海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
官報が回ってきたのは、昼を過ぎてからだった。
三階の廊下である。回覧の綴りが机から机へ流れていくのを、
文面は短かった。
緊急ノ需用ニ依リ、財政上必要ノ処分ヲ為ス。憲法第七十条による勅令である。あとは、金額が一行あるだけだった。
行き先は、どこにも書かれていない。
潮崎は、その金額を二度読んだ。
先月、二階の奥で写した紙の数字が、頭の中に残っている。輸送船三十六隻。傭船の期間。弁償の見積り。あの時、桁が想像より一つ大きいと思った。その桁が、今、官報の上に戻ってきていた。
つまり、そういうことだった。
廊下の空気が、変わった。
誰かが「議会を通しとらんぞ」と言った。別の誰かが「通せる議会が無いんだ」と返した。それきり、誰も何も言わなかった。
一年である。
シーメンス事件から、まだ一年しか経っていない。海軍将校が軍艦をかじっている風刺画が新聞に載り、軍服のまま街を歩くのが苦行になった一年だ。予算の話を口に出せば、それだけで卑しいと言われた一年だ。
その一年のあいだ、海軍は頭を下げ続けていた。
頭を下げている者の前を、陸軍の紙だけが走っていった。
八四艦隊の案は、去年の国防会議で決まっている。戦艦八隻、巡洋戦艦四隻。決まってはいるが、金がついていない。計画だけが、金庫の外に置きっぱなしになっている。
潮崎は綴りを次の机へ回した。
自分の指が、少し汚れた気がした。
*
翌朝、机の上に紙が一枚あった。
指図は、いつも紙一枚だった。誰の名も入っていない。それが第三班の流儀である。
――金剛ヲ地中海方面ニ派遣シタル場合、太平洋ニ生ズル戦力ノ空白ヲ算定セヨ。
潮崎は、その一行を三度読んだ。
読むまでもなかった。空白を算定せよ、というのは、空白の大きさで話を止めろということである。出さないための材料を集めろ、と書いてある。
昼前に、廊下で声をかけられた。
「第三班の潮崎中尉か」
軍令部第一班の
「紙は見たな」
「はい」
「三日でやれ」飯尾は言った。「数字だけでいい。意見は要らん」
意見は要らん、と言われて、意見を持たない者はいない。だが潮崎は「はっ」とだけ答えた。
「太平洋には、いま何が浮いとる」飯尾は歩き出しながら聞いた。
「三五・六
「その一隻を、地中海へやるという話が出とる」飯尾は足を止めなかった。「半分になるということだ。アメリカの戦艦は、去年だけで二隻増えとる。……その状態で、貴様なら太平洋を守れるか」
答えは求められていなかった。飯尾は廊下の角を曲がって消えた。
*
数字は、三日もかからなかった。
金剛。大正二年八月十六日竣工。イギリス、ヴィッカース社バロー造船所の建造。横須賀鎮守府籍。去年の八月十八日から第一艦隊。
比叡。大正三年八月四日竣工。横須賀海軍工廠。
問題は、その次の二隻だった。
榛名。川崎造船所、神戸。竣工予定、大正四年四月十九日。
霧島。三菱造船所、長崎。竣工予定、大正四年四月十九日。
潮崎は、その二行を並べて書いてから、手を止めた。
同じ日である。神戸と長崎で、別々の会社が造っている艦が、同じ日に旗を揚げる。
「揃えたんですよ」
書類を出してくれた造船官が、聞かれてもいないのに言った。
「榛名の方が遅れましてね。機関で。……向こうさんは競争しとるつもりだったんですが、追いつかんかった」
「それで、同じ日にしたと」
「片方を先に出すと、遅れた方の顔が立ちません」造船官は言った。「役所というのは、そういうことをします」
潮崎は礼を言って、部屋を出ようとした。扉のところで、背中に声がかかった。
「神戸で、一人、腹を切ったそうです」
潮崎は振り返った。
「機関をやっとった者だと聞きました。噂です。私は名前も知りません」造船官は書類の山に目を戻していた。「本当かどうかは、聞かんでください」
潮崎は、頷いて出た。
廊下で、手帳を開いた。
