皇帝はオルタンスの憧れだ。
彼が初めて皇帝を見たのは十代の半ばのことだ。
皇帝がリュステンベルクに初めて入場したときのこと、沿道を占める厳めしい近衛兵が纏っていた煌びやかな軍服にも、彼らのしなやかで逞しい姿にも、オルタンスは眼が眩まんばかりだった。
だが、万雷の拍手を、幾千万の勇敢な戦士たちの歓呼を、ほしいままに浴びながら、大通りをまっすぐに通り抜けた皇帝の姿にこそ、オルタンスは心を奪われたのだ。
それは、特注の背凭れの長い鞍に頼りなく収まった小男に違いなかった。
万雷の拍手に対して、疲れた、憂鬱質の表情を隠そうともしない、愁いを帯びた若い小男だった。
顔は青白く、眉は歪んで頑迷そうな兆しを見せ、眼の下には薄っすらと隈まで浮かんでいて、無精髭さえもそよぎ、目は潤んで充血していたかもしれない。
噂に聞いていた、天から与えられたような美貌は一体どこにあるのか。
話が違うではないか、と。
こんな男に、人々は熱狂しているというのか、と。
そんな疑問が頭を過るが、それは、実に驚くべき、魔法のような『落差』となって、次の瞬間には観衆に襲い掛かった。
立派な葦毛に据え付けられた背凭れに、だらしなく身を預けていた、この疲れた若い青年はしかし、ある段階から人が変わったように、強い強い力を目に宿し始めるのだ。
それは虚勢虚飾の威厳などではない、等身大の人間が、ただ一瞬の為に全てを差し置いて、意志の力のみで己を奮い立たせる瞬間に放たれる、誠実な勇気から醸し出される崇高さである。
彼は今までとは打って変わって、燃えるような眼差しで周囲を睥睨し、それから一度ゆっくりと瞼を閉じた。
そして、ゆっくりと瞼を持ち上げるに合わせて、馬上ですっくと背筋を伸ばし、迷いのない手つきで手綱を握った。
するとどうだろう、それまで動く彫像のようにさえ見えていた彼の葦毛の愛馬の目が見開かれ、彼女もまた馬が変わったように姿勢を正し、馬首を一度反らすや鼻息も勇ましく、蹄蹟を石畳に刻み込むが如き確固たる足取りで、荘厳な行進を今こそ始めたのである。
この変化は何も馬だけではない、人々は知るのだ、この場で、この時に、居合わせたすべての人々を痺れさせ、思いのままに奮い立たせてしまう、その言外の力を、その出で立ちの真実を、その存在感の美を。
オルタンスはまさに、その熱狂の渦中にいた。
その瞬間を目撃したのだ。
彼が、この矮小の小男が、疲れ切った男が、確かに意志の力を芯に差し込む瞬間を、一人の人間が自分一人の器では到底収まりきらぬ存在感を、惜しみなく世界そのものへと氾濫させる瞬間を。
皇帝は血に依り、名に依り、或いは功により皇帝になるわけではないのだ。
その純粋なる意志により、現実を侵食し、目撃者たちを須らく影響下に置いてしまう、言うなればこの時代の名を勝ち取るに相応しい振る舞いにこそ、その理由は宿されていたのだ。
オルタンスは目撃した。
そして誓った、夢物語と見続けた、あの皇帝の側で我こそはお仕えするのだと。
時代を軋ませる、この巨大な引力の根源にこそ、この命を、この身を、この心を投じるべきであると。
それは天命に違いなく、オルタンスは自らが生まれ出で、生き、そして死ぬに相応しい目的を、時代精神の体現者だと彼自身が認めた、この男にこそ見出したのである。
当時、皇帝はまだ皇帝ではなくて、革命により打倒された王制に代わり成立した共和制アクィラの実質的な指導者として第一執政に就任しており、儀礼称号としては執政官を名乗っていた。
執政とは一年ごとに選挙により有力市民の中から選出される三人の代表者のことで、共和制における最も有力な政治の実行者のことを指し、中でも第一執政が強力な権限である兵権を有していた。
時の第一執政ではあったが、皇帝が第一執政になれたのは家柄のお陰などではなく、天から与えられたその美貌と『不滅の軍団』のお陰であるとは専らの噂であった。
ある日突然、アクィラ王国の飛び地でしかなかったプリズモ半島領に、皇帝は今よりもずっと僅かな『不滅の軍団』と共に現れたのだという。
