海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第百一話 四枚目の紙

 沈黙が、まだ部屋に残っていた。柏木は駆け込んできた姿勢のまま立ち、郷田と三人の幕僚は、身じろぎ一つせずにいた。壁の時計だけが、律儀に時を刻んでいた。

 

 田中は、すぐには答えなかった。湯呑みの中身は、もう冷めていた。それでも一口、口に運んでから、静かに切り出した。

「高杉晋作という男は」田中は言った。「奇兵隊を作った、その年のうちに、頭を挿げ替えられておる」

 

 部屋の空気が、わずかに動いた。郷田の眉が、かすかに寄った。三人の幕僚も、顔を見合わせた。

 

「下関の教法寺(きょうほうじ)で、隊の若い者が正規の隊と衝突を起こした。責めを負わされて、総督の座から外された。わずか三月(みつき)じゃ」田中は続けた。「作った本人が、作った隊の頭から下ろされる。それが、型を破った者の最初の扱いよ」

 

 真崎の喉が、詰まった。「組織を壊す毒」と見なされた日のことが、頭をよぎった。田中は、それを知っているのか、知らずに口にしているのか、判じかねた。目の前の丸い眼鏡の奥、田中の目は何も語っていなかった。

 

「藩の上士(じょうし)どもは、猛烈に怒ったそうじゃ」田中は続けた。「百姓町人風情に先鋒を務めさせては、譜代の臣の恥辱だとな。他藩でも、笑い者にされたと聞く」

「――それでも、高杉は退かなかったのですか」

「退かなかった。退けば、そこで終わりじゃからな」

 

 郷田が、初めて口を挟んだ。

「田中閣下。それは、無謀と紙一重の話です」

「紙一重よ」田中は頷いた。「じゃが、困ったと言わなんだ男でもある」

 

 田中は、湯呑みを卓の隅へ寄せた。

「高杉はこう言うたそうじゃ。男子と言うものは困ったと言うことを決して言うものではない。困ったと言う時は、死ぬ時である。どんな難局に処しても、何困らぬと言う気概でやっておると、自づと通ずるものである。行き当れば、曲り路ありと言う訳である――とな」

 

 部屋に、また静けさが落ちた。誰も、その言葉の重さを測りかねていた。

 

 真崎は、懐に手を入れた。防水布の包みは、さっきよりも重くなっている気がした。もう、迷わなかった。

「田中閣下。もう一つ、お目にかけたいものがございます」

 

 真崎は、その包みを解いた。古い和紙の書状が、卓の上に置かれた。四つ折りにされた紙は、長年の携行で角が擦り切れていた。

「乃木希典大将の、遺書です」

 

 会議室の空気が明らかに変わった。郷田は文書の中身を早く読み上げろ、という顔をしている。眠そうにしていた隣の幕僚は、いまや目を見開いて、前のめりになっている。

 

 三宅坂の地下書庫で、この紙を見つけた日のことを、真崎は今も覚えていた。あれから一年、この紙を開いて見せた相手は、まだ一人しかいない。あの時も、こうして息を止めて反応を待った。

 

 田中の顔から、初めて表情が消えた。手を伸ばしかけ、途中で止め、それから静かに紙を取り上げた。

 

 目を通す間、部屋には誰の息遣いも聞こえなかった。柏木でさえ、立ち尽くしたまま動かなかった。

「白兵突撃ハ、モハヤ次代ノ戦ニ通用セズ」田中は、低く読み上げた。「徒ニ兵ノ命ヲ散ラシタル己ノ無能ヲ、死ヲ以テ謝ス」

 

 田中の指先が、わずかに震えていた。

「後進ノ者ヨ、火力ト兵站ヲ以テ、陸軍ヲ近代化セヨ――」

 

 田中は、しばらく紙から目を離さなかった。丸い眼鏡の奥の目が、初めて丸くなった。

「――この紙か」田中は言った。「神尾中将の文に、書いてあったのう」

「はい」

「隠された、か」田中は紙を置いた。指先が、まだ紙の縁に触れていた。「どこにあった」

 

