氷の銀、闇の蛇 作:トート
渓谷の薄暗い岩陰から戻ったクルックの様子は、誰の目から見ても明らかに異様だった。
これまではシルバの足音が近づくだけで露骨に身を硬くし、嫌悪と恐怖を隠そうともしなかった。それなのに、今の彼女はシルバが通り過ぎるたび、怯えるように肩を震わせながらも、その銀髪の背中を縋るような、潤んだ瞳でじっと追うようになっていたのだ。
「……クルック、本当にどうしちまったんだよ?」
次の目的地へ向かう荒涼とした一本道。シュウが、何度もつまずきそうになりながら歩くクルックの顔を覗き込む。彼女の頬は微かに赤く染まり、その視線は泳いでいた。
「え? あ、ううん……なんでもないの、シュウ」
クルックは弾かれたように視線をそらし、ぎゅっと自分の衣服の裾を握りしめた。
首筋には、まだシルバの無骨で大きな手のひらの感触が、生々しく熱を持って残っている。あの壁際に押し付けられた時の、息もできないほどの恐ろしい圧迫感。そして、その直後に与えられた、ゾラにだけ向けられていたはずの、あの甘く優しい愛撫――。
(『シュウたちには何も言うな。お前は俺の言う通りにだけ動いていろ』……)
シルバに耳元で囁かれた冷徹な命令が、頭の中で何度も、呪縛のようにリフレインする。逆らえばハイドラに心を噛み砕かれるという恐怖。けれど、もし彼に従って「いい子」にしていれば、またあの大きな手で優しく触れてもらえるかもしれないという、歪んだ期待。
その二つの感情が、クルックの胸の内を泥沼のようにドロドロと満たしていた。
「なんでもないわけないだろ!」
シュウが声を荒らげ、クルックの前に回り込んでその両肩を掴んだ。
「あの渓谷で、お前が『落とし物をした』って戻った後からずっとそうだ! ゾラさんもシルバも、お前が戻ってくるのが遅かったのに、何も言わなかった。……なぁ、あの岩陰で、あの男にお前、何かされたのか!?」
「な、何もされてない! 本当に、ただの寝不足なの!」
クルックは必死にシュウの手を振り払い、叫ぶように否定した。
自分の口から真実が漏れれば、シルバに何をされるか分からない。何より、みんなには言えないこの「秘密の関係」を暴かれたくないという、奇妙な独占欲すら芽生え始めていた。
「おい、シュウ、クルックを責めるな。……だが」
後ろを歩いていたジーロが、二人を止めながらも、前方を歩くシルバの背中を、これまで以上の強い敵意を込めて睨みつけた。
「クルックが何かを隠しているのは間違いねぇ。そして、それがアイツに関することだってこともな。昨日まであんなに怯えてた奴が、アイツの指示一つに、まるで操り人形みたいに従うようになるなんて、普通じゃねぇんだよ」
子供たちの間で高まる不信感と怒りの火種。
だが、そんな後方の騒ぎを、先頭を歩くゾラとシルバは完全に無視していた。
シルバは見上げるほど大柄な体躯のまま、一定の歩調で砂を踏みしめて進む。銀の髪が風に揺れ、時折、その切れ長の奥にあるエメラルドの瞳が、背後のクルックへと鋭く向けられる。
シルバが視線を送るたび、クルックはびくりと小さな身体を震わせ、まるで従順な飼い犬のように、こくりと小さく首を縦に振った。
その様子を、ゾラは冷淡な横顔のまま、すべてを把握した上で黙認していた。
ゾラにとって、クルックの心がどのように歪もうが、それが自分の旅の目的を円滑に進めるための「道具の調教」であるならば、シルバのやることに異を唱えるつもりはなかった。シルバが他の女をどのように支配しようと、最後に彼が帰る場所は、自分の広く頑強な胸の中だけだと確信しているからだ。
「シルバ、この先の峠を越えれば、少し開けた場所に出るわ。今夜はそこで野営にしましょう」
「ああ、お前の言う通りに」
シルバの低い声が響く。主への絶対的な忠誠。
そのやり取りを見つめるクルックの胸には、再び激しい「やきもち」が湧き上がる。自分を支配するあの圧倒的な強者は、やはり自分のものではなく、ゾラのものなのだという冷酷な現実。
「……クソっ、俺はやっぱりあいつが許せない」
シュウが拳を血がにじむほど強く握りしめる。
パーティー内に漂う空気は、もはや旅の仲間と呼べるものではなかった。シルバという圧倒的な冷徹さと怪力を持つ怪物の存在によって、一行の絆は、誰の目にも明らかなほどボロボロに引き裂かれ、破滅へと向かって不穏な音を立ててきしみ始めていた――。