千人足らずの『不滅の軍団』を率いて、皇帝は誰に忠誠を誓うわけでもなく、打倒革命に燃える周囲の封建的勢力との戦争を開始したのである。
すべての始まりはプリズモ半島から、の文言通りに。
皇帝は手始めに半島領から敵対勢力を追い出しに掛かると、瞬く間に在地勢力であったバルモス専制公国を駆逐し、半年足らずでプリズモ半島を飛び地からアクィラと地続きの領土へと変えてしまったのである。
そこからも、アクィラの革命軍とは合流せずに、ひたすら敵軍とぶつかり次第にこれを撃破し続け、孤軍にて一年足らずで東部戦線を安定させてしまったのである。
事ここに至れば、最早、皇帝の出自は問題視されず、救国の英雄として万歳三唱と共に、半ばその独立的な私兵権を黙認されたままに、アクィラの将軍として迎え入れられたのである。
彼がプリズモ半島に現れる場面は語り手によりけりで、噂の出所によっては悪魔の仕業だという話も少なくなかったが、そこから先の、ここまで話したような成り上がり物語の展開に大きな差は生まれ得ない。
なぜならば、皇帝に、そして彼の『不滅の軍団』に憧れた勇者たちは数知れず。
一度として友軍として公式的には共闘したことすらないのにも関わらず、彼らの輝かしい勝利を目撃し、これに憧れて皇帝の私兵団の扉を叩く者は後を絶たなかった。
これらの無謀を思いとどまらせることは、殊に熱狂と希望に突き動かされるままに現実が波打つこの時代に遭っては、到底無理な話であった。
そんな彼らは定命の人間の身を押して、頼まれてもいないのに皇帝の帷幄に馳せ参じると、幾多の戦場で勝利の栄光を目撃し、時に英雄的事業の当事者となり遂せ、或いは夢半ばに斃れ、その度に自分達の足跡を事細かに記録しては、公的な書物として世に送り出した為に、説得力と信憑性のある彼らの一貫した主張を覆すほどに荒唐無稽な噂は、目の肥えた読者達から支持されることがなかったのである。
そこには、少なくない皇帝からの後援があったものの、その道は粉飾の為ではなく、戦場の過酷な現実を余すことなく伝えるために、隠蔽からはまるで真反対の検閲を行うためだったという。
事実、公表された書物はどれも真に迫る戦場の空気感を伝えるものばかりで、戦場への恐怖を掻き立てる描写も多かった。
しかし、恐らくは皇帝の思惑とは裏腹に、この一連の克明なる戦記群は、革命の熱が冷めやらぬアクィラ共和国において、空前の大ベストセラーとなったのである。
市中では誰も彼もが皇帝と彼の『不滅の軍団』について描かれた戦記を手に手に、最強の将軍は誰なのかとか、最強の連隊はどこなのかとか、あーでもないこーでもないと激論を戦わせる光景がどこでだって見れるのだった。
子供たちの欲しいものは第一位が『皇帝と不滅の軍団』戦記の最新刊、第二位が子供用に誂えられた近衛連隊制服の精巧なレプリカ、第三位は子供用のおもちゃのサーベルと騎兵ブーツという有様で。
これらのものを欲しがる子供たちはアクィラの全土にごまんといたが、その中にはまだ十代に片足を突っ込んだばかりで、まだ皇帝を見たこともなかったオルタンス自身もいた。
当時のオルタンスにとって、それらの物はまだ物の域を出ていなかった。
寧ろ、当時の彼にとり、これらのものは純粋に権威を借りるに最適な物として認められており、冷徹に道具としてのそれらを欲していた時期であったのだ。
というのも、ここまでに幾度となく『彼』と言ってきたように、オルタンスは男の子なのである。
しかし、生まれも育ちも貴族であった両親から何不自由なく育まれつつも、ただ一つ思い通りに行かなかったことを挙げるとすれば。
オルタンスにとってそれは、自身の名前と、その名前に相応しいが過ぎる身体的な特徴に違いなかった。
女性名のオルタンスと名付けられたのは偶然ではない。
彼は生まれた時から美しかったのもあるが、同時に、死別した姉の分も生きて欲しいとの願いを込められてオルタンスという名前を贈られた上で、リュステンベルク侯爵の長子として生まれ落ちたのである。
彼の身体にはアクィラ王国のみならず、近隣の封建諸国家いずれの王公室にも非常に近しい高貴な血が流れており、両親の祖先には先々代のアクィラ国王だけでなく隣国の数代前の国王や専制公さえも含まれていた。
