竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件―   作:竜敦国教会審問局

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「霧隠れ」と「最期の奇跡」

「それにしても、竜裔が亡くなった事件だったとはね」

 

 ウォルターが部下の警邏隊員に搬送と封鎖の指示を飛ばす横で、テオドリックはふと、閉じられた本から視線を上げた。

 

「そういえば、古典語の慣用表現に、"竜裔が死んだ"ことを表す比喩があったっけ。二人は知っているかい?」

「知りません! 煙とか霧とかがどうこうですか? 消える繋がりで!」

「"霧隠れ"、な。そのくらい覚えとけ」

 

 元気よく無知をアピールするアレクサンドラに呆れたような目を向けるヴィクター。

 

「人が姿を消して行方をくらますことや、月が隠れる様子。または高貴な人、竜裔の死去を遠回しに表現する言葉だ」

 

 ヴィクターは、古典語の辞書を引いたかのような満点回答を(そら)んじてみせた。

 

「私苦手だったんだよな、古典語……。成績表でも毎回足を引っ張ってた」

 

 アレクサンドラは、遠い目をした。

 古典語の授業で赤点すれすれの答案を返された記憶が、()()向こうから蘇ってきたのだろう。

 神学の授業で輪読させられた古文書の、婉曲表現と何種類もある格変化。どれも彼女にとっては、事件現場に横たわった謎よりもよほど手強い相手だった。"絶対的奪格"って何だよ、無駄にかっこいい名前しやがって、とアレクサンドラは思ったものだった。

 

「それじゃあもうひとつ、古典語にまつわるトリビアだ!」

 

 テオドリックは、いつもの調子で人差し指を立てた。

 

「古い言い伝えでは、竜裔が死を迎えるとき、稀に何かが起きるとされているんだけど……」

 

「────た、隊長! た、たた、大変です!!」

 

 その声は、袋小路の入口から転がり込んできた。

 先ほど、遺留品の本『主の御代に』をウォルターの元に届けた、若い男性の巡査だ。

 顔面は蒼白で、帽子はずれ、息はひどく乱れている。

 ただ人が死んだというだけなら、ここにいる全員がすでに見ている。それでもなお、彼はそれ以上のものを見た人間の顔をしていた。

 

「今度は何だ!?」

「実は……被害者の、切り裂かれた腹部から取り上げられた赤子が…………息を、息を吹き返しました!!」

 

 一瞬、誰も意味を理解できなかった。

 

 赤子が。

 息を吹き返した。

 

 その二つの言葉が、不自然なほど明るく響いた。

 

 死体の胎《はら》から取り上げられた、助からないはずの命。誰もがそう聞いていたし、それも当然だと思っていた。

 

「奇跡だ! ああ、なんてことだ!」

「な、なんだと!? すぐに病院に搬送するぞ!」

 

 感情の(ほとばし)りを抑えられない巡査に対して、ウォルターの反応は早かった。

 顔は驚愕に満ちたまま、足はもう動いていたのだった。

 

「すまん、この続きはまた近々!」

 

 奇跡かどうかを考えるのは司祭の仕事だが、生きている命を病院へ運ぶのは現場の人間の仕事だと、ウォルターは考えるより先に体が動いていた。

 

 ウォルターと巡査たちの足音が、霧の向こうへ遠ざかっていく。

 袋小路には、審問官たちだけが取り残された。

 

「……起こったな」

「……起こったね」

 

 ヴィクターは、閉じていた目を開けた。

 アレクサンドラは何か言おうとして、言葉を見つけられずに隣の男と同じ言葉を繰り返しただけだった。

 

「……そうみたい、だね」

 

 テオドリックは、先ほどまで立てていた人差し指を静かに下ろした。

 

 "最期の奇跡"は、竜裔が死の間際、自分のすべてを捧げてもいいと思うほどの願望を、強く祈ることで発現する、ある種の"魔法"だ。

 

 竜裔の命脈が尽きると、肉体は消え、血も骨も衣服も失われる。

 それでも、祈りだけはこの世に残り、小さな、それでいて在り得ざる出来事を起こすことがある。

 

 テオドリックは、思考の中で事実を並べ直した。

 

「(メアリを殺した竜裔が、メアリの胎内の子を守ることを願い、"最期の奇跡"が発現した……? いやいや、その竜裔は彼女を殺そうとしたんだぞ)」

 

 メアリは殺された。腹部を切り裂かれて。

 その胎内の子は、当然助かるはずもなかった。

 

 もし赤子の蘇生が、竜裔の最期の祈りによるものだとすれば。その竜裔は、死の間際、メアリの子を救うことを願ったことになる。

 

 

 だが、それならなぜ、メアリは殺されたのか。

 

「(犯人の人物像が、余計にわからなくなってしまったね……)」

 

 テオドリックは、後輩二人に気づかれないよう、笑顔のままこっそりと溜息をついた。

 

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