家を売ることが決まり、朝から業者を入れて私物の整理をしていた。
三十年住んだわりには持っていくものが少なく、家具も大半は処分するつもりだった。
残すものを選ぶのにもそう時間はかからない。
戸棚の奥を確認していると、小さな紙袋が出てきた。
中には古い接続端子やケーブルが入っていたが、今ではどれも使い道がなさそうだった。
いつ買ったものかも覚えていない。袋ごと処分しようとしたところで隣の部屋から声がかかった。
「こちらも確認をお願いします」
返事をして立ち上がり家を見回した。
これだけ長く暮らしていれば、いつ手に入れたのか分からない物が増えるのも当然なのだろう。
英二郎とは長いこと会っていない。
「ヨハンさん、こちらです」
声のした方へ向かうと業者が戸棚の前で待っていた。
残す物を伝え、あとはそのまま処分を任せる。
昼を過ぎる頃には大きな家具のほとんどが運び出されていた。
ここ数年は使っていない部屋も増え設備もそろそろ修繕が必要になっていた。
周辺の再整備も進み、家を手放すにはちょうどいい時期だった。
次に住む家は今よりずっと狭い。
見に行った時には物足りなく感じたものの一人で使うならあれくらいで十分だろう。
玄関の方から大きな音がして古い棚が運び出されていった。
「こちらで全部です」
確認を終えて業者を見送ると、さっきまで物音の絶えなかった家が急に静かになった。
家具のなくなった居間へ戻って壁際に残った椅子へ腰を下ろす。
英二郎との最後の試合を思い返すと、今でも楽しかったという感覚だけが残っている。
居間ではニュースが流れたままだった。
六百年以上続いたオリンピックが今日から解体に入ったらしく、画面にはIOC本部の正面から五つの輪を取り外す作業が映されている。
しばらく眺めていたが、やがて椅子から立ち上がった。
残っていた荷物を玄関へ運びながら、ここで過ごすのも今日が最後になるのだと思った。
荷物を車へ積み、新居へ向かった。
受付で名前を告げると待っていた入居者より先に奥へ通され、手続きには管理責任者が出てきた。
荷物の運搬には職員が三人付き、契約にはなかった上階の共用施設や専用駐車区画まで使えるようになっていた。
どれも頼んだ覚えはない。
現役の頃なら珍しくもなかった待遇が、今はひどく大げさに感じられた。
職員たちは作業の合間も普通に話していた。
昼をどこで食べるかや帰りの道が混むかどうかで話が続き、必要な時だけこちらへ確認を取りに来た。
作業が終わると三人とも丁寧に頭を下げてそのまま次の仕事へ向かっていった。
閉まった扉を見てから残った荷物へ目を戻した。
名前を出せば今でも特別に扱われる。
けれど職員たちは、私がどんな選手だったのかまでは気にしていないようだった。
自分もいつの間にか、昔の選手になっていた。
そう考えると不思議な気分だったが、悪くはなかった。
荷解きを続けていると窓辺の箱が邪魔になり、別の場所へ移そうと持ち上げたところで外に目が向いた。
建物の向こうには広い谷があり、斜面いっぱいに花が咲いている。
緩く曲がる遊歩道は谷底まで続き、花の間では家族連れが敷物を広げていた。
この辺りは戦争で大きく抉られた地域だった。
爆心地になる前は競技場があり、英二郎と最後に試合をしたのもそこでだった。
しばらく外を眺めてから荷解きに戻った。
『ヨハン様、新しい住居への登録が完了しました』
いくつか箱を開けたところで室内端末が鳴った。
表示を消して端末を閉じると、夕食にはまだ早かった。
何を食べるか考えながら途中まで開けていた箱へ手を伸ばした。