四月十九日。その日付の下に、数字が並んでいる。二月に金剛を出せば、三五・六糎砲を積んだ艦は、しばらく比叡一隻になる。だが四月十九日には三隻に戻る。
空白は、二か月しかない。
潮崎は、その二か月という数字をしばらく見ていた。
飯尾大佐が欲しがっているのは、空白が大きいという答えだった。出てきたのは、逆の答えである。
運び屋は荷の中身を見ない。それが仕事だ。
今度は、荷を作れと言われた。作ってみたら、頼んだ相手を撃つ弾になっていた。
*
地下の一室に、明かりがついていた。
用があったわけではない。金剛の改装の記録を探して、書庫の並びを一つ間違えただけである。
部屋の壁が、全部、海図で埋まっていた。
旅順口。ウラジオストク。ダーダネルス。北海。海図には、赤い点が打ってある。点は、一つずつ丁寧に打たれていた。数え切れなかった。
卓に、白髪の大佐が一人いた。
「機雷か」男は顔も上げずに言った。「それとも、道を間違えたか」
「間違えました」
「そうだろうな。ここへ用のある者はおらん」
男は
「明治三十七年五月十五日」恩田は言った。「何があったか、言えるか」
潮崎は言えた。海軍兵学校で習うより先に、家で聞かされた日付である。
「初瀬と八島が、機雷で沈みました。一日で、戦艦二隻」
「よく覚えとる」恩田は初めて顔を上げた。「あの日、こちらは一発も撃っておらん。撃たれてもおらん。ただ、通っただけだ」
恩田は海図の一枚を指した。赤い点が、細かく散っている。
「機雷というのは、こちらの都合を聞かん。強い艦から沈める、ということもせん。ただ、そこにある。そこを通った者が沈む」
「掃海の艦は」潮崎は聞いた。「うちに、何隻ありますか」
恩田は、少し黙った。
「無い」
「無い、というのは」
「無い、ということだ」恩田は言った。「掃海というのはな、漁師の仕事ということになっとる。網を曳く要領で綱を曳けばよかろう、と。……戦になれば、漁船を雇う。それで済ませるつもりでおる」
恩田は湯呑みを引き寄せた。中身は、とうに冷めているようだった。
「雇われた漁師が、砲台の下で綱を曳き続けると思うか」
潮崎は答えなかった。答えは、聞かなくても分かった。
「わしは十年、これを言うておる」恩田は言った。「十年、誰も予算をつけん。艦を一隻造る金の、百分の一もかからんのだがな」
潮崎は、部屋を出る前に、海図をもう一度見た。
赤い点は、どれも同じ大きさだった。沈んだ艦の大きさとは、関係がないらしかった。
*
算定書は、その夜に書き上がった。
空白は二か月。四月十九日には三隻に戻る。数字はそれだけである。飯尾大佐は、意見は要らんと言った。
潮崎は、最後の一枚の裏に、もう一項を書いた。
頼まれていない。誰も欲しがっていない。
――付記。輸送船三十六隻ヲ地中海ニ入ラシムル場合、我ニ掃海ノ艦艇ナシ。
書いてから、しばらくその一行を見ていた。
消してもよかった。消せば、明日の朝、何事もなく提出できる。
潮崎は、消さなかった。
*
二階の、大臣室である。
潮崎の仕事は、綴りを副官に渡すことだけだった。渡した。それで終わりだった。
終わりにならなかったのは、あの一項のせいである。誰かが読んだのか、読まずに飛ばしたのか。それが知りたかった。知ってどうなるものでもない。それでも、知りたかった。
潮崎は、扉から二メートルほど離れた壁際に立った。
「おい」
衛兵が寄ってきた。兵曹長である。日に焼けた顔に、白いものが混じっていた。この男はたぶん、歴代の大臣より長く、この扉の前に立っている。
「ここで何をしとる。さっさと行け」
「いやいや」潮崎は言った。「ここで待てと言われましてね」
「誰にだ」
「鈴木次官に」
兵曹長の顎が、一寸だけ上がった。
「そうか。それなら、そこで静かにしとれ」
「はい」
潮崎は、静かにしていた。
静かにしたまま、半足だけ扉の方へ寄った。
