堀北鈴音が去ったあとも、俺はその場から動けなかった。
春の風が制服の裾を揺らす。
だが俺だけが、現実感のないまま立ち尽くしていた。
「……とりあえず」
肩に掛けていた鞄を開き、中から学校までの地図を取り出す。
紙を広げる。
高度育成高等学校までの道。
そして、さっきまで堀北が歩いていた方向。
「……あいつ、学校の場所知ってたのかな?」
ふと疑問が浮かぶ。
原作では綾小路が道を聞かれていた。 つまり、堀北も最初は場所を完全には把握していなかったはずだ。
でも、さっきの堀北は迷ってる感じがなかった。
……いや。 あいつのことだ。 仮に迷ってても、絶対顔には出さないか。
俺は苦笑しながら地図を折り直した。
そして、そのまま歩きながら考える。
――堀北鈴音と、関わってしまった。
それが、思った以上に大きかった。
原作通りなら、あの場にいたのは綾小路だ。 でも実際には、俺がいた。
つまり。
もう既に、原作から少しズレ始めている。
「……これ、下手したらヤバいやつでは?」
小さく呟く。
蝶の羽ばたき一つで未来が変わる、みたいな話を思い出す。
もし堀北の行動が少し変われば? 綾小路との接触タイミングがズレたら? クラス内の空気が変わったら?
原作知識が、役に立たなくなる可能性だってある。
そして改めて、自分の選択肢を整理する。
綾小路清隆のポジションを奪うか? それとも、原作知識を持ちながらモブとして安全に生きるか? あるいは――プライベートポイントを荒稼ぎして、楽な学園生活を送るか。
選択肢を頭の中で並べてみる。
まず、綾小路ポジション。
これは危険すぎる。
でも、面白いんだよなぁ。
確かに俺は原作知識を持っている。 今後の試験内容やクラスの動きも、ある程度は知っている。 でも綾小路みたいに身体能力が化け物なわけじゃない。 頭脳だって、あいつほどじゃない。
下手に目立てば、龍園と坂柳に目を付けられる。
そして何より――あの男本人。
綾小路清隆。
あいつを敵に回すのだけは、絶対にダメだ。
……じゃあモブで行くか?
それも悪くない。 Dクラスで空気として生きる。 イベントにも深く関わらず、適当にポイントを使いながら三年間過ごす。
安全。 平和。 理想的。
……でも。
それで、本当にいいのか?
せっかくこの世界に来たのに。 原作で見ていた人物たちが実際に存在していて。 軽井沢も、一之瀬も、堀北も、本当に目の前にいる。
なのに、何もしない?
「……それは、ちょっともったいないよな」
自然と本音が漏れた。
それはそれで、後悔しそうだったし。
そして最後。 プライベートポイントを稼ぐ案。
これは現実的だ。
試験の情報。 各クラスの動き。 優待者。 ルールの穴。
原作知識を使えば、先回りできる場面はいくらでもある。
ただし――知識を使いすぎれば不自然になる。
「なんでこいつ、知ってるんだ?」
そう思われた瞬間、終わる。
俺はゆっくり息を吐いた。
「……モブを装いながら、裏で稼ぐ」
でも裏では、静かに情報を集め、静かに稼ぐ。
「……モブを装った情報屋ポジション、ありか?」
思わず少し笑う。
悪くない。
表向きは普通。 成績も中の上。 目立たず、敵を作らず、綾小路にも関わりすぎない。
堀北とも適度な距離。
綾小路とは必要最低限。 でも軽井沢や一之瀬とは、できれば仲良くなりたい
そう考えた時だった。
前方の坂道の先に、見覚えのある後ろ姿が見えた。
黒髪。
長い脚。
真っ直ぐな背筋。
――堀北鈴音。
「……また会うの早すぎない?」
思わず足が止まる。
さっき別れたばかりだぞ? イベントの再遭遇判定でも入ってるのか、この世界。
だが。
よく見ると、様子がおかしかった。
堀北は立ち止まったまま、周囲を静かに見渡している。
表情はいつも通り無表情。 クール。 完璧。
……なんだけど。
ほんの少しだけ、視線が泳いでいた。
「……あ」
俺は察した。
これ、多分。
「可愛いなおい」
思わず小声で漏れる。
いや、顔には一切出てない。 出てないんだけど、なんとなく分かる。
たぶん今、迷ってる。
でも堀北鈴音だから、それを認めたくない。
プライドが邪魔してる。
俺は軽く咳払いして近づく。
「……道、迷った?」
その瞬間。
堀北はゆっくりこちらを振り向いた。
相変わらず整った顔。 涼しげな目。
そして、予想通りの返答が飛んできた。
「迷うわけないでしょう」
即答だった。
食い気味だった。
だが。
その直後、堀北の視線が一瞬だけ俺の持っている地図へ向く。
……めちゃくちゃ分かりやすい。
俺は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「いや、でもさっきから同じ場所ぐるぐる――」
「気のせいよ」
「ですよね」
強い。
絶対認めない。
でもよく見ると、ほんの少しだけ耳が赤い気がする。
……いや待て。
堀北鈴音の照れって、こんな破壊力あったのか?
