海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
話が戻ってきたのは、見合いから三週間ほど後である。
真崎は、香月家からの使いを受け取った時、人違いかと思った。あの見合いは終わっていた。終わったことは、あの部屋にいた全員が知っていた。
だが口上は、神林中将が改めて会いたいと言っている、というものだった。
赤坂の神林邸に着くと、毅一郎は玄関ではなく、廊下の途中で待っていた。
「よく来た」
「は」
「奥に、娘がおる」
真崎は、その言い方に引っかかった。
「ご一緒に、では」
「わしは行かん」毅一郎は言った。「一時間だ。二人で話せ」
良家の令嬢が、親も仲人もいない部屋で男と二人になる。作法から、はっきりと外れている。
「……よろしいのですか」
「よくはない」毅一郎は言った。「家内には、今日は出てもらった。あれがおったら、この話にはならん」
毅一郎はそこで少し黙った。
「あの二人は、顔を合わせれば言い合いになる。娘が十二の頃からだ。どちらが正しいという話ではない。似ておらんのだ、あの二人は」
毅一郎は廊下を歩き出した。振り返らずに言った。
「一時間だ」
*
冴子は、和装だった。
真崎は一度そこへ目をやって、何も言わなかった。
卓を挟んで座った。女中がコーヒーを二つ置いて、出て行った。
しばらく、どちらも喋らなかった。
「先日は」冴子が言った。「お見苦しいところを」
「いえ」
「父が、頭を抱えておりました」
「でしょうね」
真崎がそう言ったので、冴子は顔を上げた。真崎は真面目な顔をしていた。冗談を言った顔ではなかった。
「あの、真崎さん」
「はい」
「どうして、あの日、二度も香月夫人をご覧になったの」
冴子は、そこで自分の言葉に引っかかった。あの時は、気づかなかったはずだった。三週間かけて、後から思い出したのだ。
「あの部屋には、五人おりました」真崎は言った。「そのうち三人が、困っておられた」
「わたくしは、困らせておりましたのね」
「はい」
「はっきり仰いますのね」
「それが取り柄なので」
冴子は笑った。声を出して笑って、慌てて口元を袖で押さえた。
「でも、あなたは困っておられなかった」
「私は面白かったので」真崎は正直に吐露した。
「――面白い?」
「イギリスの艦の話です」真崎は言った。「見張りだ、と仰った。あれは、多くの方が仰らないことです」
「新聞には書いてありませんもの」
「書いてある通りに思う人が、この国には多すぎます」
冴子は、その一言をしばらく
「真崎さん。あなた、上役にタテ突いてお叱りを受けたと伺いましたけれど」
「受けました」
「後悔していらっしゃる?」
「していません」真崎は言った。「同じことがあれば、また同じことをします」
「ではまた叱られますわ」
「叱られます」
冴子は、また笑った。それから言った。
「わたくし、従うのが下手ですの。子供の頃から、なぜと申しますでしょう。なぜそうしなければいけないのか、と」
「お母上は」
「そう決まっているから、と」冴子は言った。「それだけですの。毎度、それだけ。……では、なぜそう決まっておりますの、と重ねて伺いますでしょう。そうすると、今度は叱られますのよ」
冴子は匙の先を見ていた。
「そうだからそう、と言われて、納得できる人がおりますかしら」
「おりません」真崎は言った。
「そう思われます?」
「私は、それで上海へやられました」
冴子は口を
二人ともしばらく喋らなかった。喋らないことが、気詰まりではなかった。冴子は、そのことに驚いた。
――この人は、わたくしと同じ壊れ方をしている。
どれだけ経ったのか、冴子には分からなかった。コーヒーは、半分ほど減っていた。
「昔、剣道場に通っておられたと聞きました」
真崎が言った。
冴子の指が、匙の上で止まった。
「どこでそれを」
「知人からです」
冴子は、しばらく真崎を見ていた。品定めをする目ではなかった。どこまで行けるかを測る目だった。
「琴を習わされておりましたの」冴子は言った。「母が決めたことですわ。なぜ、と伺っても、そう決まっているから、と」
「先ほどの」
「ええ。同じですの」冴子は言った。「それが、あまりにつまらなくて。……同じ敷地に、剣道場が併設されておりましたのよ。板の間から音が聞こえてまいりますの。琴の音の合間に、竹刀の音が」
冴子の声の調子が、少し変わった。作った高さが、一段落ちていた。
