夜にこいしちゃんとお話するだけ   作:居酒屋の枝豆

9 / 9
夜にこいしちゃんと知らない所を歩くだけ

二月の半ばだった。

時計の針は午前一時を少し回っている。

終電が行ってから、もうだいぶ経つ。

駅前のロータリーにはタクシーが一台だけ停まっていて、運転席では白髪の運転手が窓を少し開け、煙草の煙をゆっくりと吐いていた。

コンビニだけが、昼間と変わらない明るさで街を照らしている。

店員が雑誌を並べ替える音が、自動ドアの開くたびにかすかに漏れてくる。

それ以外は静かだった。

街はもう眠っている。

僕だけが、まだ眠れずに歩いていた。

冷えた空気を吸い込む。

肺の奥まで冬が入り込んでくるようだった。

吐いた息は白く、街灯の下でゆっくりほどけて消える。

夜はいつも同じ顔をしている。

なのに、歩くたびに少しずつ違う。

それが好きだった。

少し前までは。

最近は、歩いていても何を見ているのかわからない夜が増えた。

それでも歩く。

理由は考えないことにしていた。

橋へ向かう。

何度も渡った小さな橋だった。

欄干の塗装はところどころ剥げていて、昼間に見れば古びて見える。

でも、この時間になると月明かりを受けて銀色に光る。

橋の真ん中で立ち止まる。

川は静かだった。

流れる音だけが聞こえる。

水面には月が揺れていた。

「こんばんは。」

後ろから声がした。

「こんばんは。」

振り返らなくてもわかった。

こいしちゃんだった。

帽子のつばを押さえながら、ゆっくり僕の隣まで歩いてくる。

「今日は歩けたんだね。」

「うん。」

「よかった。」

その一言だけ言って、彼女も川を見下ろした。

風が吹く。

橋の下を抜ける風は少し湿っていて、住宅街を歩いているときとは匂いが違う。

「今日は静かだね。」

「いつも静かじゃない?」

「今日はもっと静か。」

そう言って笑う。

「こういう日はね。」

少し空を見上げる。

「道が遠くまで続く気がする。」

僕は意味がわからなくて笑った。

「道なんていつも同じだろ。」

「そうかな。」

こいしちゃんは首をかしげる。

「今日は違う気がする。」

橋を渡る。

その先は、いつもなら住宅街へ続く緩やかな坂道だった。

街灯が二本。

右には公園。

左には古いアパート。

何度歩いたかわからない道。

そのはずだった。

歩き始めて数分。

ふと足が止まる。

「あれ。」

思わず声が漏れた。

「どうしたの?」

「……こんな道だったっけ。」

目の前には細い坂道が続いていた。

アスファルトではない。

踏み固められた土の道だった。

街灯はない。

代わりに、背の低い石灯籠がぼんやりと道を照らしている。

風が吹く。

竹の葉が擦れ合う音がした。

こんな場所、この辺りにあっただろうか。

振り返る。

橋は見える。

でも、その向こうの住宅街は霧のようにぼやけていた。

「工事でもしてるのかな。」

自分でも変なことを言っていると思った。

こんな工事があるはずない。

それでも、そう言うしかなかった。

こいしちゃんは辺りを見回して、小さく笑う。

「今日はこっちなんだね。」

「知ってるの?」

「うーん。」

少し考えてから首を振る。

「知ってるっていうより。」

石灯籠を一つ見つめる。

「たまにある。」

「たまに?」

「うん。」

「歩いてると。」

「たまに、違う道になる。」

彼女は当たり前のことを話すみたいに言った。

僕は笑う。

「そんなわけないだろ。」

「そう?」

「だって。」

言いかけて、言葉が止まる。

風が吹く。

竹が鳴る。

どこかで水の流れる音がした。

住宅街で聞く音じゃなかった。

「……。」

「帰る?」

こいしちゃんが聞く。

その声はいつも通りだった。

僕はもう一度、来た道を振り返る。

霧の向こうで、信号機の青い光が小さく滲んで見えた。

帰れる。

そう思った。

でも。

「少しだけ。」

自分でも驚くくらい自然に言葉が出た。

「歩いてみようかな。」

こいしちゃんは嬉しそうにも、驚いた様子も見せなかった。

ただ小さく笑って、

「うん。」

と言った。

二人は並んで歩き始める。

土を踏む音がする。

夜風が竹を揺らす。

どこか遠くで、一度だけ鐘の音が鳴った。

低く、澄んだ音だった。

その音が消える頃には。

二人の足音だけが、静かな道に残っていた。

その時だった。

何処かから低い鐘の音が響いた。

鐘の音は、一度きりだった。

低く。

澄んでいて。

夜の奥へゆっくり沈んでいくような音だった。

それが止むと、辺りはまた静かになった。

静かすぎて、自分たちの足音だけがやけに大きく聞こえる。

土を踏む音。

竹の葉が揺れる音。

どこか遠くで、水が石に当たる音。

どれも知らない音だった。

でも、不思議と怖くはない。

歩いているうちに、寒さを忘れていることに気づいた。

さっきまで頬を刺していた風は、いつの間にか柔らかくなっていた。

「ここ。」

僕は辺りを見回す。

「変なところだな。」

「そう?」

こいしちゃんは楽しそうに竹林を見上げる。

「私は好き。」