嘘をつくときだけ、この男は口が軽くなる。本当のことを言う時は、単語で済ませる。自分でも、いつからそうなったのか覚えていなかった。
「おい。何をしとる、貴様」
「いやあ、まだかと思いましてね」
「そこで立っとれ。動くな」
「はい」
潮崎は動かなかった。
動かないまま、また半足、寄った。
扉の向こうで、声が高くなった。
島村軍令部長の声だった。作戦の言葉である。三十六隻という数字が、一度出た。
もう半足、ばれない。
もう半足、一足、一足。
「――貴様ァ!」
ばれた。
兵曹長の声が廊下に響いた。潮崎は動きを止め、直立した。
その姿勢のまま、耳だけを扉へ向けた。
「陸軍の船を、誰が守る」島村の声が言った。「地中海には、独墺の潜水艦がおる。機雷もある。……そして我々には、掃海の艦艇が一隻もない」
潮崎は、息を止めた。
自分の書いた一行だった。裏に書いた、頼まれてもいない一項だった。それが今、軍令部長の口から出ている。
誰かが、読んだ。
次に、鈴木次官の声がした。こちらは高くならない。それでも通る声だった。
「新聞は、また予算欲しさかと書きます」
その一言のあとで、部屋が静かになった。
やがて、低い声が聞こえた。八代海相の声である。
低すぎて、言葉にならなかった。潮崎の耳が拾えたのは、声の高さと、その長さだけだった。長くはなかった。二言か、三言だった。
そして、沈黙が来た。
潮崎は、その沈黙の長さを測った。測ることしかできなかった。
扉が開いた。
鈴木貫太郎が出てきた。潮崎を見た。
潮崎は敬礼した。何の言い訳も用意していなかった。用意する時間はあったが、用意しなかった。
鈴木は、綴りを開いたまま持っていた。最後の一枚の、裏である。
その紙面の一点を、指で二度叩いた。四月十九日、と書いた欄だった。
「この日付は、確かか」
「――確かです」
鈴木は頷いた。それだけだった。廊下を歩いていった。
潮崎は、その背中を見送ってから、兵曹長の方を見た。
兵曹長は、直立不動のまま動けずにいた。
顔が、赤かった。次官が、この中尉に用があった。この男にとって、たった今、嘘が本当になった。
「……失礼しました、中尉どの」
「いや」
潮崎は、それだけ言って歩き出した。
嘘をついた者だけが、廊下を平気で歩けた。
*
同じ頃、三宅坂。
海軍からの通告は、正式な文書で来た。
巡洋戦艦一隻を旗艦とし、装甲巡洋艦二隻、駆逐艦八隻。ならびに掃海の任にあたる特務艇。地中海方面へ派遣する。輸送船団の護衛を含む。
真崎勇気は、その文面を二度読んだ。
自分は、何もしていない。
三十六隻の数字は自分が出した。閣議も、枢密院も、勅令も、この一年の全部を数えられる。だが海軍の船は、一隻も自分の絵に描かれていなかった。
また、頭越しだった。
「これで、五月が変わった」
田中義一は、湯呑みを引き寄せてそう言った。
真崎は顔を上げた。
「五月、ですか」
「議会じゃ」田中は言った。「陸軍だけが金を取った、という格好なら、五月に叩かれる。海軍も出したとなれば、話が変わる。叩く側が、どっちを叩けばええか分からんようになる」
田中は湯呑みに口をつけて、少し顔をしかめた。冷めていたらしい。
「片道の切符じゃと、若槻閣下は仰った。……往復になったとは言わん。じゃが、切符の紙が、一枚増えた」
部屋の隅で、郷田龍一郎が書類の束を揃えていた。
揃え終えてから、顔を上げずに言った。
「貴様の絵じゃないな、これは」
真崎は答えなかった。
「俺は、貴様の絵に穴が開いたら最初に言うと言った」郷田は続けた。「穴じゃない。……勝手にでかくなっとる」
郷田は書類を抱えて立ち上がった。
「気味が悪いとは思わんのか」
思っている、と真崎は言えなかった。
言えば、その先を聞かれる。聞かれれば、答えなければならない。答えられることは、一つも無かった。
郷田は返事を待たずに部屋を出た。
*
二階の奥である。
潮崎が主計課の前を通ると、扉が半分ほど開いていた。
朱肉の蓋が開いている。
