準決勝を翌日に控え、大洗女子学園の戦車道チームは試合会場近くの宿泊地へ一日早く到着していた。
移動の途中から窓の外には白いものが増え始め、現地へ着く頃には道路脇も建物の屋根もすっかり雪に覆われている。大会運営側が用意した練習区域も例外ではなく、広い雪原の上には走行用の目印とカラーコーンが並んでいた。
「雪だー!」
ウサギさんチームが真っ先に声を上げる。
「すごい! 真っ白!」
「積もってる!」
「あとで雪だるま作ろうよ!」
アヒルさんチームも負けていない。
「雪中訓練!」
「寒さも根性です!」
「寒いー!」
その横では沙織がすでにマフラーへ顔を埋めている。
「帰りたい」
麻子の反応はもっと早かった。
華は少し離れた雪景色へ目を向け、白く染まった森と空を楽しんでいる。
「綺麗ですね」
「雪中戦であります!」
優花里だけは完全に別方向で興奮していた。
「積雪路面における履帯車輌の挙動を実際に確認できるとは!」
「秋山さんだけ温度違わない?」
沙織が肩を震わせながら言う。
後ろでは、初の公式戦を翌日に控えた風紀委員三人も雪原を眺めていた。
「……本当にここを走るの?」
ゴモヨが呟く。
「走るでしょうね」
パゾ美もB1 bisと雪面を交互に見る。
そど子はすでに手袋を直し、マニュアルを取り出していた。
「何を今さら言っているの! 事前に雪中走行の項目も確認してきました!」
「また付箋増えてる」
「必要だからです!」
いつも通りのやり取りだったが、そど子の声にはわずかに硬さが残っている。
灯里も雪原へ目を向けた。
雪中戦なら、ゲームの中で何度も経験している。重量のある車輌は地形によって加速を奪われ、動きの遅い戦車ほど位置取りが重要になることも知っていた。
それでも、画面の中と実物は違う。
灯里はTOGⅡの長い履帯へ視線を落とした。実際の雪の上を、この戦車で走ったことは一度もない。
◇
「今日は、速く走る練習はしません」
全車輌の前で、みほが最初にそう言った。
「まずは雪の上で安全に走れるようになることから始めます。発進、停止、旋回、車間距離。それから、少し傾斜のある場所での動きも確認します」
優花里がすぐに頷く。
「雪上では、普段と同じ感覚で止まったり曲がったりできるとは限りませんからね!」
「うん。だから今日は、速く走るより車輌の反応を覚えることを優先しよう」
みほは全員を見渡した。
「前の戦車が止まっても、すぐには近づかないこと。雪が柔らかいところ、踏み固められているところでも感覚が違うと思います。分からなくなったら、無理に動かさず一度止まって確認してください」
地味な訓練だった。敵車輌もいなければ、砲撃もしない。
それでも、明日本当に雪の上で戦うなら必要なことばかりだった。
「まずは一輌ずつ、低速で」
みほの指示で、各車が順番に雪原へ入っていく。
◇
TOGⅡのエンジンが低く唸る。
「発進します」
すずが操縦装置へ手を掛ける。
「お願いします」
灯里が返した。
履帯が回り、積もった雪を押し潰す。
ずずず……。
TOGⅡが、ようやく前へ出た。
「……小走さん?」
「進んでます!」
「いつも以上にゆっくりですね」
「分かってます!」
エンジン音が重くなる。履帯は柔らかな雪を掻き分けながら、ゆっくりと車体を押し出していった。
普段から速い戦車ではない。それでも今日の反応は明らかに違う。
「ここ、雪が深いですね」
まどかが前方を確認する。
「はい。履帯への抵抗がかなり増えています」
灯里も車長席から雪面を見た。
ゲームなら速度低下の数字で終わるものが、実車ではエンジン音や振動、車体そのものの鈍さとして返ってくる。
「右へ曲がります」
すずが慎重に操縦する。左右の履帯が雪を掻き、TOGⅡの長い車体がゆっくりと向きを変え始めた。
「……まだですか?」
「曲がってます!」
「曲がっていますが、いつもの感覚ならもう少し向いてますね」
まどかの淡々とした指摘に、すずの声にも焦りが混じる。
「分かってます!」
やがて車首は右へ向いたが、灯里が想定していた線より外側へ膨らんでいた。
「停止します!」
