れるつもりでいた。
銀地に赤の逆十字。
それは、竜敦国教会審問局に所属する審問官の身分を示す、肩掛けマントの意匠だった。真実を追う者であることを、外へ示すための標識である。
ヴィクターの肩には、いまそれが無い。
「然るに、その腰にはダモクレスの剣を佩いている」
だが、その腰にはダモクレスの剣があった。
「……釈明は聞かぬ」
本来なら、ありえない状態だった。審問官としての装備を外されていた者が、審問官の証たる剣だけを佩いている。
それがウォルターの祈りによるものだとしても、審問局の規則がそれをそのまま認めるとは限らなかった。
「……ああ。どのような処遇でも受け入れる所存だ」
ヴィクターは一瞬だけ目を伏せた。
ウォルターが返してくれた剣。
その剣によって、ジェームズを止めることができた。
ヴィクターは、それを理由に処分を免れようとは思わなかった。
剣を手放さなかったことも、命令に背いて現場へ向かったことも、自分の選択だと、胸を張って誇るために。
「何を言っている?」
だが、ハロルドは眉ひとつ動かさなかった。
叱責が来る。
そう思っていたヴィクターは、次の言葉にわずかに目を瞬かせることになる。
「……?」
「卿は先刻、我が"審問官ヴィクター・エヴァンズ"との呼びかけに応え、答弁を行ったではないか」
ハロルドは、先ほど閉じられたばかりの審問録へ視線を落とした。
「そして、審問録にもそのように記された」
そこには、すでに記されていた。
審問官ヴィクター・エヴァンズ。
その名で答弁し、その名で事件の全容を陳述した者として。
記録とは、時に人を縛る。
しかし、時に人の立場を定め、正当化するものでもあった。
「肩掛けマントは審問官の制式装備だ。それを着け忘れるとは、なっておらぬな、新人審問官」
ハロルドから下されたのは、処分の宣告ではなかった。
ヴィクターを審問官ではない者として裁く言葉ではなく、審問官である者が、制式装備を忘れていることへの軽い叱責だった。
つまり、ハロルドは彼を罷免しないと言ったのだ。
謹慎処分を受けながらにしてそれを反故にした者ではなく、制服を忘れた怠惰な新人審問官として扱ったのだった。
「……」
ヴィクターは、ぽかんと口を開けた。
普段の彼なら、皮肉の一つでも返しただろう。あるいは、面倒臭そうに舌打ちでもしただろうか。
しかし、その時ばかりは言葉が出なかった。処分を覚悟していた分だけ、叱責の体をした赦しに、反応が追いつかなかったのだ。
「……後で取ってくる…………」
ヴィクターは、溜息のような、どこか安堵したような長い息を吐いた。いつもの面倒臭そうな溜息とは少し違った、肩の力が抜けるような音だった。
「テリオン、被告エヴァンズを連れて行け」
「はい、猊下」
ハロルドの声には、ほんのわずかに、ヴィクターをからかう含みがあった。
アレクサンドラは、そんな彼の珍しい表情を見て、心底面白そうに目を細めている。
「宜しい……よくやった、二人とも。これからも審問官としての務めを果たしてほしい」
ハロルドは、二人を見た。
着任してわずか数日。その間に、二人は異端事件を追い、それを解決してみせた。
「……失礼する」
ヴィクターは、少しだけ口元を緩めた。
珍しい笑みだった。
皮肉でも、嘲りでもない。自分でもその表情に気づいていないような、短い笑み。
彼は会釈し、扉へと身を翻す。
「……承知しました。では、失礼いたします」
アレクサンドラは、その笑みを見逃さなかった。それだけで、今日一日分のからかう材料を得たような顔をしている。
だが今は、何も言わない。
彼女はにっこりと楽しげに笑って一礼し、ヴィクターの後に続いた。
局長執務室の扉が閉じる。
重かった空気が、少しずつ背後へ遠ざかっていく。
それらは消えたわけではない。
だが、廊下へ出れば、そこには革靴の音と、書類を運ぶ局員たちと、いつもの審問局の日常があった。
しばらくして、ヴィクターは銀地に赤の逆十字を肩に掛け、審問局の玄関口へ姿を現した。
「──数日ぶりだが、改めて着るとこのマントいやに重いな……。肩が凝ってしょうがねえ」
ヴィクターは、頭を搔きながら、怠そうに審問局から出てくる。
数日前までは、ただの制式装備にすぎなかったもの。それが今や、ヴィクターには妙に重く感じられた。
布の物理的な重さではないだろう。そこに積もった、意味の重さゆえか。
「あはは。似合ってるぞ、ヴィクター。マントなしだとまだ学生みたいだったが、今はちゃんと審問官に見えなくもない」
アレクサンドラは、そんなヴィクターを上から下まで眺めた。
普段の気怠げな姿勢は変わらない。
髪も少し乱れている。
表情も相変わらず面倒臭そうだ。
顔は良い。
銀地に赤の逆十字を肩に掛け、腰にダモクレスの剣を佩いたヴィクターの姿は、
「うるせえよ。……ハア、謹慎中の方が面倒がなくて楽だったのによ……」
