石油が尽きた2661年、エセ昭和共産日本でサイボーグボクシングをやらされます 作:スペイン語が話せない
食堂の壁では、朝の国営放送が流れていた。
だが、真剣に見ている者はいない。
選手たちは飯をかき込み、次の訓練の話をしている。
『祖国の若き鉄拳、英二郎』
俺は思わず顔を上げた。
モニターの中に、俺がいた。
『独立記念試合、出場決定』
『逃げず、退かず、正面から勝利を掴んだ若き拳』
『正々堂々たる党の拳、英二郎同志に栄光あれ!』
正々堂々。
昨日の俺はそうして勝ったわけではない。
でも、そう言われるのは悪い気はしなかった。
俺は、少しだけ周りを見た。
「……」
俺は独立記念試合に出ることになった。それでも食堂は変わらない。
党だけが俺を称え、選手たちはいつものように飯を食い、次の訓練の話をしている。
それでいい、と俺はフォークを握り直した。
選ばれたなら、次は勝つ。それだけだ。
…
――でも、それだけでいいのだろうか。
フォークを握る指が、一瞬だけ止まった。
「英二郎選手ですね」
綺麗な声だった。
大きな声ではないのに、食堂のざわめきの中でもよく通った。
顔を上げると、見慣れない制服の女が立っていた。
歳は俺とそう変わらないくらいで、短い黒髪が頬の横で少し跳ねている。
食堂には似合わない、静かな佇まいだった。
周りの選手たちが飯をかき込んでいる中で、彼女だけが妙に静止して見えた。
「独立記念試合の広報担当、真白です」
「広報ね…」
「はい。選手のこと、国民に好きになってもらう仕事です」
胸には党の徽章。
その下へ視線を落とすと、真白の腰に黒い端末が下がっていた。
広報用にしては、少し重そうに見える。
「お食事中に失礼します。少し、お話を聞かせてもらってもいいですか」
「別に構わないですが…」
「ありがとうございます!」
真白は「失礼します」と小さく言って、俺の隣に腰を下ろした。
「では、最初に。独立記念試合への出場が決まった今のお気持ちを聞かせてください」
真白は端末を両手で持ち、まっすぐ俺を見た。
「光栄な気持ちでいっぱいです」
「いい言葉です」
真白は端末に指を走らせてから、少しだけ首を傾けた。
「ただ、国民に届けるには、ほんの少し硬いかもしれません」
「硬い?」
「はい。もう少しだけ、英二郎選手ご自身の言葉にしてもいいかもしれません」
俺の言葉。そう言われると、すぐには出てこなかった。
俺は、壁のモニターを見た。
そこにはまだ、俺の名前が赤い字幕で流れていた。
「党が、私を見てくれていると思いました」
フォークを握る左手に、力が入る。
「それが、嬉しかったです」
真白の指が、端末の上で止まった。
「……そちらの方が、ずっといいです」
「そうですか…」
「はい」
真白は少しだけ笑った。
彼女の目は、綺麗だった。
薄い琥珀色の光彩が、食堂の照明を受けて静かに揺れている。
「英二郎さん?」
「…あぁ、失礼しました。どうぞ」
真白は小さく頷いた。
「ありがとうございます。では、今のお言葉は記録として残しておきますね」
端末に指が走る。
広報担当として俺の言葉を記録しているように見えて、その動きに不自然なところはなかった。
「それにしても」
俺は、真白の顔を見つめる。
「広報担当にしては、ずいぶん熱心ですね」
「独立記念試合ですから」
琥珀色の瞳が、静かにこちらを見ていた。
笑ってもなく、媚びてもなく、ただ真っ直ぐに。
何かを確かめたくなった。
「もしかして、スパイだったりして」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
この国で「スパイ」は冗談にならない。
疑われた時点で、もう半分は消えている。
だから普通の人間なら、不快になる。
心当たりがあれば、息が止まる。
「そう見えますか?」
綺麗な声のまま、そう返した。
《PULSE DELTA:+0.8%》
《RESPIRATORY DELAY:0.018 sec》
《STRESS RESPONSE:WITHIN BASELINE》
