4.チンピラ商売
洞窟の奥から、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる音が響いていた。
どれくらい時が経ったのか。膝の上で握った指を解き、ロローリャはゆっくりと息を吐き出した。
岩壁の凹みに置かれた蝋燭の炎が、わずかに揺れる。
「……ずいぶん昔のこと、思い出してた」
後ろで静かに座していたスウィット住職へ、ロローリャは振り返らずにぽつりと言った。
「アニキがいたんだ。王大哥っていう、ぶっきらぼうで……でも、すごく優しかった人」
あの狭い私塾のプラ箱の匂い、王大哥の不機嫌そうな横顔が脳裏を掠めては消えた。
「あの人は、ずっと腹を立てて生きてたんだよ。世の中の理不尽が許せなかったし、それを見て見ぬふりする大人にも腹を立ててた。何もできない自分自身にもね。きっと怒ってないと、王大哥じゃいられなかったんだと思う。……だけど結局、その怒りで自分を追い詰めて、殴られて、頭ぶつけて、あっけなく死んじゃった」
ロローリャは岩の床を拳で突いた。
「私も同じかも。王大哥が死んだときも、フオンやミーを失ったときも、ノイを売り飛ばそうとした奴らにも……いつも腹が立った。怒るたびに暴れて、そのたびに全部なくしてさ。気づいたらこんな山奥まで流されてたよ」
言い終えると、洞窟の水音だけが残った。
ぽたり。
ぽたり。
スウィット住職は、しばらく黙っていたが、やがてゆっくりとロローリャに問うた。
「怒りによって、これまで多くのものを失ってきたのですね。しかし、本当に、失うばかりでしたか。あなたのアニキの怒りは、あなたに何も残しませんでしたか。あなたの怒りは、あなたから全てを奪いましたか」
王大哥の怒鳴り声が、ロローリャの耳の奥で蘇る。煤けた黒板。湯気の立つ饅頭。ぎいぎい鳴る車椅子。革帯を締め直す、節くれだった手。
それから、自分の右脚。
「違う……と思う」
ロローリャは、ぽつりと言った。
「王大哥の怒りは、私に文字や算数を教えてくれた。歩くための足もくれた。私の怒りだって……ノイをあの連中から逃がす役には立ったよ」
言葉にした途端、胸の奥で、固まっていたものが解けていく。
「そうなんだね、ルアン・ポー。怒りはさ、使いようなんだ。ただ振り回して壊すんじゃなくて、未来に繋がる形に変えなきゃいけないんだよ!」
ロローリャは、そばに置いたサーベルへ目をやった。
「……剣も同じ。抜くのは簡単だけど、最後は必ず鞘に納めなきゃいけない。何も考えずに抜いたら、自分を滅ぼすことになる。抜くからには、その先にどんな未来を作るのか、自分で決めなきゃいけないんだ!」
一度深く息を吸い、住職の方を振り返る。
「……瞑想も、悪くないね。さっきまで頭の中がぐらぐらしてたのに、少し静かになったよ。ルアン・ポー、さすがお坊さんは違うね」
スウィット住職は、かすかに目尻を和らげた。
「静かになった心で見れば、怒りの形も少し違って見えるものです。あなたが今、それに気づけたのなら、この洞窟に座った意味はありました」
「うん。よく分かった」
ロローリャは神妙に頷いた。
「ということはさ。私に殴られたあの猿も、このままじゃダメってことなんだよ。せっかくぶん殴ったんだから、ちゃんと未来に繋げてあげないと、お互いが損じゃない」
住職の眉が、わずかにひそめられた。重々しい悟りの境地から、急に怪しい気配が漂い始めたからだ。
「見ててよ、ルアン・ポー。私ほど猿と喧嘩するのが上手な人間なんか、そうそういないんだから」
ロローリャは不敵に口角を上げた。
◇
翌日から、ロローリャの「仕事」が始まった。
まずは飯場や果物屋を回り、猿を追い払う見返りとして、少額の銭や傷物の果物を受け取る。ロローリャがサーベルを掲げ、杖を突いて近づくだけで、恐怖を骨身に刻まれた猿どもは悲鳴を上げて逃げ惑った。
さらに、参道で不用意に猿へ餌を与えていた観光客の元へ参上する。
「あれれ、お猿さんたち逃げちゃったね。なんでかな? あーあ、せっかくの果物がもったいないね。私が貰っておくよ」
呆然とする観光客を余所に、ロローリャは手際よく残された果物を拾っていく。
しばらくすると、飯場の裏にはいろいろなものが集まった。ロローリャは目を輝かせる。
「宝の山だね」
「でも半分は傷んでるよ」
ノイはしゃがみ込み、一つずつ手にとった。
「これは黒いところを切ればいいし、青菜も塩でもめば持つ。これは……さすがに無理かな」
「じゃ、それ以外は捨てるね」
「あ、待ってノイ。それは猿の餌として売るんだから、捨てちゃダメ」
