修繕小屋の床に、椅子の脚と外れた蝶番、それにロローリャの右脚が並んでいた。
「ねえナロン、まだ? さっきからずっと同じところ弄ってるじゃん」
「うるさい。急かされたらまた曲がっちまうぞ」
寺の壊れ物を直しているナロンが、不機嫌そうに針金の端をペンチでねじ切った。
初日に義足を見せたときは「職人へ持っていけ」と突っぱねられたが、猿追いと語学教室で稼いだ金で革や針金を買い、余り木や竹を足して、どうにか応急処置までこぎつけたのだった。
ノイが傍らで留め革を抱え、スウィット住職も戸口からナロンの手元を見守っていた。普段なら朝の務めに勤しむ住職も、今日ばかりは修理の具合が気になるらしい。
「ほら、できたぞ。まあ気休めみたいなもんだから、絶対に走ったり、跳んだりするなよ。無茶したら一発で壊れるからな!」
「分かってるって」
ロローリャは杖を突き、ゆっくり腰を上げた。
右足を地面へ置く。
一歩。
二歩。
足首が軋んだが、以前のようにつま先が横へ逃げることはない。
「……歩けた」
ノイの顔がぱっと明るくなる。
スウィット住職も、ようやく表情を緩めた。
「頑張っていますね、ロローリャさん」
「でしょ? ちょっと遅いけど、前よりずっといいよ」
「くれぐれも杖なしでは歩かないでください」
「はいはい。完全に直すまでは大人しくするよ」
そう答えながら、ロローリャはもう一歩、慎重に義足を前へ出した。
◇
「おいおい、歩けるようになったのか!」
魚の餌売りの親父が、ロローリャの足元を指さして声を上げた。
「おかげさまでね。まだ杖なしじゃ無理だけど、ゆっくりなら少し歩けるようになったよ」
ロローリャは椅子に座ったまま、義足のつま先を得意げに持ち上げて見せた。添え木と針金でガチガチに巻かれた足首が、カクカクとぎこちなく揺れる。
「へえ、そりゃめでたいじゃねえか!」
門前にたむろする親父たちからも、おおっ、と歓声が上がった。
「でしょ? 今日は、せっかくだから中国語でお祝いの言葉を覚えて帰りなよ」
「おう、いいぞ。なんて言うんだ?」
ロローリャの口元が、にやりと上がった。
「じゃあおじさん、私の真似して。『ウォ・チン』」
「ウォ・チン」
「『ルオルオリーヤ・ラオシー』」
「ルオルオリーヤ・ラオシー」
「『ハー・インリャオ』」
「ハー・インリャオ」
「はい、最初から」
「ウォ・チン・ルオルオリーヤ・ラオシー・ハー・インリャオ」
ロローリャは途端に声を張り上げた。
「はーい、おジュース一杯入りまーす!」
「おい待て! なんでそうなるんだよ! 今のどういう意味だ!?」
「『私はロローリャ先生に飲み物をおごります』」
「ハメやがったな!?」
「ふふん! 男なら一度口にしたことは、ちゃんと実行しないとねえ」
ノイが慌てて親父を庇おうと手を振る。
「だ、駄目だよお姉ちゃん! そんな騙すみたいにお金をもらうなんて……」
「でも、とても実践的な中国語を一つ覚えられたでしょ」
「どこが実践的だよ! 『私はロローリャ先生に飲み物をおごります』なんて、使い道なさすぎるだろ!」
「ここでなら何回も使えるんだから問題ないよ。ほら早く早く」
周りからも「払え払え!」と囃し立てる声が飛ぶ。
「……くそっ! 一杯だけだぞ! こんな中国語、二度と言わねえからな」
「ええー! 発音が壊滅的だったから、明日も復習しないとダメだよ」
「どんだけ奢らせる気だよ!」
親父は頭を抱え硬貨を卓へ放った。からん、と転がった一枚を、ロローリャがすばやく押さえる。
「ノイ先生よぉ、ラオ語で『可愛い先生に一杯どうぞ』ってのは、なんて言うんだい?」
「そんなろくでもない言葉は教えません!」
ノイがきっぱり言い放つと、卓の端から何人かが身を乗り出した。
「じゃあよぉ、『安くしてください』ならどうだい?」
「それなら教えてあげる! えっとね……」
「安くしてもらう前に、高く買わせる言葉を覚えなきゃ駄目でしょ」
ロローリャが割り込む。
「まず『先生たちの喉が乾いています』から」
「お前さっきから飲み物の集金システムしか教えてねえだろ!」
「語学は生き抜くためにあるの」
「……うぐっ、それはぐうの音も出ねえな……」
