氷の銀、闇の蛇 作:トート
翌朝、オプシディアの街を包む空気は、まるで冷たい雨が降り出す直前のように重苦しかった。
宿屋の一階、薄暗い食堂の片隅で、一行は出発前の簡素な朝食を摂っていた。だが、スプーンが皿に当たる硬質な音だけが響き、会話は完全に途絶えている。
シュウとジーロは、正面に座るシルバに対して露骨に背を向け、怒りを押し殺したままパンを噛みちぎっていた。命乞いをする女を容赦なく排除したシルバへの嫌悪感は、すでに限界に達している。
だが、当のシルバは眉一つ動かさない。
大柄な体躯を椅子の背もたれに預け、銀髪を朝の光に鈍く光らせながら、ただ冷徹に佇んでいる。その切れ長の奥にあるエメラルドの瞳は、まるで周囲の子供たちを石ころか何かのように見下ろしていた。その隣には、いつもと変わらぬクールな表情で旅の地図を確認するゾラの姿がある。二人の間には、昨日と変わらず、誰も介入できない確固たる大人の空気が流れていた。
(……あの手で、昨日もゾラさんを抱きしめてたんだ)
クルックは、スープに浸したスプーンを握ったまま、指先を小さく震わせていた。
昨夜、扉の隙間から目撃してしまった、ゾラとシルバの密やかな夜。シルバの広く分厚い胸板の中にすっぽりと収まり、安らかな表情を浮かべていたゾラ。そして、そのゾラをこの世の何よりも愛おしそうに撫でていた、シルバの頑強な筋肉の塊。
その生々しい記憶が脳裏を支配するたび、クルックの胸の奥で、ドス黒い「やきもち」と疎外感がじくじくと泡を立てた。
(どうして……? ゾラさんだけなの? 私にはあんなに恐ろしい目を向けるのに……)
「おい、クルック。スープがこぼれてるぞ」
隣からジーロの声がして、クルックはびくりと肩を跳ね上げた。見ると、小刻みに震える手からスープが皿の外へと滴り落ちていた。
「あ、え、ええ……っ! ごめんなさい、なんでもないの!」
慌てて布で机を拭うクルック。その異様な動揺っぷりに、シュウが怪訝そうに顔を近づけてくる。
「本当に大丈夫か、クルック? 昨日からずっと顔色が悪いぞ。やっぱり、あの男のせいで――」
シュウがシルバを強く睨みつけた、その瞬間だった。
シルバが、ゆっくりと視線を動かした。一切の温度を感じさせない、エメラルドグリーンの瞳が、真っ直ぐにクルックを射抜く。
昨夜、覗き見を見つかった時の、あの凍りつくような殺気が一瞬だけ脳裏を過り、クルックは恐怖で息が止まりそうになった。
「ガキの情緒に付き合っている暇はない。足手まといになるなら、ここに置いていくまでだ」
シルバの冷酷な声音が響く。
「なんだと、お前……っ!」
シュウが激昂して立ち上がろうとしたが、それを遮ったのはゾラだった。
「そこまでよ、シュウ。荷物をまとめなさい。出発するわよ」
ゾラの一言で、食堂の空気は凍りついた。クルックは真っ赤になった顔を伏せ、激しい罪悪感と、シルバに見つめられたことによる奇妙な胸の昂ぶりに引き裂かれながら、逃げるように席を立った。
オプシディアの街を出外れ、再び荒涼とした岩山へと続く一本道。
一行が歩みを進める中、クルックの情緒は完全に限界を迎えていた。シルバの足音が近づくたびに身体が硬直落し、彼の広く逞しい背中を見るだけで、嫉妬と恐怖で涙が出そうになる。シュウたちの前で無自覚にギクシャクしてしまう彼女の様子を、シルバの冷徹な目はすべて見抜いていた。
やがて、一行が深い岩の割れ目――狭い一本道の渓谷に差し掛かった時のことだ。
「ゾラ、前方に妙な気配がある。俺が先に見てこよう」
シルバが低く告げた。
「ええ、お願い。私たちはここで待機するわ」
シルバは歩き出し、岩壁の曲がり角へと消えていく。その直後、シルバは振り返り、最後尾を歩いていたクルックにだけ、視線で「来い」と無言の命令を下した。
(え……?)