このように類まれなる貴顕の血を継いで生まれてきた、生粋の貴種ではあったが、彼が何不自由なく暮らすことができた期間は生まれてから革命が勃発するまでの十年足らずであった。
しかし、革命により父親が処刑台の露と消えても、貧乏暮らしに慣れない母親との暮らしで貧窮を覚えても、彼が本格的な絶望を経験することは幸いなことにして無かった。
というのも、彼らの貧窮は代々継承して経営してきた広大な私有地及び数世代掛けて蓄財されてきた家財の没収によるところが大きく、これらの裁定は革命政府によりまず行われ、継いで共和制下の執政官により継承されたが、積み上げられた旧貴族の莫大な財産は汚職と腐敗の温床でしかなかったのである。
しかし、この問題の解決は突然に訪れる。
後の皇帝が第一執政に就任したことで、彼を除く第二、第三執政による莫大な着服が判明したのである。
そして、ここで重要なことはこの時点で既に国内軍の指揮権並びに、私兵である『不滅の軍団』の指揮権を第一執政が一手に握っていたという点である。
実行力は申し分なく、何より彼には賄賂が効かなかったのである。
果たして、適切な再分配が行われていなかったことを閲した時の第一執政は、第二執政と第三執政に関する弾劾を提案し、これは全会一致で可決され、後には全会一致で執政官の交代が認められた。
加えて、貴族の地位を失った以上は一市民として生活を充当するべき、という第一執政を含めた新たな三頭の執政官による共通の意向に支えられて、軍と警察まで動員しての旧貴族の財産の再分配事業が全国規模で行われたのである。
この過程で、過剰に搾取されたものとして情状酌量を加味されたリュステンベルク侯爵家には、十分に生活していけるだけの家財と裕福な市民に準えられたある程度の広さの土地が再分配された為、オルタンスは母親との貧窮生活から脱することになり、今度は一転して一般的なブルジョワジーとしての生活に馴染んでいくことになるのである。
新たな生活が始まる頃は、オルタンスの成長期と見事に重なっていた。
オルタンスの憧れは屈強な兵士であり、中でも『不滅の軍団』の最古参の騎兵指揮官として挙げてきた赫々たる武功の数々で知られるラザロ将軍がお気に入りであった。
ラザロは大酒のみの上に死をも厭わぬ勇敢さで知られ、豪快だが部下想いで、それでいて戦術眼も一級品といった人物として著名であった。
『不滅の軍団』に途中入隊した者の中では一二を争う速さでの出世を遂げており、アクィラ共和国の軍人でありながら、皇帝の私兵軍団内部でのみ通用する旗王(バナーロード)の称号を好んで公称することでも知られていた。
実際、数十人いるアクィラの大将位や元帥位よりも、軍団の内部で十三名にしか授与されず、未だ授与されたのが五人に満たない旗王の称号にはより大きな名誉が宿っていると言えるだろう。
そんな憧れのラザロ将軍は健康的に日焼けした分厚い肉体を持ち、頑丈な骨格の容貌に口髭を生やし、猛り狂う悍馬を飄々と乗りこなし、その上で肉厚で長大なサーベルを手足のように操る豪傑である。
対して、オルタンスはもやしっ子の申し子のようである。
月とすっぽんも良いところで、髭どころか生えそろうべき毛が生える兆しさえも見えないほどであり、体は華奢で透き通るように白く、睫だけは羽毛がそのまま乗っかるほどに長くたっぷりとしていて、翡翠色の瞳は涙袋まで見事なもので、眼光に至っては敵が逃げるどころか小動物が憩うほどに、鋭さだけを置き去りにしたような慈愛と耽美を詰め込んだような有様である。
手つき足つき腰つきには、兎角嫋やかさと上品が宿り、戦記で読んだラザロ将軍の豪快な食べっぷり飲みっぷりを再現しようと試みようものならば、礼節の講師から拍手を送られる程度には粗野の極致に辿り着いていた。
騎兵用のサーベルを持ち上げて振るうことはできても、ナイフとフォークとスプーンとペンと、それから種々の高尚な楽器よりも遥かに上達する目途が立っているとは言い難いのであった。
何もかもが上手くいかない。
