海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
第一話 地下書庫の爆弾
――おかしい。
陸軍大尉・
どう計算しても、合わない。
大正三年(一九一四年)一月の深夜。
陸軍省の地下書庫に、人気はなかった。
棚には、十年前の日露戦争の綴じが、背表紙を並べて積まれている。裸電球の黄色い灯りが、埃を照らし出すばかりだ。
机上に、二冊の帳簿が広げられていた。
一つは『明治三十七年 第三軍管下 弾薬消費明細』。旅順の要塞を攻めた、第三軍の記録だ。
もう一つは、『同期間
前線への食料と、軍馬の飼料の輸送記録だ。
弾薬の山が、馬の餌の谷と噛み合わない。
(明治三十七年十一月。二〇三高地の総攻撃。砲弾の消費は、前の月の三倍)
真崎は、隣の綴じの同じ月を指でなぞった。
(弾が三倍なら、運ぶ馬も三倍いる。馬が三倍なら、飼い葉も三倍要る)
飼い葉の数字は、前の月とほとんど変わっていなかった。
(……増えていない)
そこだけ、誰かがわざと空白を作ったかのようだった。ソロバンを弾く必要すらない。初歩の算数だ。
(これに、誰も気づかなかったのか)
真崎は、綴じの表紙を裏返した。貸出の記録をつける紙が、糊で貼ってある。自分のほかに、
紙は、ほとんど空白だった。十年間で、名前はわずか数行しかない。どれも、自分と同じ兵站畑の将校の名だ。「大和魂があれば勝てる」と信じる将校たちは、馬の餌の数字など見向きもしない。
指で一行ずつなぞっていくと、一つだけ、筆の運びの違う名があった。骨太で、払いの最後がわずかに震えている。
『明治四十五年七月 乃木』
(乃木……? まさか、あの乃木大将が、こんな馬の餌の帳簿を借りている……?)
真崎は、その不自然な数字が記されたページをめくろうとして、指を止めた。
(……厚い)
一枚のはずの紙が、指のあいだで、わずかに厚い。裏に、別の紙が貼り合わせてある。
ナイフの先で、慎重に糊を剥がす。和紙の縁が、真崎の指の中で小さく鳴った。
貼り合わされていたのは、無味乾燥な数字の羅列ではなかった。
厚手の和紙である。指先で触れると表面に微かな凹凸があり、歳月を経てなお、墨の匂いがほんのり残っていた。宮内省御用達の紙だろうか。
達筆なその筆跡には見覚えがある。陸軍省の応接室に飾られている額縁と同じ、あの骨太な字だ。
巻末の署名に、真崎は息を呑んだ。
『陸軍大将
おととしの秋、明治天皇の崩御に際して殉死した軍神の直筆であった。貸出記録の「乃木」と、同じ字だ。
*
なぜこんな重要書類が、馬の餌の記録に紛れ込んでいるのか。戸惑いながら冒頭に目を落とすと、そこには現在の陸軍上層部が卒倒しそうな言葉が並んでいた。
――白兵突撃ハ、モハヤ次代ノ戦ニ通用セズ。
――
――後進ノ者ヨ、火力ト兵站ヲ以テ、陸軍ヲ近代化セヨ。
(兵の命を無駄に散らしたのは、己の無能――あの乃木大将が、自分でそう書いている)
旅順では、機関銃の据わった要塞に向かって、歩兵が何度も正面から突っ込まされた。第三軍の死傷は、六万に近い。それでも陸軍はあの勝ち方を正しかったことにして、歩兵操典は今も、最後は銃剣で決めよ、と教えている。
その突撃を命じた当人が、死ぬ前に、それを間違いだったと書き遺していた。
真崎は、和紙の上に落ちた自分の影が、わずかに震えているのに気づいた。
喉が渇く。
(これを、上層部は……握り潰したのか)
冒頭の書式を見れば明らかだ。これは私信ではない。陸軍省への正式な上申文書だ。受理されていれば、参謀本部の公文書棚に原本が残っているはずだった。
乃木はわかっていたのだ。この遺書が黙殺されることを。だからこそ、精神論者が絶対に見向きもしない兵站の裏記録の中に、同じ文面をもう一通、密かに忍ばせておいた。
いつか、物理の現実を直視する者が見つけることを信じて。
棚の闇の奥で、何か小さなものが落ちた音がした。ネズミか、あるいは漆喰のかけらか。地下書庫は再び静まり返った。
真崎は和紙を懐に納めた。それから、机上の馬の餌の綴じの表紙を掌でゆっくりと閉じる。乾いた音がした。
――乃木閣下。あなたの遺言は、確かに受け取った。
声には出さなかったが、懐の和紙が、肋骨のあたりでわずかに熱を持っているように感じた。これは単なる手紙ではない。軍の根幹を揺るがし、凝り固まった上層部の目を覚まさせるための、とびきり強力な「爆弾」だ。
帳簿を閉じた後、しばらく真崎は動けなかった。
