竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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汝、異端事件なりや?

「さあ、どうかな二人とも。判断材料は手に入ったかい?」

 

 テオドリックの声は先ほどまでと同じく柔らかい。だが、新人審問官に職務を思い出させる声だった。

 アレクサンドラは、はっとしたように背筋を伸ばす。ヴィクターは相変わらず怠そうだったが、閉じていた目だけは薄く開いていた。

 

「それともまさか、話に夢中でやるべきことを忘れていた……なんて言わないよね?」

「それは素直にすみません」

「えっ、忘れてたの?!」

「まあ、半分くらい……」

「そ、そんな……」

 

 アレクサンドラは、気まずそうに視線を逸らした。

 忘れていた、というより、目の前に現れる情報の一つ一つに振り回されていたのだ。

 惨殺死体に、消えた犯人。そして、異端思想が記された本。初任務の新人に、それらを冷静に整理しろという方が酷ではないか。ましてや、ヴィクター(こんなやつ)とタッグを組みながらだなんて。

 

「それじゃあ改めて確認するよ。いま、君たちに課せられている任務は何だったかな?」

 

 テオドリックは、軽く咳払いしてから、パブリック・スクールの教師のように、そう語りかけた。

 

「……この事件が、"異端事件"と認定できるかどうかって話だろ」

 

 気怠げな態度は変わらないが、ヴィクターの口調に淀みはない。

 

「予審の判定結果という訳だ。材料は揃った」

 

 予審。

 それは、目の前の事件が審問局の扱うべき対象か判断する、最初の裁定だった。

 

 汝、異端事件なりや?

 ここで「否」となれば、事件は警邏隊の手に戻る。

 あるいはここで「是」となれば、審問局は本捜査に移行し、主導権を握ることになる。

 

 壁にもたれたまま、ヴィクターは片手をひらひらと振った。

 

「結論から言えば、この事件が“異端事件”と認定・報告することは可能だろう。犯行現場に残された本の反体制主義的な内容を以ってすれば確実にな」

 

 誰も反論しなかった。

 赤き竜の存在しない竜敦(ロンドン)を描いた本。それが殺人現場に残されていた時点で、事件はただの事件ではなくなっている。

 たとえ犯人が平民であろうと、動機が私怨であろうと、異端思想が事件に関わった可能性だけで審問局が動く理由にはなった。

 

「だが、"異端事件"かどうかを判断する根拠として、もうひとつの可能性をここに提言する」

 

 そこで終わらせてもよかった。

 異端書がある。それだけで、予審の判定としては十分だ。

 だがヴィクターは、テオドリックの掌中で閉じられた本ではなく、袋小路の奥へ視線を向けた。

 

 

「それは、犯人が犯行を行った後に"消えた"という可能性だ。文字通り、跡形もなくな」

 

 

 袋小路の出口は一つ。

 悲鳴を聞いた巡査は、その出口に通じる道を確認していた。にもかかわらず、逃げ去る者の姿はない。

 壁をよじ登った痕跡も、扉をこじ開けた跡も、血に濡れた足跡もない。

 

 犯人が逃げたのではないとすれば。

 そもそも、逃げるための肉体が残っていなかったのだとすれば。

 

「消えた? まるで消えたかのように、ではなく本当に消え去ったとでも?」

 

 アレクサンドラは思わず聞き返した。

 

「ああ。まあアレクサンドラの反応は(もっと)もだ、ふつうの人間ならまずそんな事はあり得ない。だが、その可能性を満たす条件がひとつだけある」

 

 ヴィクターは、わずかに目を伏せた。

 面倒臭そうな態度は崩れない。

 だが、その一語を口にする前だけ、ほんの一拍、沈黙を置いた。

 

 

「────それは、犯人が"竜裔"だった場合だ」

 

 

 無言で推理を聞いていた、警邏隊長ウォルターの顔色が変わった。

 

「"竜裔"は、命が尽きると。そのとき身に着けていた物ごと、跡形もなく消える」

 

 それは、竜敦(ロンドン)に生きる者なら誰もが知っているようで、実際には誰もが正確に知っているわけではない事実だった。

 高位の者たちは婉曲に語り、教会は祈りの言葉で包み、庶民は噂として知る。

 

 竜裔は、死ねば遺体を残さない。

 肉も、骨も、衣服も、ほんの少しの形見でさえ、霧にほどけるように消える。

 

「つまるところ立派な"異端事件"という訳だ、この事件(ヤマ)は」

「犯人は竜裔で……しかも事件現場で死亡している?」

 

 アレクサンドラは、ヴィクターの言葉を聞いて(ひと)()ちた。

 

「現時点ではまだ可能性の段階だ。だが俺たち審問局が調査を続けるには十分な理由だろ」

「───ちょ、待てよ!」

 

