旅をしていると、ときどき地図に載らないものに出会います…。

名もない村。
消えた道。
霧の向こうの廃墟。

そして、少し偏屈な地図職人。

未測量地帯の地図作成のため、灰色の魔女イレイナは三日間だけ一人の地図職人と同行することになる。

空から世界を見る魔女と、地上を歩いて線を引く男。
これは、名前を失いかけた場所で、二人が少しだけ同じ道を歩いた記録。

【注意事項】
・魔女の旅々の二次創作です。
・原作既読を推奨しますが、未読の方もお楽しみいただけます。
・オリジナルキャラクターが登場します。
・イレイナとオリジナルキャラクターの淡い感情描写があります。
・百合要素はありません。
・一話完結、読み切りです。
・原作のイレイナの性格・口調に寄せていますが、解釈違いの可能性があります。ご了承ください。

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灰の魔女と、余白だらけの地図

地図にない場所へ行くとき、人は二種類に分かれます。

 

――ひとつは、そこに宝があると信じる人。

 

――ひとつは、そこに名前を与えたがる人。

 

では、私はどちらでしょうか?

 

もちろん前者です。

 

誰よりも美しく、賢く、慎み深く、そして報酬にはきちんと目が利く旅の魔女。

 

 

――そう、それが私です。

 

 

その日、私は北方の小さな宿場町で、一人の青年に声をかけられました。

 

「君が、灰の魔女イレイナか?」

 

振り返ると、そこにいたのは、薄茶色の髪を後ろで雑に結んだ青年でした。

顔立ちは悪くありません。……が、第一印象としては、少し偏屈そうでした。

 

「人に名を尋ねるときは、まず自分から名乗るものでは?」

「カイト。地図職人だ」

「簡潔ですね。あなたの人生も地図みたいに平坦そうです」

「平坦なら歩きやすくて助かるのだがな」

 

即答でした。

私はわずかに眉を上げました。

普通の人間は魔女相手にもう少し遠慮するものです。褒めるか、怯えるか、崇めるか。少なくとも初対面でこちらの皮肉を拾って返す者は、あまり多くありません。

 

「で、その地図職人さんが私に何の用です?」

「西の霧谷を越えたいんだ。未測量地帯だからな。空から地形を確認できる魔女が欲しい」

「私は荷馬車ではありませんよ」

「知っている。荷馬車ならもっと安い」

「帰ってください」

 

私が宿へ戻ろうとすると、彼は革筒から一枚の紙を取り出しました。

 

「報酬は金貨三枚。それと、この地方でしか流通していない古い街道図の写しを渡す。これでどうだ?」

 

思わず足が止まりました。

別に釣られたわけではありませんよ。旅の魔女たるもの、情報には敬意を払うだけです。

 

「……見せてください」

「やっぱり興味はあるんだな」

「その口を地図の余白にでも貼りつけますよ」

 

彼は小さく笑いました。

笑い方まで控えめで、少し腹が立ちます。

 

こうして私は、この地図職人さんと三日間だけ同行することになったのでした。

 

契約内容は単純です。

私は箒で上空から地形を確認し、危険な谷や崖、森の切れ目を伝える。彼は測量し、記録し、道を選ぶ。目的地は霧谷の向こうにあるという廃村跡。かつて街道の中継地だった場所です。

 

「魔法で一気に飛べばいいでしょう?」

 

出発して早々そう言う私に、測量棒を地面に突き立てながら彼は答えました。

 

「それでは地図にならないだろ」

「便利さより面倒を選ぶとは、職人というより修行僧ですね」

「君だって旅をしているだろ?一瞬で目的地に着くだけなら、旅とは呼ばないんじゃないか?」

 

私は返事に詰まりました。

不本意ながら、図星だったからです。

 

「……生意気です」

「正確な観測だ」

「減点です」

「地図には点が多いほどいい」

 

彼はおどけたように微笑みました。

この男、やはり面倒です。

 

一日目は、ずっとそんな調子でした。

私が空から見た尾根の形を伝えると、彼は黙々と紙に線を引きます。谷の深さ、川の曲がり方、森の密度。彼の目は、風景を眺めているようでいて、実際には世界を解体していました。

 

木は目印。岩は方角。川は標高の証人。

彼は線で世界を読む。

それは魔法で世界を読む私と、どこか似ている気がしました。

 

 

