二月の半ばだった。
時計の針は午前一時を少し回っている。
終電が行ってから、もうだいぶ経つ。
駅前のロータリーにはタクシーが一台だけ停まっていて、運転席では白髪の運転手が窓を少し開け、煙草の煙をゆっくりと吐いていた。
コンビニだけが、昼間と変わらない明るさで街を照らしている。
店員が雑誌を並べ替える音が、自動ドアの開くたびにかすかに漏れてくる。
それ以外は静かだった。
街はもう眠っている。
僕だけが、まだ眠れずに歩いていた。
冷えた空気を吸い込む。
肺の奥まで冬が入り込んでくるようだった。
吐いた息は白く、街灯の下でゆっくりほどけて消える。
夜はいつも同じ顔をしている。
なのに、歩くたびに少しずつ違う。
それが好きだった。
少し前までは。
最近は、歩いていても何を見ているのかわからない夜が増えた。
それでも歩く。
理由は考えないことにしていた。
橋へ向かう。
何度も渡った小さな橋だった。
欄干の塗装はところどころ剥げていて、昼間に見れば古びて見える。
でも、この時間になると月明かりを受けて銀色に光る。
橋の真ん中で立ち止まる。
川は静かだった。
流れる音だけが聞こえる。
水面には月が揺れていた。
「こんばんは。」
後ろから声がした。
「こんばんは。」
振り返らなくてもわかった。
こいしちゃんだった。
帽子のつばを押さえながら、ゆっくり僕の隣まで歩いてくる。
「今日は歩けたんだね。」
「うん。」
「よかった。」
その一言だけ言って、彼女も川を見下ろした。
風が吹く。
橋の下を抜ける風は少し湿っていて、住宅街を歩いているときとは匂いが違う。
「今日は静かだね。」
「いつも静かじゃない?」
「今日はもっと静か。」
そう言って笑う。
「こういう日はね。」
少し空を見上げる。
「道が遠くまで続く気がする。」
僕は意味がわからなくて笑った。
「道なんていつも同じだろ。」
「そうかな。」
こいしちゃんは首をかしげる。
「今日は違う気がする。」
橋を渡る。
その先は、いつもなら住宅街へ続く緩やかな坂道だった。
街灯が二本。
右には公園。
左には古いアパート。
何度歩いたかわからない道。
そのはずだった。
歩き始めて数分。
ふと足が止まる。
「あれ。」
思わず声が漏れた。
「どうしたの?」
「……こんな道だったっけ。」
目の前には細い坂道が続いていた。
アスファルトではない。
踏み固められた土の道だった。
街灯はない。
代わりに、背の低い石灯籠がぼんやりと道を照らしている。
風が吹く。
竹の葉が擦れ合う音がした。
こんな場所、この辺りにあっただろうか。
振り返る。
橋は見える。
でも、その向こうの住宅街は霧のようにぼやけていた。
「工事でもしてるのかな。」
自分でも変なことを言っていると思った。
こんな工事があるはずない。
それでも、そう言うしかなかった。
こいしちゃんは辺りを見回して、小さく笑う。
「今日はこっちなんだね。」
「知ってるの?」
「うーん。」
少し考えてから首を振る。
「知ってるっていうより。」
石灯籠を一つ見つめる。
「たまにある。」
「たまに?」
「うん。」
「歩いてると。」
「たまに、違う道になる。」
彼女は当たり前のことを話すみたいに言った。
僕は笑う。
「そんなわけないだろ。」
「そう?」
「だって。」
言いかけて、言葉が止まる。
風が吹く。
竹が鳴る。
どこかで水の流れる音がした。
住宅街で聞く音じゃなかった。
「……。」
「帰る?」
こいしちゃんが聞く。
その声はいつも通りだった。
僕はもう一度、来た道を振り返る。
霧の向こうで、信号機の青い光が小さく滲んで見えた。
帰れる。
そう思った。
でも。
「少しだけ。」
自分でも驚くくらい自然に言葉が出た。
「歩いてみようかな。」
こいしちゃんは嬉しそうにも、驚いた様子も見せなかった。
ただ小さく笑って、
「うん。」
と言った。
二人は並んで歩き始める。
土を踏む音がする。
夜風が竹を揺らす。
どこか遠くで、一度だけ鐘の音が鳴った。
低く、澄んだ音だった。
その音が消える頃には。
二人の足音だけが、静かな道に残っていた。
