海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
鏡の前で、
女中が最初に広げたのは、母が仕立てさせた訪問着だった。淡い藤に、裾へ流れる松の文様。父が三日前から「これを着ろ」と言い続けていたものである。
冴子はそれを肩に当ててみた。鏡の中に、知らない女がいた。
「お嬢様」
「片づけて」
「……旦那様が」
「片づけて」
冴子が選んだのは、去年の暮れに銀座の洋品店から届いた一着だった。丈は
膝が見えると騒がれた、あの時のものではない。だが父の目には、同じに映るだろうと思った。
女中は何も言わなかった。言っても無駄だと知っている顔だった。
階下へ降りると、玄関に
「……またか」
「お父様、おはようございます」
「わしは何と言った」
「藤の訪問着、と」冴子は帽子のつばに指をかけた。「よく覚えておりますわ」
毅一郎は、しばらく娘を見ていた。それから何も言わずに靴を履いた。
*
仲人は父の同期にあたる将官の夫妻で、
窓は南向きで、冬の光が絨毯の上に長く伸びている。卓には白い布がかかり、菓子鉢が一つ置かれていた。
真崎勇気は、先に来ていた。
軍服だった。仕立ての良いものではない。袖口が擦れているのが、冴子の座った位置から見えた。立ち上がって一礼した所作は正確で、余分がなかった。
冴子が腰を下ろすと、香月夫人の視線が一度、冴子の膝の上を通って戻った。
「まあ、お若いこと」夫人は言った。「その、お召し物は」
「パリの型ですの」冴子は微笑んだ。「昨年の秋のもので、もう古うございますけれど」
毅一郎が咳払いをした。
釣書が交わされた。香月が真崎の経歴を読み上げる。
陸軍士官学校。陸軍大学校。陸軍省軍務局。参謀本部付、上海駐在。そして現在、軍務局へ帰任。
「参謀本部付」冴子は繰り返した。「では、師団の方ではないのね。撃つ側でも、命じる側でもなく」
「観戦武官と言いまして――戦況を見て、分析する側です」真崎は言った。「
香月夫人の眉が、わずかに動いた。話が長くなる前に、と思ったのが顔に出ていた。
「あの、真崎さん」夫人は言った。「箱根には、よくいらっしゃるの。この時季の湯は、それは結構だそうで」
「いえ」真崎は言った。「この前、仕事で初めて行きまして」
「まあ、お仕事で。それでは、ゆっくりもなさらなかったでしょう」
「湯には、入りました」真崎は言った。「良い湯でした。また是非、行きたいものです」
冴子は、帽子のつばにかけた指を、そこで止めた。
初めて行った。仕事で。この時季に。
あの晩、暖房機に背中を押しつけられて動けずにいた自分の前に立って、氷嚢を、と憲兵に言った男である。あの後この人は、湯に入ったのか。
冴子は、それを表に出さなかった。真崎も、それ以上は言わなかった。
「まあ、では音楽などは」夫人は続けた。「冴子さんは琴を――」
「少々」冴子は言った。
それきりだったので、夫人は菓子鉢の方へ話を移した。天気の話が出た。今年の冬は乾いている、という話になった。乾いていると火が出て困る、という話になった。
冴子は「そうですわね」と三度言った。
三度目のあとで、口が動いた。
「――先だって、青島の祝勝会に出ておりましたのよ。宮之下の」
「まあ、あの」
「あそこにいらした方は皆さん、どこの砲がどうしたという話ばかりで。わたくし、半分も分かりませんでしたわ」
「そういうものです」真崎が言った。
「でも、わたくしが知りたかったのはそこではありませんの」冴子は言った。「なぜイギリスの艦が、あの場にいたのか、ということですわ」
真崎は、冴子を見た。
「同盟の義務でしょうか。わたくし、違うと思いますの」冴子は続けた。「あれは見張りですわ。日本が
「冴子」
毅一郎の声だった。冴子は聞こえなかったようにした。
「――同盟は、道具です」真崎は言った。「向こうも、そう思っています」
「そう!」冴子の声が、少し高くなった。「そうですわよね。皆さん同盟同盟と仰いますけれど、あれは友情ではないでしょう。山縣閣下がロシアとの協約をあれほど大事になさるのも、結局そういうことですわ。あの方は、友情でロシアと組んでおいでではありません」
冴子は、そこで一度息を継いだ。継いだが、止まらなかった。
「大隈総理は分かっておいでかしら。わたくし、あの方は弁が立ちすぎると思いますの。弁の立つ方は、たいてい勘定ができませんわ」
香月の白い髭が、少し動いた。
