氷の銀、闇の蛇 作:トート
荒野の赤茶けた世界をようやく抜け出した一行の眼前に広がったのは、生い茂る巨木と、その幹にへばりつくようにして作られた石造りの建物が並ぶ「深緑の街」オプシディアだった。
中世の城塞都市を思わせる頑強な石壁と、古代文明の遺物である魔導ランプの青白い光が奇妙に融合したその街は、一見すると平和な交易都市のように見えた。しかし、ネネの影が世界に広がって以降、この街もまた、グランド・キングダムの密偵や傭兵たちが潜む、欲望と猜疑心に満ちた危険な境界線と化していた。
「やっとまともな街に着いたな……」
シュウが背伸びをしながら、石畳の道を歩く。数日間の過酷な荒野の旅、そして何よりシルバという「怪物」と同じ空気を吸い続けなければならなかった精神的な疲弊から、彼の顔には濃い影が落ちていた。
「油断するな、シュウ。ここはグランド・キングダムの勢力圏に最も近い交易路よ」
先頭を歩くゾラが、外套のフードを深く被りながら低い声で窘める。その斜め後ろには、常に銀色の髪をなびかせたシルバが、静かな威圧感を放ちながら付き従っていた。
見上げるほど大柄なシルバの体躯は、街を行き交う小柄な住民たちの中でひときわ異彩を放っている。鎧の擦れ合う硬質な音が響くたび、周囲の通行人が怯えたように道をあける。エメラルドの瞳は一片の感情も宿さず、ただゾラの安全を脅かす存在がいないか、周囲の路地裏の闇を冷酷に値踏みしていた。
クルックは、そんなシルバの広く逞しい背中を、少し後ろから盗み見るようにして歩いていた。
荒野の夜、ゾラをその分厚い胸板の中にすっぽりと閉じ込めていたあの逞しい腕。シュウのブルードラゴンを片手でねじ伏せた、あの圧倒的な破壊力。恐怖の裏側にある、ゾラだけが独占しているその「甘さ」へのドス黒いやきもちが、彼女の胸の奥でじくじくと疼き続けている。
「……クルック、本当に大丈夫か? 顔が赤いぞ」
隣を歩くジーロが、再び怪訝そうな視線を投げかけてくる。
「え、あ……うん! ちょっと、街の空気が荒野と違うから、のぼせちゃっただけだよ」
クルックは慌てて視線を逸らし、ジーロに悟られまいと早足になった。自分の胸の内にある歪んだ執着は、誰にも知られてはならない暗い秘密だった。
一行が身を寄せたのは、街の片隅にある古びた酒場兼宿屋だった。
ネネの居城『タルタロス』へ向かうための手がかり、あるいはグランド・キングダムの軍隊の動向を掴むため、ゾラはここで情報収集を目的とした隠密作戦を提案した。
「シュウとジーロは、街の中央広場で噂話を集めなさい。クルックは宿で荷物の見張りを。私はシルバを連れて、裏社会のブローカーと接触するわ。夜になるまでは、絶対に目立つ行動は慎むこと」
ゾラの冷徹な指示に、シュウは露骨に不満そうな表情を浮かべた。
「チェッ……なんであいつと一緒なんだよ。俺たちじゃ頼りないってことか?」
「そうよ。あなたたちにはまだ、裏社会の毒を浴びせるわけにはいかないわ。行くわよ、シルバ」
「ああ」
シルバは短く応じると、ゾラと共に酒場の裏口から霧が立ち込める夜の路地裏へと消えていった。
一人残されたクルックは、宿屋の二階の窓から、二人の後ろ姿をじっと見つめていた。ゾラの華奢な身体に寄り添うように歩く、シルバの巨大な影。その閉鎖的な大人二人の世界に、クルックは激しい疎外感とやきもちを覚え、ぎゅっと窓枠を握りしめた。
「どうして……どうして私じゃダメなの……」
その呟きは、誰に届くこともなく夜の静寂に消えていった。
夜が更け、オプシディアの街は不気味な静寂に包まれていた。
ゾラとシルバが向かったのは、街の地下に広がる放棄された古代の地下水道――通称「嘆きの迷宮」だった。かつては交易路として使われていたその場所は、今や犯罪者やグランド・キングダムの密偵が蠢く無法地帯となっていた。
暗い通路を進む中、シルバの耳が微かな足音を捉えた。
「――ゾラ、ネズミだ」
シルバが低く地を這うような声で告げた瞬間、暗闇の中から無数のクナイが飛来した。
ガガガガッ!!