糧秣手配綴(りょうまつてはいつづり)の、()じの裏に貼り合わされておりました」真崎は言った。「馬の餌の記録です。誰も開かん綴でした」

 

「殉死を決めた乃木将軍が、なぜそんな所へ隠した」

 

「陸軍の恥を、書いたからだと思います」真崎は言った。「ですが恥を書いたことこそが、型を破った者の払う代償ではないでしょうか」

 

 郷田が、その紙に目を落とした。しばらく、動かなかった。

「……小松と堀内は」郷田が、低く言った。「この字を、読まずに死んだ、ということか」

 それきり、郷田は黙った。田中も、真崎も、何も返さなかった。三人の幕僚も、押し黙ったまま紙を見つめていた。

 

 田中は、郷田の方を見なかった。湯呑みの縁を、指先で一度だけなぞった。

 

「――それから、一年余りじゃ」田中は、話を元に戻すように続けた。「俗論派が藩を握り、高杉は国を追われた。福岡まで逃げてな。戻った時、味方したのは、わずか八十人じゃ。奇兵隊の中枢におった山縣――今の山縣閣下じゃ――でさえ、時期尚早と、動こうとせんかった」

 

 幕僚の一人が、小さく息を呑んだ。田中は、それに構わなかった。

「――八十人で」真崎は聞いた。

功山寺(こうさんじ)で、旗を揚げた。長州男児の腕前、お目にかけ申すと言うてな」田中は、初めて薄く笑った。「勝った後で、皆が味方に回った。勝つ前は、誰も味方せんかったがの」

 田中は、真崎を一瞥した。

「――お前と、似ておらんか」

 

「その高杉は、どうなったのですか」真崎が聞いた。

「勝った二年後に、労咳(ろうがい)で死んだ」田中は言った。「死に際に詠んだのは、おもしろき、こともなき世を、おもしろく――じゃ。わしの聞いた話ではな、新しい日本を作るまでしっかりやってくれとも言い残したそうじゃ。死に際にまで、大和魂などとは、ひと言も口にせんかったと聞く」

 

 真崎は、その句を知っていた。初めてこの部屋に呼ばれた日、田中自身の口から聞いた句だった。あの時は、萩の童歌のように聞こえた。

 

「神尾中将は、青島(チンタオ)でこれをやった」田中は続けた。「艦砲で潰して、突撃を止めた。あの推薦文は、その結果じゃ」

「この字は、絵空事じゃない。実際にやって、勝っとる」

 

 三人の幕僚のうち一人が、卓の上の紙から目を逸らした。

 

「前に話したろう」田中は、乃木の遺書に目を戻した。「わしの故郷の、奇兵隊くずれの爺さまじゃ。あの爺さまの話が、わしの中じゃ、ずっと消えずに残っとる」

「乃木大将も、同じことを言うておる。士族の誇りより、火力と兵站じゃとな」

 

「高杉晋作も、乃木希典も」田中は続けた。「型を破った代わりに、誰にも褒められんかった。褒められたのは、ずっと後になってからじゃ。生きているうちに褒められる型破りなど、そうそうおらん」

 田中は、真崎を見た。

「お前も、それでよいか」

「構いません」真崎は、即座に答えた。

 

 田中は、乃木の遺書を、三枚の隣に置いた。四枚の紙が、そこにあった。もう一度、端から端まで眺めた。指が、乃木の遺書の上で、一拍だけ止まった。

 部屋にいる誰もが、その指の動きを見ていた。柏木でさえ、瞬きを忘れていた。

 

「わしは初めて会うた日に、お前に言うたな」田中は、紙から目を上げずに言った。「何が足りんか、と聞かれて、全部だ、と」

「覚えております」

「揃うたな」田中は、まだ指を上げなかった。「じゃが、揃った紙が、わしを動かしたわけではない」

 

 田中は、乃木の遺書だけを、指先で軽く叩いた。

「紙は、いくらでも都合よう書ける。数字も同じじゃ。わしを動かしたんは、この字を書いた男が、もうこの世におらんという、その一点じゃ」

 

「これは――わしが、預かってもええかの」田中は言った。

 