一本の竹が風に揺れた。

月明かりが幹を白く照らしている。

細い道はゆるやかに曲がり、先は見えない。

住宅街では見かけない景色なのに、どこか懐かしい気がした。

昔、夢で歩いたことがあるような。

そんな曖昧な感覚だった。

「初めて来た気がしない。」

ぽつりと呟く。

こいしちゃんは少しだけ僕を見て、

「うん。」

と笑った。

「そういう顔してる。」

「どういう顔だよ。」

「思い出しそうな顔。」

「何を。」

「わかんない。」

それだけ言うと、また前を向いて歩き始めた。

僕も後を追う。

道端には小さな石が並んでいた。

誰かが置いたのか。

昔からそこにあるのか。

わからない。

一つだけ、苔の生えた石に手を触れる。

冷たい。

それなのに、どこか温もりが残っているような気がした。

「ねえ。」

こいしちゃんが立ち止まる。

「聞こえる?」

耳を澄ます。

風。

竹。

水。

それから。

かすかに鈴の音がした。

ちりん。

また一度だけ。

「風鈴?」

「冬なのに?」

「……違うか。」

鈴は、それきり鳴らなかった。

静けさだけが残る。

「ここ。」

こいしちゃんが小さく呟く。

「音がゆっくりなんだ。」

「音が?」

「うん。」

彼女は目を閉じる。

「急がなくていいみたい。」

僕には意味がわからなかった。

でも。

その言葉を聞いているうちに、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。

ここへ来てから、一度も時間を気にしていない。

時計を見ることも。

明日のことを考えることも。

忘れていた。

「……久しぶりだ。」

「何が?」

「何も考えてない。」

言ってから、自分で驚いた。

そんな時間があっただろうか。

最近は歩いていても、頭のどこかで仕事や人間関係や、明日の予定を考えていた。

でも今は。

竹の音だけを聞いている。

それだけだった。

「いいね。」

こいしちゃんは笑う。

「君、そういう方が好き。」

「そうかな。」

「うん。」

少しだけ間を置いて、

「前は、ずっとそうだった。」

と続けた。

「前?」

聞き返す。

けれど、こいしちゃんは首を傾げるだけだった。

「なんでもない。」

その時だった。

風が止む。

竹林が静まり返る。

さっきまで聞こえていた水音も消えた。

世界が息を止めたみたいだった。

その静寂の中で。

遠くに、小さな灯りが見えた。

一つだけ。

橙色の灯り。

誰かの家だろうか。

「行ってみる?」

こいしちゃんが聞く。

僕はその灯りを見つめる。

行けば何かが変わる。

そんな気がした。

でも。

同時に。

行ってはいけないような気もした。

理由はない。

ただ、そう思った。

「……今日は。」

少し考えてから笑う。

「帰ろう。」

こいしちゃんは嬉しそうにも残念そうにも見えない顔で頷いた。

「うん。」

「また今度。」

その言葉だけを残して、来た道を引き返す。

竹林を抜ける。

石灯籠が一つ、また一つと後ろへ流れていく。

橋が見えた。

住宅街の街灯が見えた。

コンビニの明かりが見えた。

いつもの景色だった。

振り返る。

もう竹林はない。

石灯籠もない。

そこには、見慣れたアスファルトの歩道が続いているだけだった。

「……。」

夢だったのだろうか。

そう思う。

でも。

靴の裏には、小さな土がついていた。

それを見た瞬間。

理由もなく。

現実が、少し遠くなった気がした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

これもきっと妖怪のせいに違いない(願望)(作者:R1zA)(原作:妖怪ウォッチ)

▼リハビリ作。▼最近事故で死にかけた時に見た走馬灯で妖怪ウォッチがやりたくなったので久々にやった結果、『妖怪ウォッチって改めて見るとめっちゃヤンデレ適性高いな?』と思って書いた怪文書です。▼以下あらすじ▼妖怪ウォッチ世界でケータ君に転生した人が無印から3までを死に物狂いで駆け抜けた結果、繋いだ縁でがんじがらめにされる話。▼※匿名解除しました(2025/1/1…


総合評価:9215/評価:8.91/短編:3話/更新日時:2026年06月19日(金) 00:41 小説情報

【三章開始】いずれ神成る恋物語-天使と悪魔とラブコメ生活-(作者:ビスマルク)(オリジナル現代/冒険・バトル)

天使と悪魔の戦い。世界の裏側に存在する人を巻き込む戦い。それが現実なのだと僕は知る。▼それはそれとして天使も悪魔も滅茶苦茶美少女で可愛いくて好きになってしまったのでラブコメしつつ襲ってくる連中をぶっ倒します。▼これはただの高校生だった僕が神に至るまでの、どこにでもあるような恋物語だ。▼旧タイトル:幼馴染(天使)が幼馴染(偽)だった。天使なのはガチだった▼ カ…


総合評価:8228/評価:8.75/連載:82話/更新日時:2026年07月12日(日) 00:02 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>