氷の銀、闇の蛇 作:トート
大吊り橋を渡りきったあとも、一行を包む不穏な空気は一向に晴れる気配を見せなかった。それどころか、クルックの豹変ぶりは、シュウとジーロの焦燥感を爆発寸前のところまで押し上げていた。
「おい、クルック。今日の分の水筒、俺がまとめて運んどくよ」
シュウが無理に作った笑顔で話しかける。しかし、クルックは弾かれたように数歩後退し、自らの胸元を両腕で隠すように抱きしめた。
「あ……ううん、大丈夫。自分で……全部、シルバさんの言う通りにするから……っ」
「え……?」
シュウの手が宙で止まる。クルックの瞳は、目の前の幼馴染みではなく、遥か前方を進む銀髪の背中を、恐れと狂おしいほどの熱を孕んだ目で追いかけていた。
吊り橋の上という、シュウたちのすぐ目の前で繰り広げられた密やかな調教。シルバの頑強な肉体に圧し潰された恐怖と、その後に衣服の上から肌を侵食した、あの背徳的な『飴』の熱。
(『わたし、もっと、いい子にするから……』)
自ら口にしてしまった、ゾラと同じ立場を求める歪んだ渇望。その言葉は、クルックの心に決定的な枷をはめていた。今の彼女は、前方を歩くシルバがわずかに首を動かすだけで、その意図を本能で察知し、従順に歩調を合わせるようになっていた。
「クソッ……もう見てられねぇ!」
ジーロが激しい怒りとともに、己の拳を骨が鳴るほど強く握りしめた。
「シュウ、お前も気づいてるだろ。クルックは完全にアイツに心を乗っ取られてる。あの吊り橋で助けられたフリをして、あの男、クルックにどんな卑劣な呪いをかけやがった!」
「シルバ……ッ!」
シュウの全身から、怒りに応じるように青き竜『ブルードラゴン』の殺気が陽炎のように立ち上る。
「俺は絶対に許さない。ゾラさんがあいつをどれだけ必要としていようが、仲間の心をあんな風に壊して従わせる奴は、絶対に旅の仲間なんかじゃない!」
少年たちの怒りと不信感は、ついに頂点に達していた。これ以上クルックが侵食されるのを見ていられない。二人は言葉を交わさずとも、一つの「決意」を共有していた。この旅から、あの銀髪の怪物を排除しなければならない、と。ジーロの腕の筋肉が、怒りでみしり、と拒絶の音を立てていた。
その夜、険しい岩山の割れ目に作られた臨時のキャンプ地。
いつもなら、子供たちは疲れてすぐに眠りにつくはずだった。しかし、今夜のシュウとジーロの目は冴え渡っていた。二人はクルックをテントの最奥へと寝かせると、その入り口を塞ようにして固く陣取った。
「ジーロ、今夜は交代で見張りをするんじゃない。二人でずっと起きてよう。あの男がクルックに近づこうとしたら、その瞬間に俺たちの影で叩き出す」
「ああ、望むところだ。ミノタウロスの拳で、今度こそアイツの顔面をぶん殴ってやる。ゾラが何と言おうと、今夜こそアイツの本性を暴いてやる」
少年たちはいつでも影を召喚できるよう拳を強く握りしめ、テントの隙間から外の暗闇を激しく監視していた。
しかし、そんな子供たちの必死の「包囲網」など、シルバにとっては最初から存在しないに等しかった。彼が今夜呼び出すのは、クルックではない。彼の心も肉体も、すべては最初からゾラのためだけに捧げられているからだ。
焚き火の光が届かない、最も深い闇がとぐろを巻く岩陰。
シルバは一人、大柄な体躯を壁に預けて佇んでいた。そのエメラルドの瞳は一片の油断もなく、シュウたちのテントを見つめている。彼の罠に嵌まり、完全に操り人形となったクルック。そして、それを守ろうと必死に牙を剥くガキども。全ては、主であるゾラの旅を完遂させるための「盤上の駒」の動きに過ぎなかった。
ササ、と静かな足音がして、闇の中からゾラが現れる。
彼女の顔には、世界の運命を背負う重圧と、子供たちの限界が近いことへの深い疲弊が滲んでいた。
「あの子たち、今夜は眠る気がないみたいね」
ゾラが低い声で呟く。
シルバは無言のまま、自分の漆黒の外套をゾラの細い肩へと優しくかけ直した。そして、丸太のように太く頑強な腕をゆっくりと回し、彼女の華奢な身体を、自らの分厚い胸板の中へとすっぽりと抱きすくめた。
衣服越しに伝わる、シルバの圧倒的な熱量と、鋼のように硬い筋肉の鼓動。ゾラはその胸の中で、深く安らかな息を吐き出す。
「ガキどもの監視など、俺には無意味だ。お前を阻む障害があるなら、それが身内の正義だろうと、俺の『ハイドラ』がすべて噛み砕いて肉塊に変える。お前はただ、俺の檻の中で守られていればいい、ゾラ」
シルバの大きな、硬い手のひらが、ゾラの髪を狂おしいほどの情愛を込めて撫で上げる。
ゾラはシルバの銀髪に指を絡め、彼の薄い唇へと自らの唇を重ねた。深く、息が詰まるほどの濃厚な口づけ。他者を一切寄せ付けない、絶対的な大人の主従関係。
テントの奥で、シルバに呼ばれるのを今か今かと待ち続け、やきもち(嫉妬)と歪んだ渇望で涙を流しているクルックの存在など、この二人の閉鎖的な世界には、1ミリも入り込む隙間はないのだった。
しかし、テントの隙間から外を監視していたシュウとジーロは、暗闇の奥で重なり合う、ゾラとシルバの「異様な影」を、ついにその目で捉えていた。
「な……んだよ、あれ……」
シュウの驚愕の声が、静かな夜の空気に、破滅の予兆を告げるように冷たく響いた――。