竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
テオドリックが本を閉じてから、しばらく誰も口を開かなかった。
先ほどまで奇妙な遺留品に過ぎなかった一冊の本は、今や彼らの関心と疑問を一身に集めている。
赤き竜のいない
事件現場から見つかった本の内容を端的に示すその言葉は、霧よりも濃く、その場にまとわりついていた。
「見た目的にも架空の歴史書みたいな扱いなんだろう。……奴らが好みそうなことだ」
「ふぅん。こう言うのは何だが、面白そうな本だね」
アレクサンドラの声には、隠しきれない好奇心が混じっていた。
もちろん、異端に与するつもりなどない。だが、赤き竜のいない竜敦《ロンドン》を描いた架空の歴史書という存在が、人間の想像力を刺激することもまた事実だった。
「審問官が言うこっちゃねえな」
「あはは。内緒にしといてください」
彼女自身、それを口にした瞬間まずいと思ったのだろうか。ウォルターの発言に対して笑って誤魔化す声が、少しだけ上ずっていた。
「は、ははは」
「あんたも案外苦労してそうだな、ファリガ」
それを聞いたテオドリックが乾いた笑いを漏らす。
ウォルターは、本と審問官たちを交互に見た。おそらく禁書指定されるだろう本に目を輝かせる若い審問官の扱いに困っているようだった。
「異端思想ってのはそういうもんだ。大体は面白そうって軽い気持ちで触れて、気が付いたら傾倒してるもんなんだよ」
「ああ、自分は大丈夫だと思ってる奴ほど危ないと」
「そういう訳だ。お前も異端者になってしょっ引かれたくなきゃその辺でやめとくんだな」
ヴィクターはアレクサンドラの横顔をちらりと見た。彼女は笑っているが、禁じられたものへの警戒よりも理解したいという欲のほうが、わずかに勝っているように見えた。
「(お前みたいな真面目な奴が一番危ない……なんて言ったところでか。……面倒臭え、やめだ)」
ヴィクターは、言葉を呑み込んだ。
「ご忠告どうも。せいぜい気をつけることにしよう。……お互いにね」
「喋ったら疲れた。俺は休む」
「もういいよ、君はそれで。気が済むまで休んでな」
「なんだ、気前が良いじゃねえか。それなら遠慮なく」
ヴィクターは、急に、考えを巡らせるように視線を動かした。ヴィクターの観察が、アレクサンドラの顔から手元へ、手元から足元へと移った。
「……お前、今日の飯は何だった?」
「え、サンドイッチ?」
「ははあ、なるほどな。道理で。謎が解けてすっきりした。今度こそ休む」
これまでの文脈とはまるで関係のないところで、彼の中では何かが繋がったらしい。アレクサンドラはたぶん、サンドイッチが好物なのだろう、とヴィクターは思った。思い返してみれば、スクールでもよく貪《むさぼ》っていた気がしないでもない。本人も気づいていないようだが、恐らくそうなのだろうとヴィクターは内心で結論づけた。
「ああ、うん。相変わらずネコ科の生物みたいな生態してるな、君」
アレクサンドラは犬派だった。
彼女の声が聞こえているのかいないのか、ヴィクターはスンとした様子で、袋小路を形作る煉瓦の壁に背を預けた。普通なら外套が汚れることを嫌がりそうなものだが、本人はまるで気にしていない。
目を閉じた姿だけ見れば、本当に眠りかけているようだった。だが、完全に意識を手放しているわけではなかった。周囲の声、足音、テオドリックが本の
「(ヴィクターの言動にあれこれ言うだけ無駄だからな……)」
アレクサンドラは、そんなヴィクターの姿に慣れ切った様子で、彼を放置している。
「なんだこいつら」
ウォルターは、二人のやり取りを見て、呆れたようにそう溢《こぼ》した。
◇ ◇ ◇
ヴィクターは目を閉じたまま、退屈そうに壁にもたれかかっている。
しばらくして、周囲を沈黙が支配したとき、彼の唇がゆっくりと動いた。
「……それにしても、『主の御代に』とでもいったところか? 相変わらず異端者共はもったいぶったタイトルをつけるのが好きだな」
それは、本の表紙に刻まれた古典語の題名を訳したものだった。
先ほど本が開かれたとき、ヴィクターは手にも取らず、一瞥しただけだった。それでも彼は、まるで何度も読み返した母語の絵本の題名を口にするかのように、そう
「『主の御代に』? この本のタイトルか?」
ウォルターが疑問を口にする。
主の御代に。
ともすれば、聖句の一節にありそうな表現だった。だが、その題がつけられた本の中身は、赤き竜の存在しない
ならば、その"主"とは何を指しているのだろうか。
「さすがは首席殿。君、大抵のことはやればできるもんな。やらないだけで」
「おお、ヴィクター、君も読めたのかい?」
「お前だって時間かけりゃ読めるだろうが。仮にも成績優秀者だろ。要らん労力はかけない主義だ」
「そりゃ、時間をかければね。君は生まれた時から使ってたみたいにすらすら読めるんだから、任せようとするのは当然だろ。使えるものは使う主義なんだ」