魚の餌売りの親父が妙に感じ入った顔で深く頷くので、ノイは「もう……」と困り果てた顔で笑った。
机の上には、薄い果汁ジュースのコップが二つ、三つと増えていく。客が飲む量より、先生たちの前に積み上がるコップの方が多い。
ロローリャはコップの影で、義足完全修理基金と称して硬貨を数えた。
「お姉ちゃん、ちょっと取りすぎなんじゃ……」
「まだまだ足りないんだよ。町の職人はすんごく高いんだから」
「ならせめて、ちゃんと教えなきゃ」
「教えてるって。ほらおじさん、私の発音を真似して。『完全修理』」
「かんぜん、しゅうり……」
「そう。意味は?」
「お前にボラれること」
「惜しい。『未来への投資』だよ!」
ドッとひときわ大きな笑いが起きた。
ロローリャは膝の下の木部をそっと撫でた。王大哥の形見が、また自分の体の一部に戻っている。
もちろん、完全修理なんてほど遠い。踏み込めば曲がるし、急げばすぐ外れてしまう。ナロンの言う通り、ただの気休めの誤魔化しだ。
けれど、その誤魔化しで再び歩けるようになった。
「この調子で親父たちから巻き上げて、足を完璧に直すよ」
「『巻き上げる』なんて言っちゃ駄目!」
「じゃあ、国際支援金を奪取する」
「おおーっ!」
なぜか親父たちまで拳を突き上げた。
◇
翌朝、ロローリャが杖を突いて門前へ出ると、見慣れない車が何台も停まり、使用人らしい男たちが荷物を抱えて堂と門の間を行き来していた。
「今日はなんか派手だね。朝から人も多いし」
「法要があるんだって」
隣でその様子を眺めていたノイが答えた。
「毎年この日に来る一家がいるみたいだよ。亡くなった娘さんの供養だって、ルアン・ポーが言ってた」
「へえ」
料理を抱えた男の後ろを、屋根の上から一匹の大猿がついていく。その姿を見つけたロローリャが眉を上げた。
「またあいつ。ほんと懲りないねえ。どれどれ、今日はあのご馳走でも守ってあげようかな」
「お姉ちゃん、走っちゃ駄目だからね!」
「わかってるって。いつもどおり石投げて追い払うだけ」
杖を突いてロローリャが追い始めると、大猿は屋根伝いに逃げ、寺を囲む石垣の上へ飛び移った。
その石垣の向こうを、黒いセダンを先頭にした車列が山道を登ってくる。
「もうすぐ着くぞ」
アディサックの声に、アーティットは母の膝に置かれた包みへ目をやった。
「母上、お供えの花は僕が持ちますよ」
「あら、気が利くことを言ってくれるようになったのね」
「僕だって、もう子供じゃありませんから」
少し得意げに言ったアーティットが窓の外へ顔を向けると、ひときわ大きな猿の姿が目に入った。
「あ、あいつまたいる!」
「あの大猿か。リターが追いかけ回したやつだな」
「姉上、菓子を取られた途端に棒を持って走っていきましたよね」
「みっともないからやめるように言っても聞かなかったな。猿が木へ逃げても、下からずっと睨んでいた」
「帰りの車でも、まだ怒ってたなあ」
あの日のリターを思い出し、三人の間に笑いがこぼれた。
ほどなくセダンが門前に止まると、アディサックは護衛から黒革の鞄を受け取った。
「ここから先は我々だけでいい。お前たちはここで待て」
「承知しました」
池では大きな魚が水面を割り、参拝客の投げた餌を奪い合っている。屋根や石垣では猿が好き勝手に歩き回り、ときおり甲高い声を上げた。
スウィット住職のいる堂へ向かう途中、アーティットは参道脇に腰掛ける若い娘に目を留めた。
左腕がない。右脚の粗末な義足には竹片と針金が痛々しく巻かれ、傍らには一本の杖が置かれている。
「これ。無遠慮な視線は、お相手を傷つけますよ」
「……すみません」
シリナパーに窘められ、アーティットは白い蘭を抱え直して父の背を追った。
そのとき、参道の曲がり角で植え込みから二人の男が現れた。一人がアディサックへ拳銃を向け、もう一人は背後で刃物を抜く。
「動くな。その鞄を寄越しな」
アディサックは妻と息子を背に庇った。
「いつもの寄進金だよ。その中に入ってるんだろ」
「分かった……金は渡す。だから家族には手を出すな」
刃物の男は黒革の鞄を奪うと相棒へ渡し、そのままアーティットを引き寄せて首筋へ刃物を突きつけた。