笑っていた。声は出していなかったが、肩が一度上下した。それから、白い髭の奥で、うん、うん、と二度頷いた。
たしかになあ、と言いたいのを、仲人という立場が辛うじて押さえている。そういう頷き方だった。
毅一郎は卓の一点を見ていた。
真崎の視線が、卓の向こうへ一度動いた。冴子はそれを見た。見たが、何も思わなかった。
「イギリスは、これから日本に何を出させるおつもりかしら」冴子は言った。「同盟というのは、貸しを作った側が使うものでしょう。あちらは青島で、貸しを一つ作ったつもりでおりますわ」
真崎の視線が、また卓の向こうへ動いた。
夫人が身じろぎをした。菓子鉢が、わずかに鳴った。
部屋の温度が、また一つ下がった。
*
コーヒーが運ばれてきた。
この席は、本来なら茶である。
「奥様からお預かりした豆ですのよ」香月夫人が、取り繕うようにそう言った。「よい豆が手に入ったので、せっかくだから、と」
母だ、と冴子は思った。
あの人は、決めたことの理由を言わない。今日ここに茶ではなくコーヒーが出る理由も、たぶん誰にも言っていない。
冴子はその時になって、部屋が静かになっていることに気づいた。
香月夫人は菓子鉢を見ている。父は窓の外を見ている。喋っていたのは、自分だけだった。
(――いけない……またやってしまった……)
冴子はスプーンを取って、置いた。
「上海には、長くいらしたの」
「一年ほど」
「どんな街ですの」
「湿気ています」真崎は言った。「夏は特に」
それだけのはずだった。
一年である。
口に出してみると、短い。だが真崎にとって、その一年は、他のどの一年よりも厚かった。
泥の教室の、黴と機械油の匂い。
三夜、無音の周波数を回し続けた黒石の背中。井川の下手な冗談。足音を立てずに歩く
秋月と
そして、
真崎の目が、卓の上のどこでもない一点で止まった。ほんの一拍だった。
冴子は、それを見た。
「真崎さん」
「はい」
「いま、どなたか他の女性のことを考えていませんでしたか」
部屋の中で、音が消えた。
香月夫人の匙が、受け皿に触れて小さく鳴った。毅一郎が、初めて娘の方を見た。
「いえ、そんなことは」真崎は言った。「――あまりにも色んなことがあった一年でしたので、つい振り返っておりました」
「あらそう」
冴子は、それだけ言って匙を置いた。追及はしなかった。追及する必要のない顔をしていた。
真崎は、湯呑みでも持っていれば口をつけていたところだった。あいにく、目の前にあるのはコーヒーで、まだ熱かった。
(――まずい)
嘘は、ついていない。一つも。事実だけを並べて、理由の方を伏せた。
自分がこの喋り方をする時、伏せた側の方が大きい。それを一目で見抜く人間が、この国に何人いるか。
目の前に、一人いた。
(この女――勘の鋭さは、ピカイチだな)
高杉晋作という男は、人を集める時に一度も間違えたことがない。
その先生が、幼い娘を一人、手元に置いて仕込んだと聞いていた。
(……見込んだだけのことは、ある)
そして真崎は、卓の中央にある砂糖壺に手を伸ばした。
銀の挟みで、角砂糖を一つ
二つ目が落ちた。
三つ目が落ちた。
冴子は、それを見ていた。
(――コーヒーに角砂糖をたっぷり入れる殿方は嫌、と言っていたわね)
咲夜の声だった。赤坂の座敷で、茶を二つ頼んで待っていたあの女の声だった。
(その方があなたを一生守る存在かもしれませんのよ)
(こだわりや条件で足切りするとは、そういうことですのよ)
冴子はカップに口をつけた。ここちよう苦さだ。
真崎がスプーンを回している。三つ分の砂糖が溶けていく音が、なぜかはっきりと聞こえた。
(――無理だわ)
咲夜の顔が浮かんだ。それでも、無理だった。
*
車が坂を下っていた。
毅一郎は窓の方を向いたまま、しばらく何も言わなかった。冴子も何も言わなかった。
「どうだったか。真崎は」
「好きですわ」
冴子は、窓の外を見たまま言った。
「あそこまで会話してくださった方、初めてですもの」
毅一郎は、返事をしなかった。
父が返事をしないのは、珍しいことだった。
息が煙草臭くて。天保銭を鼻にかけておいでですわ。そういうことを言うと、父は決まって何か言い返した。困ったものだ、とか、贅沢を言うな、とか。
窓の外を、人力車が一台、追い越していった。毅一郎はその車輪を目で追った。追い越して、見えなくなってからも、しばらく同じところを見ていた。
膝の上で、指が一度だけ動いた。
「そうか」
