竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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一冊の本

「隊長、失礼します! こちら、現場で発見されたものなのですが……」

 

 現場検証を続けるウォルターの元に、部下の男性巡査が小走りで駆け寄ってくる。

 巡査は、証拠保全のための布に包まれた一冊の本をウォルターに差し出した。本は、ホワイトチャペルの濡れた石畳や煤けた煉瓦壁にはひどく不釣り合いなものだった。装丁は上質で、少なくとも偶然落ちていたものには見えない。

 

「ん? 何だこの本。やけに上等な作りじゃないか……表紙に題名があるが……あー、これ何て読むんだったかな」

 

 その様子を遠目に観察していたテオドリックが、ヴィクターに声をかける。テオドリックは、ウォルターの様子が変わったのを見逃さなかった。

 

「おや、何やらウォルター隊長がお困りのようだね。行ってみようか」

「……」

 

 ヴィクターは、がしがしと頭を掻きつつ無言でテオドリックの後ろをついていく。しかしその歩みは遅い。だが、面倒くさそうに視線を逸しているようで、その目は一瞬、ウォルターの手元をかすめていた。

 牛歩状態のヴィクターを見たアレクサンドラが、早く行け、とばかりにヴィクターの背中を押す。ヴィクターはアレクサンドラをどつき返してから、足取りを早めた。

 

「ウォルター殿、どうされました? おや、その本は……少し見せていただけませんか?」

「ん? あ、ああ……いいぞ」

「おや、気前がいいことで」

 

 本を見せるよう要求するアレクサンドラに対し、上の空な様子でそれを許すウォルター。テオドリックはそんな光景を見て、意外そうな表情をした。

 

「こっちにはさっぱりだったからな。すまんが、むしろ読めるなら教えてほしい」

 

 事件現場で発見された一冊の本。上質な装丁が施された表紙をめくると、紙面には、細く流麗で、装飾的な文字が書かれていた。見慣れない者にとっては文字ではなく模様のように見えただろう。

 

「うわ、これ古典語じゃないか? 私こういうのはちょっとな……おい首席殿、出番じゃないか? スクールで常にトップだった成績優秀者の実力を見せてくれよ」

「わかった。端的に言おう。面倒くさい。怠い」

「嬢ちゃん、大丈夫かこいつ」

「よし分かった。そこに直れ。そのお綺麗な顔を再起不能にしてやる」

「やなこった。俺にソレを読ませたいなら上質なオークでできたデスクとチェアを持ってくるんだな」

「お前、デスクどころか芝生に寝っ転がりながら小難しい本読んでただろ……」

「さて何のことだか」

「もうダメだコイツは。ウォルター殿、コイツのことはうすらデカいただの置物だと思ってくださって結構です」

「嬢ちゃん、警邏隊はいつでも歓迎するからな」

 

 アレクサンドラ、ヴィクター、ウォルターの三人が言い合っている横で、テオドリックは会話に交じらず静かに本をめくっていた。

 何か考え込んだ様子で、紙面に目を落としている。テオドリックの指先の動きは軽い。一見すると飛ばし飛ばし読んでいるように思えるが、どうやら必要な箇所だけを正確に拾っているようだ。

 気づけば、わーわーと言い合っていた三人も、その動きを見つめている。

 

「ふむふむ、これは……」

 

 ざっと読み終わったのか、本をぱたんと閉じて、テオドリックが呟いた。本を閉じる音はさほど大きくなかったが、袋小路の中でやけにはっきりと響いた。

 テオドリックの表情は晴れない。

 

「テオ先輩! 何かわかりましたか?!」

「……ああ。ここに書かれているのは、赤き竜が存在せず、"恩寵の帳"で覆われていない竜敦だ」

 

 その場の空気が固まった。

 

 赤き竜が存在しない竜敦。霧のない竜敦。

 国教会の教義によれば、竜敦の霧は、外敵から民を守るために、偉大なる赤き竜によって張られた"恩寵の帳"であるという。

 それを考えると、その本は、竜敦市民の信仰と、竜裔による統治とに対する挑発に他ならなかった。

 

「……ふうん?」

 

 それまで興味なさげにしていたヴィクターが、ようやく本へ視線を向けた。その様子は、退屈な講義の中でようやく解く価値のある問題を見つけた学生のようだった。

 

「さすがテオ先輩!どっかのホワイトアスパラガスと違って頼りになる!」

 

 その場の空気を振り払うようにあえて明るい声色を作ったアレクサンドラが、ヴィクターの足を踏みながらテオドリックを称賛する。アレクサンドラは沈黙が続くことを嫌ったようだった。

 

「おい待て、それってつまりこの本は……」

「ああ、異端思想の記された本、ということになるね」

 

 テオドリックは、端的にそう結論づけた。

 

 霧の中で消えた犯人。腹を切り裂かれた妊婦。そして、赤き竜のいない世界を記した本。

 それらが偶然、同じ袋小路に揃ったとは考えにくい。アレクサンドラは、腰に佩いたダモクレスの剣へ無意識に手を添えた。

 

 予審は、始まったばかり。

 だが少なくともこの瞬間、これがただの殺人事件ではないことを、その場の全員が感じていた。

 

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