原作読んでる時はクール系ヒロインって印象だったのに、実物だとギャップがヤバい。
俺が黙っていると、堀北は小さくため息を吐いた。
「……あなた、学校の場所は分かるの?」
「まあ、一応」
「なら先を歩いて」
「認めたな?」
「認めてないわ。ただ、効率を優先しただけ」
言い訳まで完璧だった。
俺はつい吹き出してしまう。
「ふっ……ははっ」
その瞬間。
ドスッ。
「ぐぇっ!?」
鈍い衝撃が腹に入った。
堀北の拳だった。
「笑わないでくれる?」
「い、痛っ……! 普通に入ったんだけど!?」
「あなたが失礼だからよ」
涼しい顔で言うな。 女子のパンチってもっとこう、ぽすっとした感じじゃないのか?
地味にダメージがある。
俺は腹を押さえながら苦笑した。
「……解りました。案内します、お嬢様」
「その言い方は気に入らないわね」
「注文多いなぁ……」
そんなやり取りをしながら、俺は坂道を歩き出す。
「……そういえば」
まだ、お互い名前を名乗っていない。
ここまで会話してるのに。
いや、原作知識で俺は知ってるけど、向こうは当然知らない。 このままなのも不自然だよな。
俺は軽く振り返る。
「まだ名前聞いてなかったな。俺は――」
その瞬間。
堀北がこちらを見る。
黒く澄んだ瞳。
近くで見ると、本当に綺麗だった。
心臓が一瞬だけ跳ねる。
落ち着け俺。 相手は堀北鈴音だぞ。
俺は咳払いして、改めて口を開いた。
「俺は山内春樹。よろしく」
そう名乗った瞬間。
堀北の視線が、ほんの僅かに鋭くなった。
「……山内春樹」
小さく名前を繰り返す。
まるで、相手を観察するみたいに。
その視線に、俺は少しだけ緊張した。
……やっぱりバス降りてから、やらかしてしまったからなぁ 。
そんなことを考えていると、堀北が静かに口を開く。
「堀北鈴音よ」
知ってる。
めちゃくちゃ知ってる。
でも当然そんなこと言えるわけもなく、俺は初めて聞いた風を装う。
「へぇ、鈴音って名前なんだ」
「何か問題でも?」
「いや、綺麗な名前だなって」
その瞬間。
堀北がじっとこちらを見た。
冷たい視線。
「あのさ、その目やめない?」
「軽い男は苦手なの」
「普通に感想言っただけなんだけど!?」
「初対面の女子にすぐ名前を褒める人を、私は信用しないわ」
偏見が強い。
でも、その言い方が妙に堀北らしくて、俺は少し笑ってしまう。
すると。
「……また笑ったわね」
「いや違っ――」
ドスッ。
「いっっ!?」
二発目が腹に入った。
「ちょ、待って!? 今のは笑ったんじゃなくて自然に――!」
「同じことよ」
「暴力ヒロインだこの人!」
堀北はふん、と小さく鼻を鳴らす。
だが、その横顔を見て俺は気づいた。
ほんの少しだけ。
口元が緩んでいる。
……え?
今、ちょっと笑った?
いや、気のせいか? でも絶対いつもより空気柔らかいぞ。
原作序盤の堀北ってもっと刺々しかった気がするんだけど。
もしかして。
俺が綾小路じゃないからか?