冴子も窓の外を見ていた。
三つ落ちた音が、まだ耳に残っていた。
*
電報が届いたのは、四日後の朝である。
赤坂の神林邸、二階の冴子の部屋。女中が盆に載せて持ってきた紙片には、片仮名が並んでいた。差出局は敦賀になっている。船で渡って、そこから打ち直したのだろう。
ベルギーレース テフ ヒトツ トリハヅシ アヲキヌノ ネ ゴ
女中は「服地のご注文でしょうか」と言った。冴子は「そうよ」と答えた。嘘ではない。そう読めるように作ってある。
打鍵は誰かにやらせたはずだ、と冴子は思った。あの女が自分で叩くところは想像できない。電信局の係員は片仮名を一つずつ拾って送っただけである。途中の局でも、着いた局でも、誰かが目を通したはずだった。誰も何も思わなかった。
思わないように書け、と教えたのは冴子だった。
頼んであったのは、一件だけである。青島の件で、ロシアの誰か。
――ベルギーレース。これは名前の代わりである。二人が初めて向かい合った日、咲夜の衿元にあった帯留めのことだ。横浜の旧居留地で見つけた、機械ではない縫い方の。あの日の卓を挟んだ二人にしか、意味を持たない品である。
――テフ ヒトツ トリハヅシ。蝶が一つ、外れる。人が一人、外される。
――アヲキヌノ。青の布。青島。
――ネ ゴ。値は五。あの女は、値を指で示す。電報では、指が使えない。
冴子は紙片を二度読んで、燐寸を探した。
(青島の件で、ロシア人が一人、呼び戻される)
冴子は、その男の顔を知っていた。
宮之下の富士屋ホテルのロビーだった。暖炉の前で、コートを着たまま煙草を吸っていた外国人。将官の一人が頭を下げながら「これはこれは、ヴォルコフ殿」と言った。流暢な日本語で祝いの言葉を返していた。冴子は聞こえないふりをしてすれ違った。
男は視線を上げなかった。あの時は、それだけだった。
*
「五、というのは」
「値よ。あの人はいつも指で言うの」冴子は椅子に浅く腰かけた。「もう払ったわ」
「四日でどうやって」
「敦賀に払えばいいのよ。あの人、こちらにも手があるの」
「――そうか」
柏木は眼鏡を押し上げた。それから、上着の内側から布の包みを出した。開くと乾板が出てきた。麹町の写真館で現像した、あの一枚である。背の高い男と、外国人。背景の遠くに、ドイツの海軍旗。
「宮之下のロシア人に似ている、とお前は言った」柏木は言った。「俺は確証とまではいえん、と答えた」
「ええ」
「向こうが自分で答えを出してくれた」柏木は乾板を灯りに透かした。「青島の件で切られる館員が一人。この写真に写っている男でなければ、話が合わない」
冴子は乾板を覗き込んだ。
「ずっと持っていたのね」
「使う先を間違えると、ただの紙になる。田中閣下に突きつけようかと、一度は考えた」柏木は包み直した。「やめてよかった。あれは、脅されて動く男じゃなかった」
「じゃあ、何をするの」
「向こうはもう、この男を切ると決めている」柏木は言った。「切り方を、少しだけこちらに寄せる」
*
通されたのは暖炉のない客間である。寒かった。ロシア大使館の参事官は、それについて一言も詫びなかった。詫びる必要のない部屋だ、という意味だった。
髪の薄い、肩の厚い男だった。日本語は使わなかった。柏木が英語で話し、男は英語で返した。
冴子は柏木の斜め後ろに座った。喋る役ではない。
柏木は乾板の写しを卓に置いた。滑らせたのではない。ただ、置いた。
参事官はそれを長く見なかった。三秒ほど視線を落として、また上げた。
「これは何です」
「青島です」
「青島には、大勢がいた」
「ええ」柏木は言った。「その中に、貴館の方がいた」
参事官は指を組んだ。組んだまま、動かなかった。
「あなた方は、これをどうなさるおつもりか」
「どうもしません」
「ほう」
「新聞は、こういうものを好みます」柏木は言った。「ですが、我々は好みません。貴国とは、いま同じ側で戦っております。喜ぶのは独墺だけでしょう」
参事官は、初めて冴子の方を見た。視線は、すぐに戻った。
だがその一秒の間に、部屋の中の何かが動いたのを冴子は感じた。この娘は誰だ、という目ではなかった。この娘がここにいるのはなぜだ、という目でもなかった。
――この娘をここへ寄越したのは誰だ、という目だった。
「話を伺いましょう」参事官は言った。
「貴国の陸軍が、小銃を必要としておられる」柏木は言った。「東部の戦線で、銃が足りていない。そう伺っております」
「公表されていることです」
