氷の銀、闇の蛇 作:トート
「……な、なんてことを……!」
シュウの震える声が、湿った地下水道の空気を激しく揺さぶった。
泥水に沈み、二度と動かなくなった敵の女スパイ、ミレイア。その無惨な結末を前に、シュウは怒りと嫌悪感で顔を真っ赤に染め、シルバに向かって一歩を踏み出した。その背後では、ジーロが今にもミノタウロスを呼び出さんばかりに身構え、張り詰めた殺気が狭い地下通路に充満していく。
だが、ハイドラを消滅させたシルバは、彼らの怒気など意に介さず、ただ乱れた銀髪を無造作にかき上げただけだった。大柄な体躯から放たれる威圧感は、それだけで子供たちの前進を躊躇わせるに十分だった。エメラルドの瞳には一片の悔恨もなく、ただ冷徹に、主であるゾラへと視線を戻す。
「ゾラ、深追いは無用だ。ネズミの巣はまだ近くにある。ここを離れるぞ」
「ええ、そうね。シュウ、ジーロ、武器を収めなさい。ここは戦場よ。敵への同情は自分たちの死を招くだけだと、まだ分からないの?」
ゾラは冷たい声で子供たちを一喝すると、泥に汚れた衣服を払うこともせず、シルバの隣へと歩み寄った。
シルバはその広く分厚い胸板で、まるであらゆる追撃から彼女を遮るように立ち塞がる。その二人の間にある、他者を一切拒絶するような絶対的な信頼の空気――。
それを見つめるクルックの胸の奥で、ドス黒い「やきもち」が激しく渦巻いていた。
(ゾラさんを守るためなら……あの人は、本当に誰だって殺しちゃうんだ。女の人だろうが、子供だろうが……。どうしてそこまで、ゾラさんだけのために……っ)
ミレイアを容赦なく切り捨てたシルバの姿は、恐ろしくて堪らなかった。しかし、恐怖の限界を超えたクルックの心は、その底知れない冷酷さと、ゾラにだけ捧げられる絶対的な忠誠心に、どうしようもなく惹きつけられていた。もしあの強固な腕が、ゾラではなく自分を抱きしめてくれたなら――そんな叶わぬ幻想が、彼女のまだ幼い理性をじわじわと焼き尽くしていく。
「クルック、戻るぞ。……おい、聞いてるのか?」
ジーロに肩を叩かれ、クルックはびくりと身体を震わせた。
「あ、う、うん……。ごめんなさい、ちょっと足がすくんじゃって」
必死に動揺を隠しながら、クルックはシュウたちと共に、先を行く大人二人の背中を追って歩き出した。湿った地下道を進む間も、彼女の視線は、シルバの広く逞しい背中からどうしても離れることができなかった。
宿屋へと戻った一行だったが、パーティー内の亀裂はもはや修復不可能なほどに深まっていた。
シュウとジーロは一言も口を利かず、怒りを押し殺したまま自分たちの部屋へと引きこもる。ゾラもまた、「明日の夜明けにはこの街を発つわ」とだけ言い残し、シルバを伴って部屋へと消えていった。
深夜。宿屋全体が不気味な静寂に包まれる中、クルックはベッドの中で幾度も寝返りを打っていた。
目をつぶれば、昼間のシルバの冷酷な瞳と、あの頑強な筋肉の動きがありありと脳裏に蘇る。胸の鼓動がうるさいほどに脈打ち、息が苦しくなる。
(シルバさん……。今、ゾラさんと何をしてるの……?)
耐え切れなくなったクルックは、まるで何かに取り憑かれたようにベッドを抜け出した。
足音を忍ばせ、薄暗い廊下を進む。ゾラとシルバが使っている部屋の前で、クルックはピタリと足を止めた。そっと扉に耳を寄せると、微かに、けれど確実に二人の低い話し声が漏れ聞こえてきた。
「……あの子たちの反発が、日に日に強くなっているわね。特にシュウは、いつかあなたの足を引っ張るかもしれないわ」
ゾラの、いつになく弱気を含んだ掠れた声。
「心配いらない。お前の目的の障害になるなら、あのガキどもごと俺が排除するだけだ。お前はただ、前だけを見ていればいい、ゾラ」
シルバの、地を這うような低い声音。
続いて、衣服が擦れ合う微かな音が響く。クルックはたまらず、建付けの悪い扉の隙間から、部屋の中をこっそりと覗き見た。
月光が差し込む部屋のベッドの端。
ゾラは、シルバの広く分厚い胸の中にすっぽりと収まり、彼の頑強な腕に抱きすくめられていた。シルバの大きな、硬い手のひらが、ゾラの髪を驚くほど優しく、愛おしそうに撫でている。いつもはクールなゾラが、その胸の中でまるで小さな子供のように安らいだ表情を浮かべていた。
「シルバ……。あなたが私の盾でいてくれて、本当に良かったわ」
「俺のすべてはお前のものだ、ゾラ。お前を一人にはさせない」
二人はまだ、深く身体を重ねるような段階ではない。だが、言葉を交わすだけで互いの魂を完全に独占し合っているその光景は、肉体的な情事よりも遥かに強固で、他者が入り込む隙間など1ミリも存在しない「絶対的な信頼の檻」だった。
「あ……、あ……っ」
隙間からそれを見たクルックは、胸を激しい衝撃で貫かれた。
昨夜の荒野での光景は気のせいではなかったのだ。自分たちにはゴミを見るような冷徹な目を向けるあの男が、ゾラに対してだけは、狂おしいほどの情愛と温もりを注いでいる。
自分はただの足手まといのガキ。シルバにとって、ゾラ以外の人間など、ただの風景か道具に過ぎない。
格の違いを見せつけられた決定的な疎外感と、ゾラへの激しいやきもちが、クルックの胸をズタズタに切り裂いていく。悔しくて、羨ましくて、涙が止めどなく溢れ出た。
(ずるい……。ゾラさんだけずるいよ……っ。私も、あの大きな腕の中で優しくされたい……っ)
ガサリ、と動揺したクルックの身体が、不意に扉の木枠を大きく鳴らしてしまった。
「――誰だ」
部屋の中から、シルバのエメラルドの瞳が、瞬時に鋭さを増して扉の隙間を射抜いた。
息が止まるほどの凄まじい殺気。ゾラを腕に抱いたまま、微動だにせずこちらを睨みつける戦鬼の視線に晒され、クルックは悲鳴を上げそうになりながら、狂ったように自分の部屋へと走り出した。
背後から追ってくる足音はなかった。しかし、自室のベッドに飛び込み、毛布を頭から被っても、シルバのあの冷酷な眼差しが網膜にこびりついて離れない。
恐怖と、激しい嫉妬、そしてあの強大な男に自分も支配されたいという歪んだ執着。暗い秘密の種は、クルックの心の中で修復不可能なほどに肥大化し、彼女を泥沼の依存へと引きずり込んでいくのだった――。