晩餐会で最初に口にしたのは、ローストビーフだった。
「うまい」
噛むたび、温かい脂が舌に広がる。
肉が口の中でほどけていった。
「一曲、いかがですか」
もう一枚取ろうと伸ばした手が止まった。
そうだ。ここは晩餐会だけではなかった。
淡い青のドレスを着た女性が、俺に手を差し出していた。
指も手首もあまりに細く、俺の指一本で折れてしまいそうだった。
「……言っときますが、踊れませんよ」
「構いません」
その手を握って立ち上がると、椅子が重みに軋んだ。
「右手は、もう少し上で」
「こうですか」
広いはずの会場も人で混み合い、自由に動ける場所はほとんど残っていなかった。
「一、二、三」
彼女の声に合わせて足を動かすと、身体は意外なほど素直についてきた。
「お上手です」
「……ありがとうございます」
そう答えると、少しだけ肩の力が抜けた。
次の一歩はさっきよりも自然に出た。
「あっ、すみません」
横から来た男の肩が彼女にぶつかりそうになり、反射的にこちらへ引き寄せた。
ほんの少しのつもりが、彼女はあまりにも軽く、俺の方へ大きくよろめいた。
「……っ」
一歩下がって姿勢を直す。
「……大丈夫です」
そう言って微笑んだが、俺の手を握る力はさっきより少し強かった。
慌てて力を抜いた時には、背中のアクチュエータがすでに出力を上げていた。
*パァンッ*
*シュウウウ……*
しまった。
排圧弁が開き、行き場を失った出力が白い蒸気となって、礼服の背中から漏れ出した。
「……あ」
その音に周囲の視線が一斉に集まり、場を乱してしまったのだと分かった。
彼女の指が、俺の手の中で小さく震えていた。
離されると思った。
だが、その手はまだ離れなかった。
「えっと……」
謝るべきか、下がるべきか。
一瞬、分からなかった。
それでも、ここで終わりにしたくはなかった。
「続けますか?」
そう言うと、彼女は少しだけ目を丸くした。
「……はい」
彼女は小さく笑った。
「サイボーグの方って、本当にすごいんですね」
「あれはただの湯気ですよ」
彼女の手から少しだけ力が抜け、俺たちは再び足を動かした。
次の組が近づくと、今度は彼女を引かず、俺が先に横へ避けた。
彼女もその動きについてきて、今度はぶつからずにすれ違えた。
「一、二、三」
その声に合わせて足を運ぶと、さっきより床が広く感じられた。
曲がゆるやかに切り替わり、周囲の組が次々と相手を替えていく。
それにならって手を離すと、彼女の指だけがわずかに遅れてほどけた。
「……ありがとうございました」
彼女が礼をし、俺もそれにならって頭を下げた。
「よろしいですか」
顔を上げると、今度は白い手袋の女性が手を差し出していた。
「……はい」
一、二、三。
もう掛け声がなくても、身体は三拍子に合わせて動いた。
一歩目を前へ、二歩目を横へ、三歩目で足を寄せる。
白い手袋の女性が音楽に合わせて回り、ドレスの裾が床にふわりと広がった。
歩幅を少し小さくすると、彼女も同じように合わせてくれた。
ああ……
舞踏会に来てよかった。
そう思った途端、俺の一歩が半拍遅れ、彼女の足まで狂わせてしまった。
だが、慌てず次の拍に足を置き直す。ずれた二人の靴音が、また音楽に重なった。
その後も、相手を替えながら踊り続けた。
何曲目かも分からなくなった頃、踊りの輪の向こうから、試合中には聞いたことのない笑い声が響いた。
レオン選手の声だった。
俺は相手に礼をして輪を抜け、声の方へ向かった。
「ん?誰だ君は」
「酔いすぎじゃないですか?」
顔はもう真っ赤で、ろれつも少し怪しい。
それでも、グラスを持つ指先だけは妙に上品だった。
「ああ、すまない。英二郎か」
「いい夜だっただろう?」
「はい」
俺は迷わずそう答えた。
「それはよかった」
それだけ言って、彼は赤い酒の入ったグラスを掲げた。
「僕もいい夜だ」
少しだけ迷ってから口を開いた。
「また、こういう場所に連れてってください」
「僕に勝てたら考えようかな」
「次は負けません」
「この前のような手でか?」
「え?」
レオン選手はグラスを口元から離した。
さっきまで浮かんでいた笑みが、わずかに薄れた。
「首の後ろを狙ったあれだ」
「不愉快だ」
グラスがテーブルに置かれた。
音楽が流れ、誰かが笑い、皿の上にはまだ肉が残っている。
それなのに、俺の耳にはレオン選手の声だけが残った。
試合前に、教官から受けた命令を思い出した。
勝てなくても、レオン選手の力を奪え。
俺はそれに迷わず従った。
「君がそれを選ぶなら、好きにすればいい」
「だが、それで僕に勝ったことにはならない」
何か言い返そうとして、口が動かなかった。
そばの皿から肉を一切れ取り、口へ運んだ。
さっきまであれほど欲しかった味がもう分からなかった。
「……違います」
何が違うのか、自分でもまだ言葉にできなかった。