夜、焚き火の前で干し肉をかじりながら、彼が言いました。

 

「霧谷には昔から妙な噂がある。道だけじゃなく、名前まで曖昧にする霧だとさ」

「名前をなくすんですか?」

「忘れるんだ。村の名も、道の名も、そこを通った人間の顔もな」

 

ぱちり、と薪が爆ぜました。  

火の粉が暗い森へ吸い込まれていきます。

 

「随分と曖昧な呪いですね」

「実際、あの谷を越えた古い街道は記録が少ない。廃村の名前も、資料によって違っている」

「単に管理が雑だったのでは?」

「それもあるだろうな」

 

カイトさんは苦笑しながら、火に小枝を足しました。

 

「だが、地図職人ってのは、そういう“曖昧”を放っておけない生き物なんだ」

「面倒な性分ですね」

「おかげで飯が食えてる」

 

彼はそう言ってから、わずかに表情を引き締めました。

 

「名前が消えると、人はそこへ辿り着けなくなる」

「地図があっても?」

「地図があるからこそ、だ。名前のない場所は、線の引きようがない」

 

少しだけ沈黙が続き、火の向こうで彼の顔だけが静かに照らされていました。

 

「魔女は空から見るから、世界を広く知っていると思っていた」

「実際、広く知っていますよ。地上を這うしかない“誰かさん”よりは」

「だが、細かい凹凸は見落とすだろう?」

「……」

「空の目と地上の足。どちらかだけでは足りないんだ」

 

私はカップの中の薄いスープを見つめました。

 

「それを言うために私を雇ったんですか?」

「いいや。今思った」

「では、もう少し賢そうに黙っていてください」

「君は黙っている相手が好きなのか?」

「場合によります。今はかなり好きです」

「それは光栄だ」

 

目を向けると、彼はまた小さく笑いました。

私はなぜか視線を逸らしました。

 

…………………………

 

二日目。その日は朝から霧が濃くなりました。

 

谷に近づくほど白い湿気が森の奥から流れ、木々の輪郭を曖昧にしていきます。空を飛んでも、下は白く溶けて見えました。

 

「ここは、俺の足の番だな」

「魔女に頼んでおいて、役立たず扱いですか」

「役割が変わっただけだ」

「言い方が真面目すぎて腹立たしいですね」

 

カイトさんは方位磁針を確認しながら、霧の奥へ視線を向けました。

 

「感覚で進むな。君の勘がどれほど優秀でも、記録にはならない」

 

それではまるで、私の見てきた景色には形がないと言われたようで、少しだけ腹が立ちました。

 

「……ずいぶん失礼ですね。私は便利な展望台ではありませんよ」

 

返事はありませんでした。

ただ、彼は霧の中で地形の傾きと足場を確かめながら、少しずつ道を選んでいきます。

私はその背中を睨みながら、少し遅れて後ろを歩きました。

腹立たしい男です。いちいち正論を選ぶところが、特に。

 

けれど……正直、彼の歩き方は悪くありませんでした。

無駄に急がず、迷いを恐れず、しかし慢心もしない。知らない土地に対して、彼は驚くほど礼儀正しかったのです。

 

「地図職人は、皆そんなに慎重なんですか?」

「雑な地図は人を殺すからな」

 

返ってきた声は淡々としていました。

けれど、その言葉だけが妙に重く、霧の中へ沈んでいくように聞こえました。

 

「一度、俺の師匠が引いた古い線を信じた商隊が、崩れた峠道に入った。半分は戻らなかった」

 

霧の向こうで、小枝を踏む乾いた音がしました。

白い靄のせいで距離感が曖昧になり、自分たちまで地図の外へ溶けていくような気がします。

 

「あなたの師匠のせいですか?」

「いいや。古い地図を更新しなかった全員のせいだ」

 

彼はそう言って、ぬかるんだ地面へ測量杖を静かに突き立てました。

 

「地図は完成した瞬間から古くなる。だから誰かが線を引き直し続けないといけない」

 

真面目で、偏屈で、地図以外にはあまり上手く生きられなさそうで。……けれど、その眼差しはどこまでもまっすぐでした。

 

私は胸の奥が、なぜかざわつきました。

別に、彼に感心したわけではありません。

ただ、地図に命を預ける人間がいて、その線を引くことに責任を持つ人間がいる。それを、私は少し美しいと思っただけです。

美しいものを美しいと認めるのは、私の審美眼が優れているからであって、別に彼がどうこうという話ではありません。

そこは重要です。

 