 ウォルターの声が初めて荒れた。

 彼は竜裔を無条件に崇拝する男ではない。審問局に対しても、貴族に対しても、言うべきことは言う。

 それでも、彼にとって竜裔とは、民を庇護し、秩序を支え、少なくとも路地裏で妊婦を切り裂く側に立ってはならない存在だった。

 

 その竜裔が、加害者としてこの現場にいたかもしれない。そして、何者かに殺されたかもしれない。

 その事実は、ウォルターの理解を超えていた。

 

「竜裔が消えた? そりゃ死んだら竜裔は消えるだろうさ! 常識だからな……少なくとも、一定以上の階級のやつらにとっては。だが、すると何だ! 竜裔は誰に殺されたって言うんだ?」

 

 ウォルターの言葉は止まらない。

 

「まさか、被害者のメアリと相討ちしたとでも!? 被害者は平民なんだぞ? 竜裔を殺せるはずがない。竜裔は、多少の傷ならすぐ癒える。どういうこった……これは……?」

 

 平民が竜裔を殺す。その組み合わせ自体が、ウォルターには冗談のように聞こえた。

 刃物で刺したところで、毒を盛ったところで、竜裔の命には届かない。警邏隊長であるウォルターは、そのことをよく知っていた。

 

「だが、普通の人間が文字通り消えるよりかはまだ可能性のある話だ。そのあたりは今後更に詳しく調査していく必要があるだろうな」

「だが……くそっ、貴族である竜裔が、庇護すべき民を殺しただって? しかもそのうえ、テメエも殺される始末……」

 

 ウォルターは癇癪(かんしゃく)を起こした子供のように捲《まく》し立ててから、泣きそうな声で小さく呟いた。

 

「もう、わけがわからねえ……」

 

その声音を聞きながら、アレクサンドラは慎重に言葉を選んで紡いだ。

 

「殺されたのでしょうか。自害したと言う可能性も……何にせよ、仮定の話か。ヴィクターの言う通り調査が必要だな」

 

 竜裔が誰かに殺されたと考えれば、さらに犯人が増える。ならば、竜裔自身が命を絶った可能性はないのか。不慣れな現場であっても考えられる線を一つずつ潰そうとする姿勢に、彼女らしさが宿っていた。

 

「───竜裔が自殺、というのはありえないかな」

 

 テオドリックの声は、いつになく静かだった。

 

「竜裔は自ら命を断つことができないんだ。そういう、宿命を背負った種族なんだよ……」

 

 それは知識を披露したというより、祈りの文句を唱えたように聞こえた。

 

 竜裔は、死から遠い。

 傷は癒え、病は退き、老いすらも人より遅い。

 だがその代償のように、自ら終わりを選ぶことはできない。

 彼らの死は、いつも外から訪れるのだ。

 

 

「でも、これで任務は果たせそうだね。本件は、竜裔が加害者……および被害者となった可能性が否めない。よって本件を"異端事件"と認定し、本審に移行する────そういうことでいいかな、ウォルター隊長?」

 

 テオドリックは、そこで本を胸元に抱え直した。その仕草は軽いものだったが、伴って口にした言葉の意味は重い。

 

 たった今、この事件の扱いは変わった。

 警邏隊が追う殺人事件から、審問局が裁く"異端事件"へ。

 現場の空気が目に見えない一線を越えた。

 

 ウォルターは、しばらく黙っていた。

 受け入れたくないのではない。

 むしろ、理屈では分かっている。この事件は、警邏隊だけで扱うには既に大きくなりすぎていたから。

 

「……ああ、了解した。審問局の裁定にしたがおう……業腹だがな」

 

 それでも、自分の管区で起きた事件の主導権を、よそ者に明け渡すような感覚は消えなかった。

 

「だが、この事件(ヤマ)は俺の管轄するホワイトチャペル教区で起きたんだ。本捜査でも現場の協力は必要なはず……違うか、ファリガ?」

 

 しかし、ウォルターは引かなかった。

 審問局に主導権を渡すことと、現場を手放すこととは違う。

 死んだメアリは、彼の管区の住民だった。血に濡れたこの袋小路も、彼の足で歩いてきた街の一部だった。

 ならば、最後まで関わる権利がある。ウォルターはそう思った。

 

「ああ、引き続き協力をお願いするよ。二人も、それでいいよね?」

「手が増えるのは勿論歓迎だ。そのぶん楽ができる」

「心強いです。よろしくお願いしますね、ウォルター殿」

 

「───ああ。任せてくれ」

 

 

 そうして、予審は終わった。

 だが、それは事件の終わりではない。むしろここからが始まりだった。

 

 霧の中に消えた犯人。

 赤き竜のいない世界(ロンドン)を記した本。

 そして、死んだかもしれない竜裔。

 

 ホワイトチャペルの袋小路に残されたいくつもの謎が、一つの同じ事件として結び直された。

 

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