参事官の指は、組まれたまま動かなかった。動かさないようにしていた。
――足りていない、という言い方は、この日本人の礼儀である。
足りていないのではない。無いのだ。動員した兵の三人に一人にしか銃が渡っていない。残りの二人には、前の者が倒れたらそれを拾え、と教えている。教えている側も、それが冗談でないことを知っている。
日本の小銃が買えるなら、万々歳だった。
三十年式でも三十五年式でも、弾が出るなら何でもいい。喉から手が出るほど欲しい。本国からは、値を叩けと言ってくる。叩ける立場ではないのだ、と何度書き送っても、モスクワの机はそれを読まない。
その船が、遅れるか、遅れないか。
この男は、そう言おうとしている。
「船が出ております」柏木は続けた。「役所を通ったものではありません。ある
参事官の指が、一度だけ組み替えられた。
「船は、遅れることがあります。積み替え、保険、検疫。理由はいくらでもございます」柏木は言った。「逆に、遅れないこともある」
「――数は」
「申し上げません」柏木は言った。「申し上げると、これは取引になります。私は取引に来たのではありません」
沈黙があった。冴子はその長さを数えた。
参事官は、その沈黙のあいだに勘定を終えていた。
書記官が一人、いなくなる。それだけで、船が遅れないかもしれない。安い。安すぎて、逆に落ち着かないほどだった。
どうせ切る男である。切る手間を、向こうが半分持ってくれるという話だ。
ならば、こちらからも一つ置いておくべきだろう。取引ではない、という顔を続けるためには、こちらも取引でないものを渡すしかない。
参事官が、息を吐いた。
「ヴォルコフ書記官は」男は言った。「日本の冬が、合わなかったようです」
「そう伺っております」
「療養が必要でしょう。本国の方が、よろしい」
「ご快癒をお祈りします」
参事官は、そこで初めて椅子の背にもたれた。
「一つ、申し上げておきましょう。取引ではありません。独り言です」
「伺います」
「あの男が呼び戻されるのは、
柏木の眼鏡が、灯りを一度返した。
「お名前は」
「存じません」参事官は言った。「本当に存じません。私が知っているのは、支払いが去年の暮れで止まっていないということだけです」
止まっていない。
冴子は、その一語を頭の中で二度なぞった。
「その方は」柏木は言った。「まだ、この国においでですか」
「私は、独り言を申し上げただけです」
参事官は立ち上がった。話は終わり、という立ち方だった。
柏木も立った。乾板の写しは、卓の上に置いたままだった。
参事官はそれを見て、何も言わなかった。持って帰れとも、置いていけとも言わなかった。
冴子も立った。部屋を出る時、写しはまだ卓の上にあった。
*
外へ出ると、日が落ちかけていた。
「あれでいいの」冴子は言った。「あの写真、置いてきちゃったけど」
「乾板は俺が持っている。あれは焼き増しだ」
「ずるい」
「向こうも分かっている。分かった上で受け取らなかった」
柏木は外套の襟を立てた。
「一人が
「つまらないのね」
「つまらん方がいい」
冴子は少し歩いてから言った。
「あの独り言」
「聞いたな」
「支払いが、止まっていない」冴子は言った。「あの人、なぜあれを言ったのかしら」
「値を払ったつもりなんだろう」柏木は言った。「取引ではない、という形を保つには、向こうも取引でないものを渡すしかない。……律儀な男だ」
柏木は少し歩いてから、付け足した。
「今日のあれは、写真の礼じゃない。船の礼でもない。……こっちが名前を聞かなかった礼だ」
冴子は少し歩いてから聞いた。
「ねえ。あの人、なぜ私を見たのかしら」
「――さあな」
柏木は前を向いたまま歩いた。冴子はその横顔を見た。
柏木の眼鏡が、街灯の光を一度だけ返した。
今回、見合いの場となった偕行社について、少しだけ解説を。
陸軍将校の親睦団体で、明治十年の設立です。東京に会館を構え、集会所、宿泊所、機関誌の発行、さらには縁談の世話まで引き受ける、将校のための総合的な場でした。軍という閉じた社会の中で縁組がまとまるのは自然な流れで、仲人を立てて偕行社の一室で顔を合わせるというのは、当時ごく標準的な段取りです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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