「ええ!? 売っちゃうの? そんなことしていいのかな……」
「いいんだよ。放置すれば腐るんだから拾う。食べられるものは人間へ、食べられないものは猿へ、どうにもならないものだけ捨てる。ほら、無駄がない」
「でも、お姉ちゃんが近づくから猿が逃げるんだよね」
「そこが商売の腕だよ」
ロローリャは平然と言い切り、熟れすぎた果物を切り分けて袋に詰めた。
「決まった場所で猿餌を売って、私が見張る。そうすれば猿は腹がふくれ、店は守られ、客は施しができて、私たちには銭が入る。完璧でしょ」
「なんか、少し悪いことしてる気がする……」
「少しなら大丈夫、大丈夫」
そんなわけがなかった。
数日後、スウィット住職は、竹籠に選り分けられて並ぶ果物と銭を見た。ロローリャは胸を張る。
「どう、ルアン・ポー。私はゴミを整え、被害を減らし、参道に秩序をもたらした。それを少し金に変えたんだよ!」
「……試みは評価しますが、施しの行き先にあなたが割り込むのは感心しません」
ロローリャは唇を尖らせた。
「でも、金がいるんだよ。壊れた足を直さないと、私はどこにも行けないじゃない。ここにいる間に、少しでも自分で稼ぎたいんだ」
住職は小さく息を吐いた。
「義足を直したい気持ちは分かりました。ならば、寺と飯場の者が許した食材だけを使いなさい」
しぶしぶ従ったロローリャは、不用意な給餌を止めさせ、許可を得た傷物だけをノイに切り分けさせた。
「おじさん、猿にあげるときはあっちで投げてね」
石垣の先を指さし銭を受け取るが、住職に釘を刺されてからは
「秩序って、あまり儲からないね」
ロローリャがぼやいたとき、参道の端で魚の餌売りが困り顔をしていた。
目の前に立つ中年の中国人客が袋を指して何か尋ねているが、男は池を指さし、指で十バーツだと示すばかりで、うまく伝えられない。魚の餌か、猿の餌か、寺への供物かが分からず、客は提示された袋を戻して去っていった。
ロローリャの耳に、銭の落ちる音が聞こえた気がした。
(逃げた。今、銭が逃げたね)
ロローリャは杖を突き、ひょいひょいと男の横へ跳ねていった。
「今の人、『これは魚の餌か』って聞いてたんだよ」
「お前、中国語が分かるのか」
「まあね。なんて言えばいいか教えてあげようか。『魚、食べる、十バーツ、池、あっち』。これだけでも通じるよ」
「魚、食べる、十バーツ」
「違う、おじさんが食べるんじゃないの。魚が食べるの。せっかくのお客さんなんだから、逃がしたら損だよ」
ロローリャは口にして、はっとした。
売れる。
餌や果物よりも軽くて腐らないものがある。言葉だ。
昆明の夜に教わったたった一つのベトナム語が、ハイフォンで宝くじを売る最初の足場になった。言葉は飯になり、道を開く。そして今、この寺の門前では言葉が足りずに銭が逃げているのだ。
ロローリャは餌売りの顔をじっと見た。
「おじさん。中国語、覚えてみない?」
その日の夕方、ロローリャは拾ってきた板を飯場の裏に立てかけた。
『ジュース付き、外国語教室』
『中国語、ベトナム語、ラオ語、英語』
『私たちが教えます』
端に自分の似顔絵が書かれた看板を見て、ノイは固まった。
「お姉ちゃん。何これ!?」
「新しい商売だよ。言葉を売るの」
「言葉って売れるの?」
「絶対売れるよ。ここには言葉が分からなくて銭を逃してる人がいっぱいいる」
「私、先生なんてできないよ」
「できるよ。知ってる人が、知らない人に教える。それだけで先生なんだから」
それは、昔、王大哥の塾で聞いたやり方だ。
立派な机もいらない。きれいな教室もいらない。知っている者が、知らない者へ渡す。それだけで、言葉は次の飯になる。
語学教室を開くと、真っ先に来たのは参道の親父たちだった。退屈な門前町に現れた「若い娘ふたりが教える教室」は、格好の刺激だったのだ。商売に使う挨拶や数字を声に出し、間違えては笑い、ジュースを飲んで銭を払う。鼻の下を伸ばしつつ、距離を詰めようとする不埒な客には、ロローリャの杖と「おさわり罰金百バーツ」の鉄槌が飛んだ。
賑わう卓を、スウィット住職が遠巻きに眺めていた。看板には『極楽・おケイコ倶楽部』、隅には『触ったら百バーツ』とある。
「これは、本当に語学教室なのですか」
「健全な国際交流会だよ。だめ?」
「……ハァ。酒は出さない、日暮れ前に閉める、客を近づかせない。この決まりを守るなら、義足を直すまでの間だけ様子を見ましょう」
「やった!」
「ただし」
住職は看板の裏を指さした。
「この名前はやめなさい!」
「ええ、そこがいいのに」
ロローリャは不満そうに、文字を布でこすった。