紙は、金剛の燃料と傭船のものだった。判が下りるのを、潮崎は廊下から見た。迷いがなかった。
「見とらんで、入ったらどうや」
久野は顔を上げずに言った。潮崎は入った。
「わしは乗らん」久野は判を置いた。「三十年、一度も乗ったことがない。机の上で船を出して、机の上で沈める。……前にも言うたな」
「聞きました」
久野は、紙の隅を指で揃えた。爪の先が、相変わらず少し欠けていた。
「あの艦にはな、四十万円の泥がついとる」
潮崎は、その数字を知らなかった。
「大正二年に竣工した艦や。契約は、その三年前や」久野は言った。「イギリスのヴィッカースいう会社から、艦政本部長が四十万円受け取っとる。シーメンスや何やと新聞は騒いだが、こっちの方が本体や。うちの局が、いちばん血を流した口や」
「……それは」潮崎は言った。「大臣が、そう仰ったんですか」
「わしは大臣室におらん」
久野は、そこで初めて顔を上げた。
「聞いた話や。泥で買うた艦を、泥の出どころへ返しに行く、とな」
潮崎は、扉の向こうで聞き取れなかった二言か三言のことを考えた。
声の高さと、長さだけは覚えている。長くはなかった。あれなら、収まる。
「なぜ、あなたがそれを」
「聞くなや」久野は言った。「この局には、帳簿に合わん穴が、前から一つ空いとる。前にもそう言うたやろ」
潮崎は、それ以上聞かなかった。
久野は次の紙を函から出して、また朱肉の蓋を開けた。
「君は、乗るんやったな」
「乗ります」
「そうか」久野は判を下ろした。「ほな、この紙の油は、君が焚くわけや」
*
横須賀へは、書類を届けに行った。
使い走りである。この二週間、自分がやったことは全部それだった。
紙を運び、扉の前で嘘をつき、また紙を運んでいる。
工廠の岸壁に、金剛がいた。
艦橋の上に足場が組まれ、帆布が張られている。羅針艦橋の改造と、探照灯の換装。去年の十月から続いている工事だった。春までかかる予定になっていた。
その予定が、書類で消えた。潮崎が運んできた紙が、それである。
親方らしい男が、紙を受け取って読んだ。読み終えて、しばらく黙っていた。
「二月に出す、と」
「そう書いてあります」
「春までの工事ですよ、これは」
「はい」
男は帽子を取って、頭を掻いた。それから、岸壁の方を向いて、大声を出した。
言葉は、潮崎には半分も聞き取れなかった。工廠の言葉である。
足場の上から、返事が返ってきた。一つではなかった。十も二十も返ってきた。
どれも、怒っている声には聞こえなかった。
「行くそうです」男は帽子をかぶり直して言った。「みんな、やる気ですわ」
「――間に合いますか」
「間に合わせます」
男は言い直した。潮崎は、その言い直しを聞いた。
「日露から、もう十年ですからね」男は岸壁を見たまま言った。「青島は、あっという間に終わってしもうた。うちの職工は、ほとんど何もしとらん。……ここの連中は、造った艦が戦をするところを、久しく見とらんのですわ」
男は、艦を見上げた。
「あれはね、中尉どの。向こうで生まれた艦です」
「イギリスで」
「バローいうところです。うちの若いのは、それをずっと気にしとる。比叡はここで造った。榛名も霧島も、日本で造っとる。金剛だけが、よそ様の子です」
風が、帆布を鳴らした。
「生まれたのは向こうでも」男は言った。「出ていくのは、ここからです」
潮崎は、艦を見た。
足場の上で、火花が散っていた。さっきより数が増えている。誰かが、鉄を叩いていた。叩く音は、岸壁の壁に当たって二度聞こえた。
この艦に乗る。
自分の名は、どの紙にも残っていない。算定書にも、借覧簿にも、官報にも。四十万円の泥にも、四月十九日にも、名前は無い。
それでいい、とずっと思ってきた。
今日も、そう思った。ただ、思い方が少しだけ変わっていた。
名が残らないことと、乗らないことは、別だった。
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