綾小路相手だと、堀北は最初から妙に対抗意識を持っていた。 でも俺相手だと、そこまで警戒していないのかもしれない。
そう考えると、少し不思議な気分になる。
俺はちらりと隣を見る。
春風に黒髪が揺れる。
整った横顔。 真っ直ぐ前を見る瞳。
……やっぱり可愛い。
しかも、たまに見せる不器用な反応が反則級だった。
「……何?」
「え?」
「さっきから見すぎよ」
バレてた。
「いや、別に」
「言っておくけれど、変なことを考えているなら殴るわ」
「その発想がすぐ出てくるの怖いんだけど」
「あなたが変な顔してるからでしょう」
失礼すぎる。
だが、そんなやり取りをしているうちに、高育の門が近づいてくる。
高度育成高等学校。
すると隣で、堀北が静かに呟いた。
「ここで、全てが決まるのね」
その声は小さい。
だけど、強い意志が感じられた。
Aクラスを目指す。 兄に認められる。 そのために、この学校へ来た。
原作知識のある俺には分かる。
今の堀北は、まだ孤独だ。
他人を信用せず、 一人で何でもやろうとして、 空回りしてしまう時期。
でも――。
俺はふと思った。
もし、少しだけでも。
原作とは違う関係を築けたら?
そんな考えが頭をよぎった瞬間。
「山内くん」
「ん?」
「早く行くわよ。」
そう言って歩き出す堀北。
俺は慌ててその後を追いかけた。
「あそこにクラス発表の掲示板があるわ」
堀北が視線を向けた先。 校舎前の広場に、大きな掲示板が設置されていた。
まだ発表直後なのか、人はそこまで多くない。
「今なら見やすそうだな」
「早く確認しましょう」
俺たちは並んで掲示板へ向かう。
春の風が吹き抜け、紙の端がぱたぱたと揺れていた。
近づくにつれ、俺の心臓が少しずつ速くなる。
……いよいよか。
原作で何度も見たクラス分け。
俺は自然を装いながら、Aクラスの一覧へ視線を向けた。
そして。
「……いた」
思わず小さく呟く。
葛城康平。
さらに、その少し下。
坂柳有栖。
名前を見つけた瞬間、妙な実感が湧いた。
本当にいる。
原作キャラが、現実に。
しかもAクラスのメンバーも、ほとんど記憶通りだ。
橋本正義。 神室真澄。
……うん。 関わりすぎたくない連中が多い。
特に坂柳。
あの人、笑顔で人の心をえぐってくるタイプだからな……。
「さっきから何をぶつぶつ言ってるの?」
隣から堀北の冷静な声。
「いや、なんでも」
危ない。
ついオタクみたいな反応が漏れていた。
俺は咳払いしながら、次にBクラスを見る。
一之瀬帆波。
名前を見つけた瞬間、内心で「おお……」となる。
本当に天使枠いるんだな……。
神崎隆二。 柴田颯。 小橋夢。
Bクラスは空気が良さそうだ。
まあ、その分甘さもあるんだけど。
続いてCクラス。
龍園翔。
名前を見ただけで空気が悪くなった気がした。
いや気のせいなんだけど。
でも怖い。
伊吹澪。 石崎大地。 アルベルト。
問題児軍団もちゃんと揃ってる。
「……絶対関わりたくない」
「誰のこと?」
「独り言です」
堀北が怪しそうにこちらを見る。
鋭いんだよなこの人。
そして最後。
Dクラス。
そこに並ぶ名前を見た瞬間、俺は少しだけ息を呑んだ。
綾小路清隆。
軽井沢恵。
櫛田桔梗。
平田洋介。
池寛治。
そして――。
山内春樹。
「……あった」
自分の名前を見た瞬間、急に現実感が押し寄せる。
やっぱりDクラス。
分かっていた。 分かっていたけど、実際に見ると妙に現実感がある。
しかも、自分の名前が本当に並んでいる。
俺、マジでこの世界にいるんだな……。
しかもそのすぐ隣には。
堀北鈴音。
俺はちらりと隣を見る。
堀北は、自分の名前を静かに見つめていた。
その表情は変わらない。
だが――。
「Dクラス……」
その声には、わずかな不満が滲んでいた。
当然だ。
堀北鈴音は、まだ知らない。
この学校における“Dクラス”の意味を。
単なる成績順じゃない。
問題児。 欠陥。 協調性不足。 人格面。
学校側から、“何かしら問題あり”と判断された生徒の集まり。
そして堀北自身も、その例外じゃない。
……いや、むしろ代表格だ。
俺は内心でため息を吐いた。
「……教えるべきか?」
もし今ここで、 『この学校は学力だけじゃない』 『Dクラスは欠陥クラスだ』 って伝えれば。
堀北は、かなり早い段階で現実を理解するはず。
原作より早く。
そうなれば、今後の行動も変わるかもしれない。
クラスへの接し方。 綾小路への態度。 周囲との関係。
全部。
しかも、早めに知っておけば、この学校ではかなり有利だ。
無駄な失敗を減らせる。
だが。
「……いや待て」
俺は冷静に考える。
なんで俺がそんなこと知ってるんだ?