オルタンスは切実に、自分を変えてしまいたいと考えていた。
彼は母親から猫可愛がりされることを苦手に感じていたし、軍服以外では余計な装飾が過多にも思える華美な衣装で着飾ることさえ好まなかった。
周囲は彼にこそ似合うものだと言って押し付けたものだが、彼からしてみればそれらの衣装に似合ってしまう自分のことが憎たらしくて仕方がなかったのである。
彼は骨と筋の張った筋骨隆々の男性的な姿を目指して鍛錬を重ねていたが、実態は残酷であった。
彼の外見は年を経るごとに美しく、より中性的に洗練されていき、いよいよ母親からはドレスを着てくれるようにと強請られるに至っていた。
嬉しくも憎いことは、彼の鍛錬が外見以外においては確実に芽吹いていたという点であろう。
彼は始めた当初こそ、もやしっ子もいいところだったが、今となっては乗馬にしてもサーベルの扱いにしても周囲には並ぶ者がいないほどに上達していたのである。
彼の血がにじむような努力は確実に芽吹いていたが、同時に彼をますます苦しめる方向にも伸び続けていたわけである。
そのような、実感と鬱屈の双方を味わう日々の中で、彼はますます戦記へ、ひいては皇帝と彼の軍団への傾倒を強めていったのであるが、幸か不幸か、彼の母親は家財を返還してくれた恩を忘れておらず、彼の第一執政への傾倒に関しては敢えてこれを抑圧することをしなかった。
結果的に、彼、オルタンスは最も多感な時期に故郷であり、本来であれば自身が継承するはずだったリュステンベルクの主城へと、憧れの第一執政が彼の軍勢と共に入場する様をしかと見届けることを叶えたのである。
この時の体験は彼の人生を根本から変えてしまったと言えた。
まだ、この目撃の前段階であれば、彼も成長し、経験を積むうちに引き返せたかもしれない。
薄幸の貴公子として人生を穏やかに終えることも、決して高望みではなかっただろう。
しかし、現に彼は憧れを目撃し、自らが目指すべきところを強烈に意識することになったのである。
果たして、オルタンスは行動した。
彼はその日のうちに、本来ならば自身の所有財産であったところの、今では第一執政の御座所と化したリュステンベルク城へと向かい、『不滅の軍団』へ志願したのである。
全てを置き去りにして、軍団への所属を熱望するオルタンスはこの日、その熱意を天が酌んだのか、図らずも憧れの第一執政との邂逅を果たすことになった。
城主の間から私室へと場所を移してすぐに、絨毯の上から逸れて木張りの床に向かうと、そこでオルタンスは身を投げ出す勢いで跪き、第一執政に終生この身を捧げることを宣言した。
一切の迷いのない振る舞いには、誰の目から見ても一角の意志が宿っていた。
そして、それを見逃す第一執政ではなかった。
彼はオルタンスの手を取り、まずは一兵卒の視点から、比較的安全な場所で戦場を目撃すること、堪えられないと感じたら正直に訴え出ることを誓約させ、この制約を守る限りにおいてオルタンスを自身の軍団の一員として、自身の家族として迎え入れる旨を自らの口で宣誓した。
この約束は完全に予想外だったようで、オルタンスは感激の余り、その華奢な外見からは思いもつかない俊敏と跳躍力で第一執政に飛びついて、力一杯に抱き締めながら何度も口づけたほどであった。
余りの喜びように、近衛兵でさえオルタンスを引きはがすのは一苦労であった。
こうして、オルタンス・ド・リュステンベルクは念願を叶えた。
彼はこの時から皇帝の私兵となった。皇帝の家族となった。皇帝の手足となり、目となり耳となり声となり、血となり汗となった。
オルタンスは第一執政麾下の『不滅の軍団』こと、第一執政親衛隊・第一親衛猟騎兵連隊の中でも新参大隊の新参猟騎兵として軍歴を開始した。
オルタンスの急転直下の軍幕入りは、彼の母親を驚かせたが、誰よりも息子の渇望を長く目の当たりにしてきた母親には、彼を止めるに足る十分な説得材料がなかったのである。
反対をされることはなく、純粋な心配と、晴れやかな息子の顔にいささかの喜びと安堵を見出した母親は、ただ息子の願いが末永く報われ続けることを願ったのである。