「エイジ……ロウ?」
「なるほど。なかなか忘れ難い名だ」
僕は今、気分が悪い。
あの国に来るくらいなら、天井の染みを数えていたかった。
染みは退屈だが、思想は語らない。
「英二郎選手のデータですが、再確認しますか?」
「いや、結構だ」
インプラントは並み程度だったと思う。
だが、僕の関心を引いたのは、あの重量だった。
《weight:153.56kg》
大きく、重く、強く殴るための身体だ。
「結論が“重く殴る”とは今どき珍しい…」
「最後の確認です」
その時、マネージャーが言った。
「相手は、追い詰められれば危険な攻撃をしてくる可能性があります」
「勝敗ではなく、選手生命を狙う攻撃です」
マネージャーは、いつになく硬い顔をしていた。
「そうか」
支度は整った。装備も申し分ない。
残る仕事は、あの重装備をどう崩すかだけだ。
「どうか、お気をつけて」
会場へ出た。
「Booooooooo!!」
「死ねええええええ!!」
あの率直すぎる悪口には笑わされた。
語彙まで配給制とは、実に徹底した国だ。
「バンザーイ!!!」
「バンザーイ!!!」
万歳の声の向こうから、英二郎が歩いてきた。
正直、その姿を見て久々に退屈が薄れた。
でかい。
ただ大きいだけではない。
その身体は、鍛錬の成果というより、公共事業の成果物だった。
厚い防護板。首の後ろの黒い支持フレーム。
右肩の奥で、油圧アクチュエータが低く唸っている。
そして拳に至っては、握られているだけで既に暴力の完成品だった。
「レオンさん。よろしくお願いします」
だが、想定以上にその顔は若かった。
硬く、真面目で、こちらを疑うことをまだ覚えていないような顔。
化け物の顔をしていれば、まだ分かりやすかった。
いい顔を持っているじゃないか。
「あぁ、よろしく」
思わず身震いした。退屈だけは、しなくて済みそうだ。
『建国記念スペシャルマッチ!!』
リングアナウンサーの声が、罵声を切り裂いた。
『青コーナーァ!!ISBC認定、絶対王者!レオン・フォン・アルヴァイン!』
『そしてぇ、赤コーナーァ!!!我が国が誇る最高傑作!』
『国民的英雄、英二郎選手!!!!』
「バンザーイ!!!」
完全なアウェイだ。
悪くない。歓待より、ずっと仕事に集中できる。
『両選手、中央へ』
英二郎が歩いてくる。
あぁ、奴の低い駆動音がこちらにも響く。
「よろしくお願いします」
二度目の挨拶。
丁寧すぎるほどだった。
だが、今度は返事をしなかった。
僕たちはコーナーへ戻った。
意識が絞られていく。
罵声も、万歳も、照明の熱も、順に遠くなる。
視界に残るのは、英二郎ただ一人だ。
*ゴォン────────*
*パワウゥゥン――シャァン!!!!*
『コアが解放!一つでも破壊されれば即終了だ!』
試合開始。
英二郎は右足をわずかに引いていた。
右で撃つ形をしている。
だが、骨盤はまだ沈みきっていない。
本気で撃つ前に、僕の反応を見ている。
少しでも反応すれば、狙いを読まれる。
だから、足だけを動かす。
英二郎の右外へ、半歩。
僕が反応しないと分かると、英二郎の左肩が動いた。
*スパッ*
ジャブだ。
僕は外へ流した。
大きくは避けない。頬の横を通すだけだ。
*スパッ…*
二発目は、僕が避けた先を狙っていた。
もう同じ方向には逃げられない。
後ろへ下がっても、英二郎に距離を詰められる。
なら、下だ。
英二郎の前腕が押し込まれる直前、僕は身を沈めた。
英二郎の左前腕が、僕の肩の上を滑った。
最低限。
奴に見えているのは、沈んだ僕の頭と背中。