普通の新入生が、そんな内部事情みたいなこと分かるわけがない。
下手に話せば確実に怪しまれる。
特に相手は堀北鈴音。
観察力が鋭い。
少しでも不自然なら、 「なぜそんなことを知っているの?」 って詰めてくる未来が見える。
しかも。
今の俺たちは、まだ“たまたま一緒に来た新入生”程度の関係だ。
踏み込みすぎれば、逆に警戒される可能性もある。
……悩む。
かなり悩む。
俺はちらりと堀北を見る。
相変わらず綺麗な横顔。
でも今の彼女は、まだ何も知らない。
これからクラスで孤立して、 失敗して、 綾小路に指摘されて、 少しずつ変わっていく。
その過程を、俺は知っている。
だからこそ。
「……少しくらい助けてもいいんじゃないか?」
そんな気持ちもあった。
ただ。
全部教えるのは違う。
それじゃ未来を壊しすぎる。
なら――。
「一つだけ、忠告するか」
俺は小さく呟く。
「?」
堀北がこちらを見る。
俺はできるだけ自然に、軽い感じで口を開いた。
「この学校ってさ、たぶん学力だけじゃないぞ」
「……どういう意味?」
予想通り、すぐ食いついてきた。
鋭い目。
俺は肩をすくめる。
「いや、なんとなく。設備も制度も普通じゃないし、“実力主義”って言ってるくらいだからさ」
完全な嘘ではない。
推測っぽく言えば、そこまで怪しまれない。
堀北は黙って掲示板を見る。
「つまり、Dクラスになった理由が他にもある、と?」
「かもしれないって話」
すると堀北は、小さく目を細めた。
その顔は、もう考え始めている顔だった。
さすがに頭の回転が速い。
……うん。
これくらいならセーフだろ。
少なくとも原作みたいに、“自分だけは完璧”って思い込み続ける時間は減るかもしれない。
すると堀北は、小さく呟いた。
「もしそうなら……くだらない評価方法ね」
「でも、この学校のルールなんだろ」
「気に入らないわ」
即答だった。
その返しが、あまりにも原作通りで――。
「っ……ふはっ」
俺は思わず吹き出してしまった。
完全に、知ってる堀北鈴音そのものだったからだ。
すると次の瞬間。
ドスッ。
「ごふっ!?」
腹に鈍い衝撃。
三度目だった。
「また!?」
俺は腹を押さえて前かがみになる。
堀北は涼しい顔のまま、こちらを見る。
「人の顔を見て笑うのは失礼よ」
「いや、今回は不可抗力だって……!」
「言い訳ね」
容赦がない。
というか、この人、地味に拳重いんだよな……。
俺が痛みに耐えていると、堀北は小さくため息を吐いた。
「あなた、少し表情に出すぎるわ」
「そんなに出てる?」
「ええ。考えていることがなんとなく分かるくらいには」
怖っ。
観察眼が鋭すぎる。
俺は冷や汗を流しながら笑う。
「気を付けます……」
「最初からそうしなさい」
そう言いながらも、堀北の声音はどこか柔らかかった。
そして、俺たちは掲示板を離れ、校舎へ向かって歩き出す。
原作の堀北鈴音と、普通に会話している。
並んで歩いている。
最初に会った時より、明らかに空気が違う。
完全に打ち解けたわけじゃない。
しかも少しだけ、距離が縮まっている気さえした。
それが妙に嬉しかった。
「そういえば」
「何?」
「俺、今日だけで三回殴られてるんだけど」
「あなたが笑うからでしょう」
「理不尽すぎる……」
堀北はふん、と小さく鼻を鳴らす。
だがその直後。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ気がした。
――あ。
今、絶対ちょっと笑った。
俺は思わず目を見開く。
原作初期の堀北って、色んな表情するんだな……。
そのギャップに、心臓が少しだけ跳ねた。
「何を見ているの?」
「いや、別に」
「また、変なことを考えてるなら殴るわよ」
「暴力が会話の締めになってるんだけど!?」
そんなやり取りをしながら。
俺と堀北は、並んでDクラスの教室へ向かった。
原作やアニメを、見ていて、きになる、所を話に、しているので、中々、話が進まないと思います