机の端に肘をつき、額を掌に預ける。懐の和紙が、肋骨越しにじわりと体温を吸い取っていくようだった。
*
立ち上がったのは、それから数分後のことだ。
鍵を返しに階段を上がると、当直室で書庫係の若い少尉が火鉢に手をかざしていた。
「今夜も遅いですね、大尉殿。何を読んでおられるんです」
「馬の餌だ」
「はあ」
少尉は鍵を受け取り、帳面に時刻と真崎の名を書き入れた。
「毎晩よく飽きませんね。あそこの綴じを読みに下りてくる将校なんて、自分がここに来てから、大尉殿お一人ですよ」
「読むと、なかなか面白いんだがな」
「数字がですか」
「数字は正直だ。誰かがごまかせば、どこかでほころびが出る」
少尉は分かったような分からないような顔で頷き、火鉢の炭を火箸で寄せた。
陸軍省の通用口を出ると、門の脇に、荷車を引いた老爺が一人、焼き芋の屋台を出していた。深夜の帳の中で、小さな炭火だけが橙色に
「一本くれ」
「はいよ」
老爺は炭の中から一本を抜き、新聞紙にくるんで寄越した。真崎は銭を渡した。
返ってきた釣りが、掌の上で一銭足りない。
「爺さん。一銭、合わん」
「合っとりますよ」
「いや、合わん」
「値を上げました」老爺は言った。「先月から」
真崎は黙った。
「……そうか」
「そうです」
老爺は火箸で炭を寄せた。
「みなさん、芋が上がったと思うとられる。ちがいます。炭です」
炭が上がれば、芋が上がる。初歩の算数だ。
真崎は釣りを懐に入れた。
割ると、湯気が立った。熱い。
真崎は口の中を火傷しながら、それを食い切った。
「旦那、こんな遅くまで、お仕事で」
「調べ物だ」
「地下の、あの部屋ですか」
真崎の手が止まった。
思わず、懐の和紙を上から押さえる。老爺の目が、一瞬だけその手を追った。
「そこの窓が、地面すれすれにありましてな」老爺は顎で通用口の脇を示した。「毎晩、灯りが漏れとります」
毎晩。
真崎は、自分がこの数年、毎晩見られていたことを、今夜はじめて知った。
「爺さん」
「はい」
「他に、誰か気づいているか」
「さあ」老爺は炭を掻き混ぜた。「わしは、芋を売っとるだけですんで」
*
真崎が屋台を離れ、再び三宅坂の闇の中へ戻ったとき。
街灯の足元に、白い塊がうずくまっていた。
日露戦争で片腕と両足を失った傷痍軍人だ。薄汚れた白衣が、寒さに震えている。
真崎は無言で硬貨を取り出し、空き缶に落とした。チャリン、という乾いた音が、夜風にかき消された。
立ち去ろうとしたとき、男がゆっくりと顔を上げた。
窪んだ眼窩の奥で、二つの目が真崎を見ていた。怒りでも、哀願でもない。ただ静かに、こちらを見ている。
その目に見覚えがあった。
父は、旅順から帰ってこなかった。
――父も、こうして見捨てられた一人であったか。
真崎は頭を下げ、踵を返した。振り返らなかった。振り返れば、歩けなくなる気がした。
*
丸の内方面へ向かいながら、真崎はふと足を止めた。
風に舞った新聞紙が、爪先に絡んでいた。
剥がそうとして、紙の端の小さな記事が目に入った。『ドイツ系軍需会社と帝国海軍高官の間に金銭授受の疑惑』――横一段の小さなベタ記事だ。
三菱、シーメンス、ヴィッカース――近代兵器を巡る金の匂いは、海軍だけの話ではあるまい。
真崎はその新聞紙を畳み、外套の内隠しに入れた。
*
夜が明けきらぬうちに、上海の古い家に一通の電報が届いた。
三味線を膝に抱えた白髪の老人が、それを灯りに寄せる。
――ミヤケザカ チカ ノ ツヅリ ヒラカル
「……開いたか」
老人は、電報を届けに来た若い男を見上げた。
「差出人は、東京の芋屋です」
「開けたんは、どねえな男じゃ」
「陸軍省の大尉。名は真崎。一銭の釣りにうるさい男だそうで」
「乃木が逝って一年と四ヶ月。ようやっとか」
老人は電文を袂に落とし、
「よう見ておけ。まだ、会うには早い」
撥が、一度だけ弦を打った。
実際の数字を、一つだけ。
日露戦争の総戦費は18億2600万円。当時の国家予算の、7倍を超えます。大正三年のこの時点でも、国家予算の二割近くが、その利払いに消えていました。真崎が睨んでいた弾薬も馬の餌も、そういう借金で買われたものでした。この戦費のために国外で借りた金を、日本が返し終えたのは1986年。82年かかりました。
次話もお付き合いください。
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