その時だった。
何処かから低い鐘の音が響いた。
鐘の音は、一度きりだった。
低く。
澄んでいて。
夜の奥へゆっくり沈んでいくような音だった。
それが止むと、辺りはまた静かになった。
静かすぎて、自分たちの足音だけがやけに大きく聞こえる。
土を踏む音。
竹の葉が揺れる音。
どこか遠くで、水が石に当たる音。
どれも知らない音だった。
でも、不思議と怖くはない。
歩いているうちに、寒さを忘れていることに気づいた。
さっきまで頬を刺していた風は、いつの間にか柔らかくなっていた。
「ここ。」
僕は辺りを見回す。
「変なところだな。」
「そう?」
こいしちゃんは楽しそうに竹林を見上げる。
「私は好き。」
一本の竹が風に揺れた。
月明かりが幹を白く照らしている。
細い道はゆるやかに曲がり、先は見えない。
住宅街では見かけない景色なのに、どこか懐かしい気がした。
昔、夢で歩いたことがあるような。
そんな曖昧な感覚だった。
「初めて来た気がしない。」
ぽつりと呟く。
こいしちゃんは少しだけ僕を見て、
「うん。」
と笑った。
「そういう顔してる。」
「どういう顔だよ。」
「思い出しそうな顔。」
「何を。」
「わかんない。」
それだけ言うと、また前を向いて歩き始めた。
僕も後を追う。
道端には小さな石が並んでいた。
誰かが置いたのか。
昔からそこにあるのか。
わからない。
一つだけ、苔の生えた石に手を触れる。
冷たい。
それなのに、どこか温もりが残っているような気がした。
「ねえ。」
こいしちゃんが立ち止まる。
「聞こえる?」
耳を澄ます。
風。
竹。
水。
それから。
かすかに鈴の音がした。
ちりん。
また一度だけ。
「風鈴?」
「冬なのに?」
「……違うか。」
鈴は、それきり鳴らなかった。
静けさだけが残る。
「ここ。」
こいしちゃんが小さく呟く。
「音がゆっくりなんだ。」
「音が?」
「うん。」
彼女は目を閉じる。
「急がなくていいみたい。」
僕には意味がわからなかった。
でも。
その言葉を聞いているうちに、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。
ここへ来てから、一度も時間を気にしていない。
時計を見ることも。
明日のことを考えることも。
忘れていた。
「……久しぶりだ。」
「何が?」
「何も考えてない。」
言ってから、自分で驚いた。
そんな時間があっただろうか。
最近は歩いていても、頭のどこかで仕事や人間関係や、明日の予定を考えていた。
でも今は。
竹の音だけを聞いている。
それだけだった。
「いいね。」
こいしちゃんは笑う。
「君、そういう方が好き。」
「そうかな。」
「うん。」
少しだけ間を置いて、
「前は、ずっとそうだった。」
と続けた。
「前?」
聞き返す。
けれど、こいしちゃんは首を傾げるだけだった。
「なんでもない。」
その時だった。
風が止む。
竹林が静まり返る。
さっきまで聞こえていた水音も消えた。
世界が息を止めたみたいだった。
その静寂の中で。
遠くに、小さな灯りが見えた。
一つだけ。
橙色の灯り。
誰かの家だろうか。
「行ってみる?」
こいしちゃんが聞く。
僕はその灯りを見つめる。
行けば何かが変わる。
そんな気がした。
でも。
同時に。
行ってはいけないような気もした。
理由はない。
ただ、そう思った。
「……今日は。」
少し考えてから笑う。
「帰ろう。」
こいしちゃんは嬉しそうにも残念そうにも見えない顔で頷いた。
「うん。」
「また今度。」
その言葉だけを残して、来た道を引き返す。
竹林を抜ける。
石灯籠が一つ、また一つと後ろへ流れていく。
橋が見えた。
住宅街の街灯が見えた。
コンビニの明かりが見えた。
いつもの景色だった。
振り返る。
もう竹林はない。
石灯籠もない。
そこには、見慣れたアスファルトの歩道が続いているだけだった。
「……。」
夢だったのだろうか。
そう思う。
でも。
靴の裏には、小さな土がついていた。
それを見た瞬間。
理由もなく。
現実が、少し遠くなった気がした。