「イレイナ」

 

急に名前を呼ばれて、私は肩を揺らしました。

 

「足元。泥が深いぞ」

「先に言ってください!」

 

言い返した直後でした。

苔の下で地面が崩れ、私はわずかによろめきました。

 

その瞬間、カイトさんの手が私の手首を掴みました。

温かい手でした。強く引かれたのに、不思議と痛くはありませんでした。

 

「大丈夫か?」

「……ええ。魔女ですから」

「魔女でも泥には沈むんだな」

「あなたを沈めることもできますよ」

「それは困るな。まだ地図が完成していない」

 

私は手を振りほどきました。

いつもより、少し強く。

心臓が、やけにうるさかったからです。

 

 

その夜、私たちは霧谷の手前で野営しました。

雨が降り始め、焚き火は小さく、空気は冷えていました。私は外套を羽織り、カイトさんは濡れた地図を布で丁寧に拭いています。

 

「そこまで大事ですか、その紙?」

「紙じゃない。次に誰かが歩く道だ」

「詩人みたいなことを言いますね」

「俺は地図職人だ」

「似たようなものです。どちらも、現実を綺麗に切り取って人に見せるでしょう?」

 

「君は魔女なのに、ずいぶん言葉に細かいな」

「私には美貌だけではなく、知性もありますので」

「自分で言うところが惜しい」

「事実です」

「そうか。なら事実は少し騒がしいな」

 

私は口を閉じました。

カイトさんは火に薪を足しました。

沈黙が、霧よりも薄く二人の間に降りました。

嫌な沈黙ではありませんでした。

 

「君は……どうして旅を続けるんだ?」

 

不意に彼が聞きました。

それに私は胸を張って答えました。

 

「綺麗な私を世界に見せつけるためです!」

「世界は幸運だな」

「でしょう?」

「でも、それだけじゃないんだろ?」

 

私は少し黙りました。

焚き火の向こうで、彼はまっすぐこちらを見ていました。

茶化すには、少し難しい目でした。

 

「……世界は、私が思うより醜くて、私が思うより綺麗です」

 

言ってから、私は自分の声が思ったより静かだったことに気づきました。

 

「だから、確かめに行くんです。見なかったことにするには、少し惜しいので」

 

カイトさんは頷きました。

 

「いい理由だ」

「採点しないでください」

「いや、ただ……羨ましいと思ったんだ」

「あなたも旅をしているでしょう?」

「俺は地図を完成させるために歩いているが、君は完成しないものを見るために歩いている」

 

私は返す言葉を探しました。

見つかりませんでした。

代わりに、火の赤さを見つめました。

胸の奥に、知らない感情がありました。小さな棘のようで、温かい石のようで、名前をつけるには少し早いもの。

私はそれを、あまり丁寧に見ないことにしました。

旅人には、見過ごす技術も必要なのです。

 

…………………………

 

三日目の朝、霧は晴れました。

 

谷を越えた先には、古い廃村がありました。

道標には村の名が刻まれています。

けれど半分は苔に食われ、残った文字だけでは、もう何と呼ばれていたのか分かりません。

それでも石造りの井戸や崩れた屋根が、かつてここに生活があったことを物語っているようでした。

 

カイトさんは道標の前に膝をつき、苔を払いました。

 

「消えるのは仕方ない。でも、書き直せるものもある」

 

彼はそう言って、地図に最後の線を引きました。

紙の上で、途切れていた道が静かに繋がっていきます。

それは、名前を失いかけた村へ、もう一度線が戻ってくるようでした。

 

崩れた家々は、もう誰かを待つこともありません。

それでも、この場所が完全に忘れられてしまったようには思えませんでした。

 

 

契約は、ここで終わりです。

目的地へ着いた。

地図は完成した。

私は報酬を受け取り、彼は次の町へ向かう。

それだけのこと。

それだけのことなのに。

 

……私はなぜか胸が痛くなりました。

 

「意外と、まともな地図職人でしたね」

 

私が言うと、カイトさんは顔を上げました。

 

「君も、意外とまともな魔女だったな」

「意外と、は余計です」

「お互い様だ」

 

カイトさんはくすりと笑いました。

すると彼は革筒から丸めた紙を取り出しました。

 

