竜敦国教会異端審問録 case.1―A.D.1888 霧裂きジャック事件― 作:竜敦国教会審問局
「それにしても残された謎は多いね」
「私からすると竜裔自体が謎ですけどね……」
アレクサンドラは、疲れたように息を吐いてから、竜裔四不思議を指折り数えた。
ひとつ、竜裔は丈夫。普通の人間なら死ぬような目に遭っても死なない。
ふたつ、彼らは、自ら命を絶つことができない。
みっつ、竜裔は死ぬと、塵ひとつ残さずに消える。
よっつ、そして死の間際に、強く願えば、"最期の奇跡"を起こすことがある。
「……」
ヴィクターは何も口に出さず、その様子をぼんやりと見ている。
「犯行を行った竜裔が殺されたのであれば、その殺害犯はどこに消えたのか」
テオドリックは、アレクサンドラともヴィクターとも異なり、声に出しながら疑問を整理している。
袋小路の出口は一つ。
メアリを殺した犯人が竜裔で、死によって消えたのだとしても、それで全てが説明できるわけではない。
竜裔が死んだなら、竜裔を死なせた何者かがいる。だが、その何者かもまた、誰にも見られず現場から姿を消している。
「消えた犯人を殺した犯人が消え……これでは堂々巡りだ」
ウォルターは、平民であるメアリが竜裔を殺したとは考えていなかった。だが、もしそうだとしたら、事態はもっと混迷を
「ウォルター隊長の前では言わなかったけどね。話がややこしくなるから」
テオドリックは、軽く肩をすくめた。
「……何にせよ、調査していくしかないんだろう。本当に堂々巡りなのか、事件の真相を」
ヴィクターは、袋小路の奥を見て、そう呟いた。
死体はもう運ばれてしまっていた。そこで事件があったという事実が、次第に霧にぼやけ始めているように思えた。
メアリ。消えた竜裔。その竜裔を殺した何者か。そして、赤子に起きた最期の奇跡。
絡まった糸を前にして、面倒だと吐き捨てながらも、ヴィクターの目はそこから離れていなかった。
「そうだね……とはいえ、君たちの初任務は無事に達成だ。ご苦労様! 審問局に戻って、猊下に成果報告と行こうじゃないか!」
まだ解決ではない。
犯人も、動機も、奇跡の意味も、何一つ明らかになっていない。
しかし、予審としての任務は果たされた。
この事件が、審問局の扱うべき"異端事件"であること。そして、その報告を持ち帰ること。
新人二人に課された最初の仕事は、そこで一区切りとなるはずだ。
「そのまま調査で良いだろ……面倒臭え……」
アレクサンドラは、思わずヴィクターを見た。
面倒臭いと言っている。たしかに言っている。
しかし、審問局に戻るより現場調査を続けたいという意味に聞こえた。
この男は本当に、怠けたいのか働きたいのか分からない。アレクサンドラはそう思った上で、
「おや、やる気があるようで何より。その調子で頼むよ、ヴィクター。私は推理とか苦手だからね!」
ヴィクターの気が変わらないうちに丸投げの言質を取ろうと思った。
「さーて、帰ったら報告書を書かないとね! 次なる最優先調査事項は、消えた犯人を殺した犯人……いや、長いな! もっと短い、そうだな、コードネームを付けよう」
名前のないものは扱いにくい。調書に書くにも、報告するにも、命令を下すにも、毎回長々と説明しなければならない。
まして今回の相手は、存在するかどうかさえまだ曖昧な何者かだ。
だからこそ、仮の名が必要だった。
捉えどころがない現象に名前をつけて、実体を理解しようとするように。
「
テオドリックは、まるで食堂の献立を選ぶような顔で考え込んでから、シンプルな結論を導き出した。
「うん、"ジャック"にしよう!
ジャック。
何の由来もない名前だ。
神学的な意味も、古典語の含意も、審問局らしい荘厳さもない。ただ、口にしやすく、調書に書きやすいだけの名前だった。
「次なる最優先調査事項は、消えた犯人の竜裔を殺した謎の人物、ジャックだ……!」
テオドリックは妙に満足げだった。
一方、ヴィクターはもう帰ったあとのことを考えている。
「……なあアレクサンドラ。もし人数分報告書が必要そうだったら代わりに書いといてくれ」
「うん、断る」
アレクサンドラは、即答した。
迷いのない、実に清々しい笑顔の拒絶だった。
◇ ◇ ◇
A.D.1888、霧の都・竜敦ロンドン。
ここは、灰色の分厚い霧に覆われ、ガス燈が常に灯る都市。
ホワイトチャペル教区警邏隊のジェーン・リード巡査は、警邏隊での仕事を終えて帰路に就いていた。
霧は低く垂れこめ、街路の先を白く塗り潰している。退勤後だから、カンテラは持っていない。等間隔に立てられたガス燈だけが頼りだった。
「?」
そのうち、ジェーンは、行く先に佇む一人の人間を認めた。その輪郭はうすぼんやりとしていたが、ジェーンが歩みを進めるにつれ、だんだんと人相がはっきりしてくる。
その人物は、長身で、黒いフロックコートをぴしりと着込んでいる。黒髪の襟足は長く、目元にフレームの細い眼鏡が光っていた。全身を白と黒のモノトーンで装っている姿は、喪に服しているようにも見えた。
その人物は、ジェーンの方をじっと見つめていた。切れ長の目元が涼やかであった。
「こんばんは、良い夜ですね」
ジェーンは、ぼうっと佇むその相手を不審に思いながらも、明るく声をかけた。警邏隊としての癖のようだった。
「……お待ちしておりました」
黒いフロックコートを身にまとった人物は、ジェーンの挨拶に返答することもなく、淡々とそう言った。
男性とも女性とも取れる、そんな声だった。
「待っていた……? 私を、ですか?」
「はい、間違いありません。貴方を、お待ちしておりました」
「えっと、人違いではありませんか? それとも、デートへのお誘い、とか?」
ジェーンは、冗談交じりにそう尋ねた。
「……。おふざけは、ここまでにしましょうか」
その人物は、たわいもない会話ですら許さないというように、目を細めて冷たく返した。
そして、ゆっくりとジェーンの方へと足を踏み出す。
「い、いやっ、来ないで」
その時ばかりは自分が警邏隊員であることを忘れた様子で、ジェーンは、か弱い乙女のような小さい悲鳴を上げて後ずさった。
黒いフロックコートの人物は、ただ無言で、一歩一歩ジェーンに近づいていく。
「……良い子だ」
「ヒッ……」
黒いフロックコートの人物は、ジェーンの顔に、その手を延ばした。
────その夜を境にして、ジェーン・リードという人物を二度と見た者はいなかった。