それから、狙いを外れたコアだけだ。
右腕も、足も、次に動く方向も見せない。
奴のAIは、見えない部分を予測で埋めるしかない。
「っ────────」
英二郎の左肘が畳まれた。
殴るためではない。僕の動きを止めるためだ。
その瞬間、低い位置にいる僕からは、英二郎の顎まで一直線だった。
そうか。
お前には見えたんだな。
見えていないはずの、次の僕が。
身体の奥で、力が跳ねた。
駆動音はない。警告もない。
予備動作も、奴の視界にはない。
サイレント。
ただ、床だけが知っていた。
*ガッツアアッツ────────ッ!!!*
ホワイトコアは狙わない。
英二郎の顎を、鈍く、生々しく叩いた。
『アッパーカットが決まったアッ!!』
英二郎の顔が跳ねた。
首の支持フレームが、一拍遅れて軋む。
巨体の上で、若い顔だけが上を向いた。
『だが、英二郎選手、倒れない!』
奴が僕を睨んでいた。一歩も下がらない。
いい。
今のは、少しだけ予想を超えた。
英二郎の反応が、一拍遅れている。
右拳を戻しながら、英二郎の真正面から横へ逃げた。
顎を打った余韻に付き合う暇はない。
*キィ……ィィン、ヂリッ*
すると、英二郎の右肩がわずかに沈んだ。
露骨に右で撃つ形を見せつけた。
だが、肩の向きが違う。
拳の線は、僕が逃げようとした先へ伸びている。
僕を狙っていない。
*ゴァ───ッッ!!*
『右ストレートッ!!』
『レオン選手、直撃は避けたッ!』
『直撃狙いではない!レオン選手の逃げ道を塞いだァ!』
英二郎の右ストレートが、他の逃げ道を潰していた。
僕は斜め後ろへ下がるしかなかった。
その瞬間、コアが一瞬だけさらけ出してしまった。
ほんの一瞬。だが、プロのセンサーなら拾える。
あの右拳なら、かすっただけで破壊判定を取られる。
しまった。
そう思うより先に、僕の身体がわずかに固まった。
だが、英二郎は撃たなかった。
「────」
奴のインプラントから雑音が消えた。
だが、左前腕は”雑”に振り上げられた。
何か不自然だ。
コアを狙う動きではない。
*ソアアッ...*
英二郎の左前腕は、僕の顔を狙っているように見えた。
だが、そのまま顔を通り過ぎ、首の後ろへ伸びてきた。
一瞬で、血の気が引いた。
こいつ、首の後ろを狙っている。
しかも、さっきの右とは比べ物にならない出力で。
構えもろくに取っていないくせに。
競技用の出力では、あり得ないはずだ。
*ガリッ…*
硬い縁が、僕の肩をかすめた。
狙いは首の後ろ。
脊柱インプラントの急所だ。
そこを潰されれば、首から下がまともに動かなくなる。
選手としては、それで終わりだ。
アイツはコアを撃てた。
勝負を終わらせる道は、目の前にあった。
それを捨てて、首の後ろへ来た。
間違えたわけではない。確信を持って、そこを狙った。
ルール上は、完全な反則とは言い切れない。
だが、まともな競技者なら絶対に狙わない。
それを、こいつは迷わず選んだ。
「……君は、競技者ではないんだな」
「失望した」
思わず、試合中にも関わらず、そう口に出てしまった。
その時、奴がどんな顔をしたかなど、見る気にもならなかった。
僕は勝負が好きだ。
殴り合いが好きなのではない。
相手の選択を読み、騙し、越えていく、その瞬間が好きだ。
だからこそ、許せなかった。
「……日本昭和再生国!!!」
「万歳!!!」
その声は、震えていなかった。
無礼者が。
国さえあれば、自分が何をしたか考えなくて済むのだろう。
英二郎、君にこのレオンを倒す資格はない。
僕は、静かに拳を沈めた。