心拍は、基準値から一拍も跳ねない。
呼吸の入りも、五十分の一秒すらずれなかった。
平静なのではない。
平静に見えるよう、訓練されているのか。
「…ずいぶん、落ち着いてますね」
「そうですか?」
真白は、少しだけ首を傾げた。
「今、スパイと言ったか」
俺は顔を向けた。
少し離れた席で飯を食っていた選手が、こちらを見ていた。
太い首。頬に残る古い裂傷。
片側のこめかみには、金属の継ぎ目が薄く浮いている。
目だけが、こちらを向いていた。
「すみません。彼女は――」
「独立記念試合の広報担当です」
真白は、さっきと同じ顔で端末を膝の上に置いた。
綺麗な声だった。
少しも急いでいない。
「出場選手への取材中でした。お騒がせして申し訳ありません」
「広報だと? 見慣れない顔だな」
「本日から担当です。独立記念試合の出場者向けに、順次取材を行っています」
真白は、少しも間を置かなかった。
…
「怪しいな。保衛室で確認する」
男はそう言って立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、食堂に響く。
真白は、まだ笑みを崩していなかった。
「身分証でしたら、こちらに」
「保衛室で見る」
言い終わる前に、男の手が伸びた。
真白の腕を掴む。
「来い」
真白の身体が、わずかに傾く。
それでも、声は出さなかった。
俺は立ち上がった。
「申し訳ありません。彼女はスパイではありません」
「はい?」
俺は、男と真白の間に入るように一歩踏み出した。
「申し訳ありません。俺の軽率な発言です。彼女を疑ったわけじゃないんです」
声が上ずっていた。フォークを持つ左手が、ぎしりと音を立てる。
「場を乱した責任は俺にあります。…彼女を離してください」
男の手は、まだ真白の腕を掴んでいた。
俺はその手を見た。
自分でも、必死になっているのが分かった。
会って間もない相手だ。怪しいとも思っている。
それでも、真白は俺の言葉をちゃんと聞いてくれた。
国営放送みたいに飾らず、笑いもせず、そのまま受け取った。
それだけで、俺はもう彼女を見捨てられない気がした。
我ながら、どうしようもないと思った。
男は、しばらく俺を見ていた。
人工筋肉の張りが、制服の下でわずかに緩む。
真白の腕を掴んでいた手が、ゆっくり離れた。
「……英二郎さん、紛らわしいこと言わんでください」
「すみません」
俺は頭を下げた。
男はそれ以上何も言わず、椅子に戻った。
真白は腕を押さえなかった。
指の跡が薄く残っているのに、何事もなかったように端末を持ち直していた。
「本当にごめんなさい」
真白は静かに頷いた。
「英二郎さんって、人のために動けるんですね」
胸の奥が、妙にざわついた。
「違います。ただ…党のものとして、当然のことをしただけです」
「そういうことにしておきます」
その言葉に、少しだけ息が詰まった。
俺はポケットに手を入れた。
訓練後に食べるつもりで取っておいた、板チョコレートが一つある。
「これを」
真白は、差し出されたものを見て、少しキョトンとした。
「これは…?」
「チョコレートというものです。食べるとクリーミーで甘くて、美味しいんです」
真白は一瞬だけ黙った。
それから、耐えきれなかったように小さく笑った。
「受け取ってもらえますか」
「はい」
真白はチョコレートを両手で受け取った。
それから、包みを少しだけ開く。
「……ここで食べるんですか」
真白は何も言わないまま、チョコレートを二つに割った。
片方を、俺に差し出す。
「一緒に食べましょ」
少しだけ、思考が止まった。
差し出されたチョコレートを見て、真白の顔を見て、それからようやく受け取った。
「英二郎さん」
「…はい」
「…」
「…」
「…やっぱり、内緒でーす♡」
可愛らしい声。屈託のない笑顔。
なのに、琥珀色の瞳だけが、笑っていない。
真白はチョコレートを一口かじりながら、俺の顔をじっと見つめた。
「英二郎さんには、特別です」