「報酬だ。古い街道図の写し。それと、金貨三枚」

「確かに受け取りました」

「あと、これは俺からだ」

 

差し出されたのは、小さな紙片でした。

開いてみると、そこには簡単な地図が描かれています。

 

――霧谷。

 

――廃村。

 

――空から見た尾根の線。

 

――そして、私たちが歩いた道。

 

「これは?」

「今回の地図の写しだ。君の観測がなければ完成しなかった」

「当然ですね。私の貢献は偉大ですから」

「だから、君の名前も入れておいた」

 

私は紙の隅を見ました。

そこには小さな文字で、こう書かれていました。

 

 

『灰の魔女 イレイナと共に測る』

 

 

……余計なことを。

 

私は紙を畳みました。

 

「地図に私の名前を入れるなんて、後世の人が美しすぎる伝説と勘違いしますよ」

「それは困るな。地図は正確であるべきだ」

「つまり私は正確に美しいと?」

「そこまでは言ってない」

「言いなさい!」

「断る」

「本当に偏屈ですね」

「君ほどじゃないさ」

 

私たちは小さく笑いました。

風が吹いて、廃村の草が揺れました。

別れの時間でした。

 

「カイトさん」

「なんだ?」

「あなたの地図は、たぶん……悪くありません」

「それは最高評価か?」

「私にしては」

「そうか。……なら、大事にしておくよ」

 

彼は荷物を背負い直しました。

 

「君は、これからどうするんだ?」

「私は西へ。綺麗な私を待つ世界がありますので」

「そうか」

 

「そういうあなたは?」

「北へ。まだ空白がある」

「空白ばかり追っていると、いつか自分が空白になりますよ」

「その時は、また誰かに描いてもらうさ」

「ずうずうしいですね」

「君よりは控えめだと思うけど」

 

私は箒に腰掛け飛び立つ直前、彼が言いました。

 

「イレイナ」

 

「はい?」

 

 

「――また、世界のどこかで」

 

 

私は少しだけ息を止めました。

引き止める言葉ではありませんでした。

約束ですらありません。

ただの願いに近い言葉。

だから、ずるいと思いました。

 

「……地図にない場所でなら、考えてあげます」

 

私はそう言って、空へ上がりました。

下を見ると、カイトさんが小さく手を振っていました。

私は振り返しませんでした。

ええ、振り返しませんでしたとも。

ただ、少しだけ箒の速度を落としただけです。

空は青く、霧谷は白く、完成したばかりの地図は鞄の中で静かに眠っていました。

 

…………………………

 

しばらく飛んでから、私はもう一度、彼にもらった紙を開きました。

 

地図の裏側に、小さな文字がありました。

小さすぎて見落とすところでしたが、そこには確かにこう書かれていました。

 

 

『君が空から見た世界を、いつか地上から案内したい』

 

 

私は空中で、しばらく固まりました。

風が頬を撫でていきます。

妙に熱いのは、きっと高度のせいでしょう。

太陽のせいかもしれません。

あるいは、紙に使われたインクが悪いのかも。

 

「……本当に、余計な線ばかり引く人ですね」

 

私は小さく呟きました。

それから、その地図を鞄の一番奥にしまいました。

 

捨てるには惜しい。

売るには、もっと惜しい。

誰かに見せるには、妙に腹立たしい。

だから、私だけが持っていることにしました。

 

 

旅をしていると、ときどき地図に載らないものに出会います。

 

――名もない村。

 

――消えた道。

 

――霧の向こうの廃墟。

 

――そして、たった三日だけ同行した、偏屈な地図職人。

 

それらはきっと、世界の余白に近いものです。

余白は、何もない場所ではありません。

まだ誰も、線を引いていないだけ。

 

私は箒の柄を握り直し、西の空へ向かいました。

また会えるかどうかは分かりません。

旅人の約束など、風に書いた文字と同じです。

 

けれど。

もし、どこかの町で、やけに正確で、少しだけ生意気な地図を見かけたなら。

そのとき私は、たぶん文句を言いに行くのでしょう。

ええ。

文句です。

それ以外の理由など、あるはずがありません。




原作のイレイナは余り男性とのエピソードが無いので、こんなことがあっても良いんじゃないかと思って書いてみました。
ちなみにイレイナ18、19歳頃の想定

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