クルックの心臓がどくん、と激しく跳ね上がった。恐怖が全身を駆け巡る。しかし、それ以上に彼の命令に逆らえないという絶対的な呪縛が、彼女の足を突き動かした。
「あ、あの、私、ちょっと落とし物しちゃったみたい……。すぐ戻るね!」
シュウたちが怪しむ前に、クルックは早足で来た道を戻るフリをして、シルバが消えた岩陰へと足を踏み入れた。
薄暗い岩の隙間。そこは、シュウたちのいる場所からは完全に死角となった空間だった。
「ひっ……!」
足を踏み入れた瞬間、クルックの細い手首が、冷たく、頑強な手によって強引に掴まれた。
そのまま壁際へと引きずり込まれ、背中が硬い岩肌に押し付けられる。行く手を完全に塞ぐようにして立ちはだかったのは、見上げるほど大柄なシルバの巨躯だった。
逃げ場のない、圧倒的な体格差の檻。
シルバのエメラルドの瞳が、至近距離から冷酷にクルックを見下ろしている。彼の分厚い胸板が迫り、鎧の下の強固な筋肉が放つ圧倒的な熱量と威圧感が、クルックの理性を一瞬で吹き飛ばした。
「昨夜は、いいものが見られたか? クルック」
シルバの声は地を這うように低く、そして凍りつくほど冷たかった。
「あ……シルバ、さん……わたし、は……っ」
手首を掴むシルバの手は、まるで鋼鉄の枷のようだった。少しでも力を込められれば、自分の華奢な骨など簡単に砕け散ってしまう――その圧倒的な『強者と弱者の差』が、クルックの全身の肌に生々しく恐怖を刻み込んでいく。
「ゾラにやきもちでも焼いたか? 身の程を知れ、ガキが」
シルバのもう片方の大きな手のひらが、クルックの華奢な顎を強引に掴み、無理やり自分を見上げさせた。
「勘違いするな。お前はゾラの目的を果たすための、ただの『便利な道具』に過ぎない。俺の心も、肉体も、すべてはゾラのためだけにある。お前のような子供が立ち入っていい領域ではないんだ」
「痛い……シルバさん、痛いよ……っ」
涙を浮かべるクルックに対し、シルバの表情には一片の憐れみも浮かばない。目的のためなら女子供だろうが容赦しない彼にとって、これは旅の秩序を乱す反抗の芽を摘むための、冷酷な『お仕置き』だった。
しかし、シルバは怯えきった彼女の瞳を見つめながら、指先の力をふっと緩めた。
「……だが、お前が自分の立場を弁(わきま)え、俺の言う通りにするというなら、これ以上は痛い目は合わせない」
そこからが、シルバの底知れない『飴』の罠だった。
先ほどまでの暴虐な強引さが嘘のように、彼の大きな手のひらが、クルックの涙で濡れた頬を優しく包み込んだ。鍛え上げられた無骨な手が、驚くほど丁寧に、愛おしむように彼女の肌をなぞり、首筋から鎖骨へと滑り落ちる。
「ひ……あ、う……っ」
恐怖の限界の後に与えられた、そのわずかな『甘さ』と温もり。
クルックの脳内に、強烈な痺れのような快感と安堵が駆け抜けた。昨夜、ゾラだけが受けていたあの優しい愛撫が、今、ほんの少しだけ自分にも向けられている。その歪んだ事実に、クルックの精神は一瞬で依存させられていく。
シルバはクルックの耳元に唇を寄せ、逃げられない呪縛の言葉を注ぎ込んだ。
「シュウたちには何も言うな。お前は俺の言う通りにだけ動いていろ。……『いい子』にしていれば、また優しくしてやる」
「……は、い……。シルバ、さんの……いう通りに、するから……っ」
恐怖と嫉妬、そしてこの強大な男に選ばれたいという歪んだ執着の沼へと、クルックは完全に沈み込み、自ら進んでその支配を受け入れた。
シルバは満足げに薄い唇を歪めると、掴んでいた手を完全に離し、何事もなかったかのようにゾラの待つ道へと歩き去っていった。
残されたクルックは、シルバの手の温もりが残る首筋を抱え、荒い息をつきながら、もう二度とこの男の檻から抜け出せないことを本能で理解していた――。