今度は踏み固められた区画へ入る。
すずが減速を始めたものの、車体は思っていた位置より少し先まで進んでから止まった。
「……場所によって違いますね」
灯里が雪面を見比べる。
柔らかい雪へ入れば抵抗が増えて動きが鈍くなる。一方、何度も車輌が通って踏み固められた場所では、先ほどより履帯が滑りやすい。
いつもより止まらない、という単純な話ではない。
いつもの感覚で止められないのだ。
「戦車ゲームの雪上マップより厳しいですね」
灯里が思わず漏らす。
かなえがメモから顔を上げた。
「実物ですからね」
「はい。身をもって理解しました」
すずも前方を見たまま言う。
「これ、本番で初めてやってたら危なかったですね」
「本当に」
灯里は素直に頷いた。
「今日来ておいて正解でした」
◇
苦戦しているのはTOGⅡだけではなかった。
B1 bisも、いつもの訓練と同じようには動かない。
「右、少し!」
「了解!」
そど子の指示に合わせてゴモヨが操縦する。
ところが、圧雪された場所へ差しかかった途端、車体が予想より大きく向きを変えた。
「……あれ?」
「行きすぎ!」
パゾ美が声を上げる。
「戻す?」
「少し左!」
「ちょっと、ちゃんと走りなさい!」
「戦車に言っても仕方ないでしょ!」
「じゃああなたがちゃんと操縦しなさい!」
「してるよ!」
さらに修正しようとしたところで、車体がわずかに横へ流れた。
三人とも黙る。
「……一回止めよう」
パゾ美が先に言った。
「停止!」
今度は三人とも、すぐに従った。
以前なら、そのまま言い合いながら何とか修正しようとしていたかもしれない。今は一度止まり、状況を確認してから、もう一度指示を合わせる。
操縦そのものはまだ未熟でも、三人で決めたやり方は雪の上でも生きていた。
離れた場所から見ていたみほが、ほっとしたように笑う。
「ちゃんと一回止まれたね」
灯里も頷いた。
「以前なら、もう二回くらい往復していたかもしれません」
『聞こえてるわよ!』
そど子の声が無線越しに飛んできた。
◇
ウサギさんチームは別の意味で苦戦していた。
「ちょっと速くない?」
「大丈夫大丈夫!」
M3中戦車が雪の上を進み、そのまま停止位置へ近づく。
「止まって!」
ブレーキ。
しかし、踏み固められた雪面で想定した位置を越えた。
「あー!」
「過ぎた!」
「だから早いって言ったじゃん!」
すぐにみほから無線が入る。
『ウサギさんチーム、もう少し手前から速度を落としてみて』
『はい!』
返事だけは素直だった。
一方、八九式は比較的軽快に雪上を進んでいたものの、やはり乾いた地面と同じというわけにはいかない。
「根性で前進!」
「押忍!」
履帯が雪を巻き上げる。
「いつもより重いです!」
「根性が足りない!」
「もっと根性です!」
みほが少し困ったように笑った。
「根性だけじゃなくて、雪面も見てくださいね」
『押忍!』
カバさんチームは雪上走行そのものに妙な歴史的興奮を覚えているらしく、車内では東部戦線の話が始まっていた。
そして、あんこうチームのⅣ号も長砲身化したばかりだ。新しい砲の取り回しと雪上走行、その両方を同時に確かめる訓練になっていた。
「前よりちょっと感覚違うね」
沙織が車内で言う。
「うん」
みほも前方を確認する。
「麻子さん、次はあの踏み固められたところに入る前から、少し早めに減速してみて」
「分かった」
Ⅳ号がゆっくり速度を落とし、今度は目印の少し手前で停止した。
「ここから調整しよう」
みほは焦らない。
速く走ることより、狙った場所で止まり、狙った方向へ向き、味方とぶつからないこと。
まずはそこからだった。
◇
午後になる頃には、各チームも雪面による反応の違いを少しずつ掴み始めていた。
みほは走行コースを変え、今度は緩い坂と、車間距離を取った状態での停止練習を加える。
「前の戦車が止まっても、すぐ近づかないでください。雪の状態によって、いつもの停止位置とずれることがあります」
車列がゆっくり動き始める。
先頭が止まり、後続も普段より早い段階から速度を落とした。それでも目印との距離は車輌ごとにばらつく。