「お前も来い」
「アーティット!」
白い蘭の包みが石畳へ落ちた。
「やめろ! 金なら渡しただろう!」
「俺たちが外へ出るまでは付き合ってもらおうか。もし追ってきたら、こいつがどうなるか分かってるな?」
参道脇からその様子を見たロローリャは、隣のノイへ声を落とした。
「ノイ、門の人たち呼んできて」
「うん!」
ノイが駆け出した。
二人の強盗はアーティットを盾にしながら参道を戻ってくる。欠け身の娘など脅威とも思わない様子で、ロローリャのすぐ脇を通り抜けようとした。
売り物の餌袋を握りしめたまま、ロローリャは息を潜める。無防備な背が目の前を通り過ぎる、その瞬間――手にしていた袋を、男たちの足元へ勢いよく叩きつけた。
弾けた袋から甘い匂いが散り、屋根や石垣から猿が次々と飛び降りてきた。餌を奪おうと男たちの足元へ群がり、あの大猿まで騒ぎの中へ飛び込んでくる。
「なんだこいつら! どけ!」
男が脚を奪われた隙を見逃さず、ロローリャは背のサーベルを抜くと、膝立ちのまま男の腿を横薙ぎに払った。
「ぐあっ!」
男の脚が崩れ、アーティットを抱えていた腕が緩む。
「はやく逃げて!」
アーティットは腕を振りほどき、父母のもとへ駆け戻った。
強盗が刃物を振り下ろすが、ロローリャはサーベルで受け流し、返した峰で手首、肩、頬を叩きつける。
「ぐっ! やめ――!」
悲鳴を上げる男を容赦なく打ち据えるロローリャの姿に、母の胸の中でアーティットが息を呑んだ。
「……なんなんだ、あの人……すごい」
相棒を潰され、拳銃の男がロローリャへ銃口を向けた。
「てめえ、いい加減にしろ!」
「危ない!」
アディサックの悲鳴を置き去りに、ロローリャは軋む義足を踏みしめた。上体を大きく捻り、全身の力を乗せてサーベルを放つ。
男の指が引き金にかかった――その瞬間。
「ぐああっ!」
宙を切り裂いた刃が男の右腕へ深々と突き刺さった。
悲鳴とともに弛緩した指先から拳銃が滑り落ち、石畳へ叩きつけられた衝撃で撃鉄が落ちる。放たれた弾丸は空を穿ち、背後の石垣を砕いた。
男は右腕を押さえてその場に崩れ落ちる。
その直後、ロローリャの足元で乾いた音が弾けた。竹片が飛び、針金が千切れ、限界を迎えた木部が真っ二つに割れる。
「わっ……!」
支えを失い、ロローリャの身体がそのまま石畳へと倒れ込んだ。
「お姉ちゃん!」
護衛たちを伴って戻ったノイが駆け寄ってくる。飛び込んだ護衛たちは、手負いの強盗二人をすかさず地面へねじ伏せた。
「殿下、奥様、お怪我は!」
「我々なら無事だ」
アディサックが答える間にも、シリナパーの目は倒れた娘へと向けられていた。
ノイに支えられて身を起こしたロローリャは、転がった義足を拾い上げた。昨日ようやく歩けるようになった足首が、無残に割れている。
「……せっかく、直したのに」
シリナパーは息子の手を引き、ロローリャのもとへ歩み寄った。
「お怪我はありませんか?」
「私は平気。でも、とんでもないことに巻き込まれたもんだね」
ロローリャが困ったように笑い、ふとアーティットへ視線を向けた。
「君は大丈夫だった? どこも怪我してない?」
「え……」
目の前に差し出された瞳。乱れた髪の奥にある整った顔立ちを間近で見つめ、アーティットの頬がみるみる赤く染まっていく。
「……だ、大丈夫です」
「そっか。よかった」
少年が照れて視線を逸らしたのにも気づかず、ロローリャは屈託なく微笑んだ。
「息子を助けてくださって、本当にありがとうございます。あなたがいなければ、どうなっていたか……」
「あ、ありがとうございました!」
「息子を救ってくれたこと、心から礼を言う」
夫妻とアーティットが深く頭を下げた。
「そんな、大げさだよ。みんな無事だったんだからさ」
ロローリャは壊れた義足へ目を落とした。
「まあ、こっちは全然無事じゃないけどね」
少し離れた場所で、護衛の一人が男の腕から抜けたサーベルを拾い上げていた。
「こちらの剣は、この方のものでしょうか」
「あ、それ私の」
ロローリャが手を伸ばしかけたところで、シリナパーの視線が錆びた鍔に吸い寄せられた。
「あっ! ……この紋は……」