海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
大正三年(一九一四年)七月の初旬。
長江が吐き出す膨大な泥土によって黄色く濁った黄浦江の波打ち際に、その異形の都市はそびえ立っていた。極東最大の国際情報都市にして、あらゆる欲望と謀略が吹き溜まる魔都・上海である。
阿片戦争の砲火によって門戸をこじ開けた欧米列強が、治外法権を盾にこの
真崎は
ロビーのソファに腰を下ろし、真崎はウェイターに声をかけた。サンドイッチとコーヒーを頼もうとしたのである。
差し出されたメニューカードに目を落とした瞬間、真崎は思わず眉根を寄せた。
コーヒー一杯、一円八十銭。
サンドイッチ、二円五十銭。
帝都の軍務局近くの食堂なら、定食が十五銭で食える。換算すれば、コーヒー一杯で十二食分だ。
(……これが列強の「日常」か)
真崎は表情を崩さぬまま、静かにメニューを置いた。
「コーヒーだけで結構です」
ウェイターが恭しく一礼し、去っていく。その所作の洗練されたことといったら、三宅坂の当直下士官の敬礼など足元にも及ばない。
この禮査飯店は、かつて米国大統領グラントが宿泊したことで知られる極東随一の名門だ。上海に来るような人種は、コーヒー一杯の値段など数えない。この街で「値段を気にする」こと自体が、すでに敗北の証なのかもしれなかった。
真崎は運ばれてきたコーヒーを一口すすった。
――苦い。ただひたすらに、苦い。
真崎は無言で卓上の砂糖壺に手を伸ばし、角砂糖を三つ放り込んだ。次いでミルクピッチャーを傾け、カップが白く濁るまで注ぐ。
もう一口。
……なんとか飲めた。
一円八十銭とはこういう味か、と真崎は思った。
真崎は、上質なアイリッシュ・リネンのスリーピースの背広に着替えた。
パナマ帽を被る前、彼は手提げ鞄の底から、
ホテルの回転扉を押し、熱暑の街へと歩み出た真崎の顔には、もはや三宅坂の歯車としての表情はない。歴史の闇に単身で飛び込む、孤独な駐在員としての冷徹な顔つきに変わっていた。
華やかな
そこは「
一歩踏み込んだ瞬間、真崎は思わず口元を手で覆った。
帝都の空気しか知らない鼻には、あまりにも暴力的な濃度だった。
七月の上海特有の、重くむせ返るような湿気が真崎の肌にまとわりつく。
見上げれば、狭い路地を塞ぐように、頭上には原色の洗濯物が万国旗のごとくひしめき合って干されている。太陽の光さえ満足に届かない薄暗い路地の奥からは、屋台の鉄鍋で焦げる豚の脂の匂いと、八角や花椒といった香辛料の鮮烈で暴力的な香りが容赦なく鼻腔を打ち据えてきた。
それに混じって、どこからともなく漂ってくるムンとする甘い香り。阿片である。
すれ違う
香辛料、阿片、汗、そして強烈な生命の熱量。人間のあらゆる底知れぬ欲望が巨大なすり鉢で煮詰められ、ドロドロに発酵した「狂気じみた魔都の体臭」であった。帝都・東京の小ぎれいな喧騒など、この街が放つ圧倒的なエネルギーの前では、まるで子供の戯れに過ぎないと思わせる圧力があった。
雑踏の中を歩を進めるうち、真崎の研ぎ澄まされた軍人としての嗅覚が、奇妙な「違和感」を捉え始めた。
(……おかしい)
真崎は歩調を変えず、パナマ帽のつばをわずかに下げた。
背後を振り返るまでもない。あからさまな尾行者の影はないのだ。真崎が感じ取った違和感の正体、それは「異常なほどの無視」であった。
これほど人口密度の高い、混沌とした路地裏を歩いているにもかかわらず、すれ違う現地の中国人たちの視線が、極めて不自然なほど真崎から外されている。誰も真崎と目を合わせようとせず、まるで彼という存在が「そこにあってはならない透明な石」であるかのように、わずかに軌道を逸らして避けていくのだ。
真崎は、路地角にある仕立て屋のショーウィンドウの前で、さりげなく立ち止まった。
ガラスに映る背後の風景を、眼球だけを動かして鋭く観察する。
――タオルの位置が変わった。
三十メートル後方で客待ちをしている人力車夫が、首に巻いていた手拭いを右肩から左肩へ掛け替えた。
すると、その先の角で客の靴を磨いていた少年が、顎をしゃくって路地の奥へ合図を送る。
その合図を受けた屋台の主人が、手元の鉄杓子で鍋の縁を「カン、カカン」と不規則なリズムで三度叩いた。
真崎の背筋に、氷のような戦慄が走った。
誰か特定の個人が背後から尾行しているのではない。見ず知らずの街の住人たちが、生活音に擬態した何らかの合図によって、リレーのように真崎を「面」で監視しているのだ。
(……つけられているのか? いや、いつからだ。俺が日本郵船に乗船したあの時からか……?)
帝都を追放されたばかりの一介の左遷将校に過ぎない自分を、なぜこの異国の巨大な集団が監視し、狙う必要があるのか。その理由は全く思い当たらない。
三宅坂の陸軍省で行ってきた小手先の政治闘争など、この不気味な街の暗部から見れば、「子供のお遊び」に等しいのではないか。足元の泥水に底なしの深淵が口を開けているような、得体の知れない恐怖が真崎の胸に湧き上がった。
その時であった。
豚の脂と、むせ返るような香辛料、そして阿片の
――フランソワ・コティの高級香水。
真崎はハッと息を呑み、周囲を見回した。
東シナ海を渡る日本郵船の、あの豪奢なスモーキングルームで出会った、あの男の匂いだ。
欧米の紳士たちを冷ややかに見下し、真崎の正体を一目で見抜いた、完璧な紳士の擬態を持つあの
姿は見えない。だが、香水の残り香は、確かに「お前はすでに私の盤上にいる」という、東洋の魔人からの優雅で残酷な挨拶であった。
真崎は、背広の裏で冷たく重いモーゼル拳銃の感触を確かめながら、深く息を吐き出した。
自分はすでに、理解の及ばぬ巨大な蜘蛛の巣の中央へと迷い込んでいる。
真崎勇気はパナマ帽のつばを上げ、狂気じみた喧騒が渦巻く魔都のさらに深い闇へと向かって、己を奮い立たせるように歩を進めていった。
◆あとがき◆
少しだけ種明かしを。
真崎が初日の宿に選んだ礼查飯店(アスター・ハウス・ホテル)は実在の建物です。1846年創業、外灘のほとりに建つ上海最古の西洋式ホテルのひとつで、米国大統領グラントをはじめ、アインシュタイン、チャップリンといった著名人も宿泊した記録が残っています。
真崎がコーヒー一杯に感じた「これが列強の日常か」という衝撃は、当時の日本人が上海で実際に受けた感覚そのものです。帝都の食堂で定食が十五銭の時代に、一円八十銭のコーヒーを平然と注文できる人間だけが、この街で対等に戦えた。
次話もお付き合いください。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは本日12:00 / 19:40に更新予定です。
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