ヴィクターは鼻を鳴らした。
だが、肩からマントを外そうとはしなかった。
腰の剣にも、もう文句は言わない。
「相変わらずだな。お前がいないと私も面白くないから、また謹慎になるのは勘弁してくれよ?」
アレクサンドラは、からかうように笑った。
「俺はお前の玩具かよ……。……だがまあ、剣をちゃんと腰に佩いてねえとまたどやされちまうからな」
ヴィクターの手が、無意識に腰のダモクレスの剣へ触れた。
"次は手放すなよ"、というウォルターの声が、まだ耳の奥に残っている。
「仕方ねえから、もう少しは真面目に働いてやるよ」
剣を佩くということ。
審問官であるということ。
ヴィクターにとって、その意味は、入局初日とは全く別の物になっている。
「どちらかと言うと私がお前に面倒かけられてる方だと思うんだが……。君が真面目にやるなんて言い出すのは珍しい。その調子でこれからも頼むよ、ヴィクター」
「……アレクサンドラ」
アレクサンドラの声を聞き流すようにしながら、ヴィクターはふと足を止めた。
何かを言うべきだと思った。
ヴィクターは珍しく、言葉を探しているようだった。
「何だ、ヴィクター」
「これから先も、お前だけは……」
「……」
アレクサンドラは、黙って続きを待った。
からかわなかった。
急かしもしなかった。
ヴィクターが言いかけた言葉が、いつもの悪態ではないと分かったからだ。
だが、彼はそこで視線を逸らした。
「……いや、やっぱ良い。腹減ったからサンドウィッチ食ってくる」
ヴィクターは、くるりと背を向け歩き始める。
「昔からお前のそう言うところが気に入らないんだよな……」
せっかく待ってやったのに。
アレクサンドラの顔には、そう書いてあった。とはいえ、怒るほどではない。
昔から、ヴィクターは肝心なところで言葉を飲み込む癖があった。
それが腹立たしくもあり、どこか彼らしくも思えた。
「サンドウィッチなら近くに美味しい店があるぞ。今回の件では借りを作ったし、奢ってやる。一緒に行こう」
アレクサンドラは彼を追った。
聞きそびれた言葉を、無理に聞き出すつもりはない。
どうせまた、いつか別の形で出てくるだろう。あるいは、一生出てこないかもしれない。
それならそれで構わない。
ただ、隣を歩けばいい。
「何だ、珍しく気前が良いな。……それじゃ、連れてってもらおうか」
ヴィクターは、少しだけ目を細めた。
奢りという言葉に釣られたのか。それとも、隣を歩くことを拒まなかったのか。どちらなのかは分からない。
ただ、彼はほんの少しだけ歩く速さを落とした。
アレクサンドラが隣に並べる程度に。
二人のその背中を、薄い霧が包んでいく。
竜敦の霧は、またいつもの濃さに戻っていた。
この街は変わらない。
教会も変わらない。
それでも、あの夜に月を見た者がいた。
霧の薄い一夜を覚えている者がいた。
そして、救われた命もまた、確かに未来へ歩き始めていた。
◇ ◇ ◇
A.D.1907。
審問局・局長執務室に、一人の青年が立っていた。
十九年の歳月が流れても、部屋の壁には変わらず『偉大なる赤き竜』の絵が掛けられている。
翼を広げ、天より地を見下ろす赤き竜。
その下で、青年は緊張した面持ちで、椅子に座る局長を見つめていた。
「本日より着任しました!」
青年は、まだ少し制服に着られているように見えた。
一方で、その目は真っ直ぐだった。
「────ジャック・ヘンリー・ウォレンです。これから、審問官の一人として尽力することを誓います!よろしくお願いします!」
青年は、柔らかな蜂蜜色の髪をして、栗色の目をきらきらと光らせている。
青年の肩では、銀地に赤の逆十字があしらわれたマントが揺れていた。
その赤い逆十字は、真っ直ぐに立てられた剣にも見えた。
誰かを裁くための剣。
誰かを守るための剣。
そして、真実を問い続けるための剣に。
霧の都・
ここは、赤き竜の加護とされる灰色の分厚い霧に覆われ、ガス燈が常に灯る都市。
その霧の向こうで、誰かが真実を隠し。
その霧の中で、誰かが真実を追う。
だが、霧の向こうにはいつか別の時代が待っているのかもしれない。
A.D.1907。
この年、竜敦は長き鎖国の終わりへ向けて、最初の一歩を踏み出した。
それがどれほど小さな一歩であったとしても。
かつてジェームズ・モリアーティが夢見た"三冊目"の時代は、まだ遥か遠い。
だが、完全な夢物語でもなくなりつつあった。
後の歴史家は、こう記すだろう。
────A.D.1907
竜敦の鎖国が解かれ
あと一世紀────
竜敦国教会異端審問録 case.1
―A.D.1888 霧裂きジャック事件―
case closed.
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(ご好評なら続きを書いてみようかなと思ったり)