TOGⅡも例外ではなかった。
「前との距離、まだあります」
かなえが報告する。
「小走さん、そのままゆっくり」
「はい」
すずが慎重に前進する。
「停止」
減速。
TOGⅡの長い車体が、今度は狙った位置に近いところで止まった。
「止まりました」
「はい。もう少し余裕を残しても良さそうですね」
灯里が前方との距離を確認する。
すずも頷いた。
「雪だと、止まったあとに次どう動くかまで考えた方がいいですね」
「いつも以上に、先を見る必要があります」
その言葉に、灯里は以前すずが言っていたことを思い出した。
遅いけど、読める。
TOGⅡはもともと、相手を追い回す戦車ではない。雪の上では、その考え方がさらに重要になる。
「速く動かすより、どこで止めるかですね」
「はい。TOGⅡなら、なおさらです」
まどかも静かに続ける。
「追うより、置く」
灯里が頷いた。
「そこは、いつも通りですね」
ただし、その場所までどう運ぶかは、雪の上ではいつも通りとはいかなかった。
◇
最後の課題は、緩い坂だった。
急斜面ではない。それでも、雪が積もった地面では平地と同じ感覚ではいかない。
軽い車輌から順番に登り、最後にTOGⅡが坂へ入った。
「進みます」
すずがアクセルを入れる。
TOGⅡが低く唸った。
履帯が雪を押し固めながら坂を上がる。場所によっては雪を深く掻き、時折わずかに空転した。
「……遅いですね」
かなえが素直に言う。
「元からです」
まどかが返す。
「今はさらにです!」
すずが操縦席から叫んだ。
止まってはいないものの、平地以上に速度が落ちている。
「無理に速度を上げなくて大丈夫です」
「上がりません!」
「それもそうですね」
灯里は前方を見たまま答えた。
すずは無理に急がず、履帯が食いつく場所を探すように車体を進めていく。
やがてTOGⅡは、ゆっくりと坂の上まで出た。
車内に安堵が広がる。
「登りました」
かなえが言う。
「登りましたね」
灯里も頷いた。
「ただ、本番でこの速度は困ります」
すずの言葉に、誰も反論しなかった。
TOGⅡは登れる。
でも、登れることと戦えることは別だった。
◇
訓練が終わる頃には、最初に雪へはしゃいでいた一年生たちも少し疲れた顔になっていた。
「雪って大変なんだね……」
「遊ぶだけなら楽しいけど」
「戦車で走ると全然違う」
沙織も手袋へ息を吹きかける。
「寒いし、滑るし、場所によっては全然進まないし」
麻子が答えた。
「だから帰りたいと言った」
「麻子は最初からそれしか言ってないじゃん」
華は笑いながら、雪原に何本も刻まれた履帯跡を眺めていた。
「でも、今日練習できてよかったですね」
「うん」
みほも車列を見る。
「明日いきなりだったら、もっと危なかったと思う」
各車には、それぞれ今日初めて分かった課題がある。停止や旋回の感覚、坂道、車間距離。長砲身になったⅣ号の取り回し、初めて雪上を走るB1 bis、そして雪質によって反応の変わるTOGⅡ。
準備してきたからこそ、見つけられたことだった。
灯里はTOGⅡの横へ立ち、雪の詰まった履帯を見る。
防寒も整備もして、雪上走行についての知識もあった。それでも、実際に八十トンの車体を雪へ乗せてみなければ分からないことがある。
知識は、感覚までは教えてくれない。
「……想定以上ですね」
昨日までなら、たぶん「何とかなるでしょう」と言っていた。
今は少し違う。
すずが隣へ来る。
「明日、大丈夫ですかね」
灯里は白く広がる練習区域を見た。
今日一日だけでTOGⅡが速くなるわけではない。雪が消えるわけでもないし、明日の路面が今日とまったく同じとも限らない。
それでも、何も知らないまま本番へ入るよりはずっといい。
「大丈夫にするしかありません」
「ですよね」
すずもTOGⅡを見上げた。
雪の上では、いつも通りには走れない。
なら。
いつも通りに走ろうとしなければいい。
その考えを本当に戦場で使えるかどうかは、明日になれば分かる。
準決勝。
大洗女子学園対、プラウダ高校。
雪原での戦いは、もうすぐ始まる。