「気が合わねえな。泣けるぜ」
先ほどテオドリックが本の内容を読んでみせたとき、その読解は、訓練された審問官の技術の高さを感じさせた。構文を文法的に解釈し、文脈から語義を絞る。時間をかけていいのであれば、アレクサンドラにもやってできないことはなかっただろう。
しかし、一方のヴィクターはそうではなかった。彼は古典語を解読しているのではなく、ただ"読んで"いるように見えた。そこに努力の跡が見えなかったことが、アレクサンドラにとってはかえって腹立たしいことのように思えた。
「全くだね。私たちの気が合わないことは寮でも有名……だったのに、いつの間にか私が"ヴィクター係"になってたんだよな。今でも解せないよ」
アレクサンドラの脳裏に、スクール時代の記憶がよぎった。
広い中庭、朝の点呼、誰もいない寮室。そして、なぜか礼拝堂の屋根裏や図書館の芝生、植物園の使われていない温室といった場所で見つかるヴィクター。
毎回、探しに行かされるのはアレクサンドラだった。理由は今でもわからない。分からないが、気づけばそれが役目のようになっていた。
「"ヴィクター係"? 何の話だそりゃ」
「君ときたらしょっちゅう校内で行方をくらますんだから、何故か毎回私が探し回る羽目になった。卒業式の日も、首席のくせに代表スピーチをすっぽかして昼寝を決め込みやがって……」
卒業式の日のことを、アレクサンドラは今でもはっきりと覚えている。
磨き上げられた講堂。赤き竜の紋章が刺繍された幕。首席の名を呼ぶ教師の引きつった声が。
そして、式典の裏で、古書を枕にして本当に寝ていたヴィクター。怒りを通り越して、あのときは一瞬、本気で泣きそうになった。
卒業式で"ヴィクター係"も卒業だと思っていたのに、どうして、と。アレクサンドラは、ヴィクターをじとっとした目で見つめていた。
「卒業式に関しちゃそもそも開催自体が無駄の極みだと思うんだがな。無駄にキラキラ豪華にしやがって、アレにどれだけの国民の血税が使われてるのかと思うとぞっとしねえ」
それは、いつもの怠惰な文句とは少し違っていた。
ヴィクターの声は相変わらず気怠い。だが、その奥には、虚飾に覆われた権威主義への露骨な嫌悪があった。
そういった、誰かが誇りと呼ぶようなものに対して、ヴィクターは何の感慨もなさげであった。むしろ、その向こうにいるであろう名もなき人々のことを考えていた。
「血税で
「相変わらずだねー、君は。下々の者のことも考えてるって意味じゃわれわれ平民にとっては有難い存在なのかもしれないけど」
アレクサンドラは軽口で返した。
ヴィクターの言い方は最悪だ。態度も悪い。協調性もない。顔は良い。悔しいことに。
それでも、ときどき彼は、誰よりもまっすぐな場所を見ているように思える。再び、妙に腹立たしい感覚を覚えた。
「孤児院云々の前に、すぐそばにいる私の苦労にも少しは目を向けていただきたいもんだね。だいたい君、制服どころかネクタイも受け取ったその日にぐしゃぐしゃにしてたじゃないか」
「……」
ヴィクターは一度黙って、それから、あくまで一定のペースを保ちながらも、売り言葉に買い言葉で捲《まく》し立てた。
「下々だの身分だのも何も知らねえよ、怠いし面倒臭いったらありゃしねえ。大体、嫌ならこれ以上俺に付きまとわなきゃ良いだけの話だろうが。係だか何だか知らないが、そんなもんを頼んだ覚えはない」
それまで続いていた軽口の応酬がそこで途切れた。アレクサンドラの表情から、笑みがすっと消えた。
「置いてるだけまだ捨てるよりマシなんだろ?それならもうどうでも良いだろ、俺がネクタイをどうしてようが……チッ、もういいだろこの話は。面倒臭え」
吐き捨てるような声だった。けれどそれは怒鳴り声ではなかった。これ以上その話題に触れられたくないとでも言うような、低く、そして雑な拒絶だった。
式典も、制服も、記念品も、そして身分も。ヴィクターにとってはどれも面倒で、くだらなくて、苛立たしいものなのだろう。
アレクサンドラは、すぐには言い返さなかった。いつもなら即座に噛みついていただろう。だが今は、ヴィクターの言葉のうち、別の箇所が引っかかっていた。
「……そうだね。確かにどうでも良いことだ。ただ一つ訂正させてもらうけど」
アレクサンドラはわずかに顎を上げた。
怒っている、というほどではない。傷ついたというのも少し違う。ただ、そこだけははっきりさせておきたいという顔だった。
「私は断じてお前に付きまとっているつもりはない」
「……」
ヴィクターは、何か言い返そうとして、やめた。
いつものように面倒臭いだの怠いだのと切って捨てればいいはずなのに。どういうわけか、その一言だけはうまく処理できなかったらしい。
アレクサンドラは、腕を組んだまま、ヴィクターを見ていた。
「……はあ。そうかよ」
ヴィクターは脱力したように肩を落とした。
言い負かされたというより、受け流し方を見失った人間の反応だった。