シルバが瞬時に一歩前に立ち、その頑強な腕の装甲で全てのクナイを叩き落とす。彼の背後から現れた漆黒の巨蛇『ハイドラ』が、闇に向かって凄まじい咆哮をあげた。
「ふふ、やっぱり噂通りの鋭さね。闇の戦士ゾラ、そしてその飼い犬さん」
妖艶な笑い声とともに現れたのは、肌の露出の多い黒い衣装をまとった、妙齢の美しい女だった。その背後には、数人の男たちが武器を構えて控えている。
「あなたたちはここで終わりよ。ネネ様への手土産になってもらうわ」
女はグランド・キングダムが放った精鋭の女スパイ、ミレイアだった。彼女が合図を送ると、周囲の壁から古代文明の魔導トラップが作動し、ゾラとシルバの周囲を強固な光の檻が囲い込もうとする。
「チッ……罠ね」
ゾラがキラーバットを構えるが、魔導の檻は彼女の影の魔力を吸収し、展開を阻害していく。
「無駄よ、その檻は影使いの力を封じるためにネネ様が開発したものだから」
勝ち誇るミレイア。しかし、彼女は決定的な誤算をしていた。
シルバという男の恐ろしさは、影の力だけではない。その199センチの巨躯に秘められた、圧倒的な「肉体の暴虐」こそが、真の怪物たる所以だった。
「お前たちの浅知恵など、この肉体には通用しない」
シルバの手首の筋肉が、鎧の下で爆発的に盛り上がる。彼はハイドラの力を借りることなく、ただ己の怪力だけで、展開しかけていた魔導の光の檻の発生装置を、素手で強引に掴み取った。
メリメリ、と鋼鉄がひしゃげる凄まじい音が響く。
「な……っ!? 素手で魔導装置を破壊するなんて、人間じゃないわ……!」
ミレイアが驚愕に顔を引きつらせた瞬間、シルバは発生装置を力任せに引き剥がし、岩壁へと投げつけた。轟音とともに檻が霧散する。
「障害は、粉砕する」
シルバのエメラルドの瞳が、冷酷な光を放ちながらミレイアを捉えた。
大柄な体躯が一瞬で距離を詰め、ミレイアの背後に控えていた男たちの首を、丸太のような腕で次々と掴み上げる。ゴキリ、という生々しい骨折音が暗い地下水道に響き渡り、男たちは悲鳴を上げる暇もなく泥水へと沈んでいった。
「ひ……あ、ああ……っ!」
仲間を一瞬で肉塊に変えられ、ミレイアは恐怖で腰を抜かした。彼女は涙を流し、衣服を乱しながらシルバを見上げる。
「待って……助けて! 私はただ、命令されて……! 命だけは、助けて……!」
美しい女の命乞い。普通の男であれば、その美貌と涙にわずかな躊躇いを覚えるかもしれない。しかし、シルバにはそんな感傷など最初から存在しなかった。彼にとって、目の前の存在が女だろうが子供だろうが関係ない。牙を剥いた以上、それはただの「排除すべきゴミ」だった。
シルバは冷徹な目のまま、ミレイアの細い首をその巨大な手のひらで掴み、強引に吊り上げた。
「がはっ……ぁ……っ!」
ミレイアが必死にシルバの頑強な腕を引っ掻くが、鋼のように硬い筋肉には傷一つ付かない。シルバの手首に力が込められ、ミレイアの顔が苦痛で歪んでいく。
「やめろ、シルバ!!」
その時、地下水道の入り口から、激昂したシュウの声が響き渡った。ゾラたちの異変を察知し、密かに後を追ってきていたシュウ、ジーロ、そしてクルックの三人が、そこに立っていた。
シュウはブルードラゴンを呼び出そうとするが、シルバは一瞥すら呉れない。
「生かせば、次の罠を呼ぶ。ここで消すのが最も確実だ」
シルバの低い声音が響いた直後、ハイドラの巨大な首が闇から突き出され、ミレイアの身体を容赦なく締め上げ、岩壁へと叩きつけた。
ドォンッ!!
短い悲鳴とともに、ミレイアの身体は力なく泥水へと崩れ落ち、二度と動かなくなった。
「また……またそんな酷いことを……!」
シュウが拳を握りしめ、シルバに向かって掴みかかろうとする。ジーロもその残虐さに顔を青ざめさせていた。
しかし、その惨劇を目の当たりにしたクルックだけは、激しい恐怖で全身を震わせながらも、その瞳には異様な熱が宿っていた。
女子供に関係なく、自分の目的(ゾラ)のために一切の容赦をしないシルバの冷酷さ。その圧倒的な「強者」としての姿に、彼女の心は恐怖の限界を超え、狂おしいほどの依存とやきもちの沼へと、さらに深く引きずり込まれていくのだった――。