 真崎の脳裏を、この紙が通ってきた場所が過ぎった。三宅坂の地下書庫、あの夜。上海の魔都を渡り歩いた懐。青島の雨の天幕で、神尾の前に広げた時のこと。幾つもの懐を経て、ようやくここまで来た紙だった。

「返さんとは言うとらん」田中が、その迷いを見透かしたように言った。「返す時が、来るまでじゃ」

 

 真崎は、一拍だけ迷った。それから、答えた。

「――お預けします」

 郷田が、その一言に顔を上げた。

 

 田中は、湯呑みを置き、机に両手をついて、はっきりと言った。

「よし」

 

 その一言だけで、部屋の空気が変わった。

 

「軍務局として、この一件、進める。田中義一の名で、陸軍大臣まで話を通す」

 声に、迷いはなかった。萩の男が、決めた時の声だった。

 

「ただし」田中は続けた。「わしが動かせるのは、ここまでじゃ。内閣と議会は、軍とはまったく別の壁じゃ。そこまでは、請け合えん」

「承知しております」

「生半可な壁ではないぞ」田中は丸い眼鏡の奥で、鋭い光を放った。「あの外相……加藤高明は今、自分の手で支那を属国にする二十一箇条のことで頭がいっぱいじゃ。自分の外交手柄に泥を塗るような陸軍の欧州派兵など、閣議に出した瞬間に握り潰される。加藤が首を縦に振らん限り、この四枚の紙はただの紙切れよ」

 

 郷田は、何も言わなかった。だが席を立つ様子もなかった。三人の幕僚も、沈黙していた。それでよい、と真崎は思った。反対する者が一人もいなくなった話など、この国では通らない。

 

「田中閣下」郷田が、ようやく口を開いた。声には、まだ硬さが残っていた。「私は、まだ賛成したわけではありません。乃木大将の字を見たことと、腹を括ることは別です」

「分かっとる」田中は答えた。「賛成せんまま、見届けてくれればよい。それも、お前の仕事のうちじゃ」

 郷田は、それ以上何も言わなかった。だが、椅子を立とうとはしなかった。

 

 柏木が、小さく息を吐いた。田中が机の上の四枚を、もう一度そっと撫でた。

 

 真崎は、内ポケットに手を当てた。護身符だけが、いつもの位置にあった。長く共にあった重さが、そこには無かった。

 

 真崎は敬礼し、かかとを返しかけた。

「真崎」郷田が言った。真崎を見ず、机の上の紙に目を落としたままだった。「……貴様の絵に、穴が開いた時は、俺が最初に言う。それまで、せいぜい外相の壁の前で足掻いてみろ」

「――お待ちしています」真崎は言った。振り返らなかった。

 

 真崎と柏木が局長室を出ると、部屋には田中と郷田、三人の幕僚だけが残された。

 田中は三人の幕僚に目配せし、彼らを部屋から退出させた。重い扉が閉まり、室内には田中と郷田の二人だけになった。

 

「生意気な男ですな」

 郷田が、ぽつりと言った。先ほどまでの厳しい顔つきが、微かに緩んでいた。

 

「お前があれだけ執拗に苛めたんじゃ。無理もない」田中は卓上の湯呑みを手に取った。「……で、どうじゃ。お前の腹のうちは」

 郷田は、卓の上に残された四枚の紙、その中でも特に古い和紙――乃木希典の遺書に目を落とした。

 

「……日露の戦役から、十年です」郷田は、低い声で言った。「陸軍も、そろそろ変わらねばならんのでしょうな。小松や堀内のためにも」

 田中は、わずかに口の端を上げた。

「じゃが、加藤の壁は厚いぞ。どうする」

「私は何も」郷田は姿勢を正した。「私はただ、真崎の絵の穴を探すだけです。それが、あいつへの一番の援護射撃になりましょう」

 

 扉の向こう、三宅坂の午後の光の中を、真崎が歩いているはずだった。

 対華二十一箇条の要求まで、あと二日。列強の目が支那へ向く前に、数字を英国の卓に載せねばならない。

 真崎にはまだ見えていなかった。目の前にそびえ立つ内閣と加藤高明という絶望的な壁、そして、背後で自分を支えようとしているかつての敵の姿も。

 




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