「一度、覗きに行きましたの。それきりですわ。剣技の方が、遥かに楽しくて」
「琴は」
「基礎を終えてからは……あまり触っておりません」冴子は言った。「あそこの師範の方が――」
真崎は、そこで一度だけ、部屋の外へ目をやった。
襖。廊下。庭に面した障子。人の気配は、どこにも無い。
冴子は、その動きを見ていた。
「大丈夫よ」
――ですわ、が消えていた。
「ここなら、誰にも聞こえない」
真崎は、卓の上へ視線を戻した。それから、低い声で言った。
「おもしろきこともなき世を、おもしろく」
冴子の手から、匙が落ちた。受け皿の上で、高い音がした。
冴子はそれを拾わなかった。
「――……あなた」冴子は言った。「知ってるの」
「高杉先生は、ご存命です」真崎は言った。「上海で、ご一緒しておりました」
冴子は、息を吸って、吐いた。長い息だった。
それから、初めて背もたれに体を預けた。良家の令嬢が、決してしない座り方だった。
「――柏木さんから、色々聞いてはいたけれど」冴子は言った。「やっぱり、そうだったのね」
冴子は天井の方を見た。
「先生は生きているはずだと、ずっと思ってた。誰に聞いても、死んだ人の話しかしないの。……わたくし、そうだからそう、というのが本当に嫌いなの」
「コードネーム、ジョージ」
冴子の目が、天井から降りてきた。
その名は使うな、と柏木本人に言われている。イギリス側に漏れ始めているから、奇兵隊の仕事でも呼ぶな、と。
真崎は、承知の上で使った。禁じられた名を出す以外に、自分がどこに立っているかを、この人へ示す方法がなかった。
「あなたも、影の奇兵隊の一員として、柏木と一緒に動いているのでしょう」
冴子は、答えなかった。
答えなかったが、卓の下で、
「……お父様は、ご存じないわ」冴子は言った。「これだけは、言っておきます」
「私も、そう思っていました」
二人は、しばらく黙っていた。
今度の沈黙は、さっきのものとは違った。同じ側に立った者どうしの、値踏みの終わった沈黙だった。
真崎がコーヒーポットに手を伸ばした。
冴子は砂糖壺を見た。銀の壺だった。蓋が半分開いていて、角砂糖が四つ、五つ、覗いている。
冴子はそれに手を掛けて、卓の上を、真崎の方へ滑らせた。
布の上を滑る音がした。
真崎は砂糖壺を見た。それから冴子を見た。
真崎は、角砂糖を三つ取って入れた。
*
柏木が紙を持ってきたのは、それから十日ほど後である。
軍務局の廊下だった。柏木は封筒も出さず、折り畳んだ紙を一枚、真崎の手に押しつけた。
「見るなら、ここで見ろ。持って帰るな」
進級上申書の写しだった。陸軍大尉真崎勇気、右陸軍少佐ニ進級セシメラレ
功績の欄に、地中海方面派遣に関する事務の一行があった。その上に、もう一行あった。
――総攻撃ニ先立チ、艦砲及ヒ攻城砲ノ集中ニ依ル
真崎は、その一行を二度読んだ。
あの日、参謀本部の中佐は何と言ったか。公式記録は、歩兵の突撃による占領と書き換えろ。参謀本部の決定事項だ。
書き換えろと言われた行が、いま、別の紙の上で、元の形をしている。
「誰が」
「知らん」柏木は言った。「俺が調べた範囲では、誰も書いていない。書いた者がいないのに、書いてある」
真崎は紙をもう一度見た。名前は、真崎勇気と書いてあった。
「青島では手柄を立てたらしいが、あれは神尾閣下の手柄でしょう」柏木は言った。「そう書いた紙を、俺も読まされた。途中から、読まんことにした」
「なぜです」
「それは事実だが、さすがに腹が立ったからだ」
真崎は紙を柏木に返した。柏木はそれを内隠しに収めて、歩き出した。
*
その夜、真崎は下宿の机に向かっていた。
卓の上に、神林家からの正式な書面がある。婚儀の話は進めることになった。仲人は香月家がそのまま務める。日取りは、出航の前になるだろう。
政略である。中将の家が大尉に娘をやる話ではない。少佐になった、という一行が挟まって、初めて格好がついた縁組である。誰もがそう読むだろうし、真崎もそう読んでいた。
だが、あの一時間のことを考えると、少し違うものが残る。
――この人となら、並んで立てるかもしれない。
その時、窓の外で風が鳴った。真崎は顔を上げて、何も見なかった。
上海の湿気。診療所の白い寝台。「次は負けない」と言った時の、あの目。
真崎は書面を畳んで、懐に入れた。
しばらく、机の木目を見ていた。
*
同じ夜、赤坂。
冴子は寝台に入る前に、引き出しを開けた。
電報は、もう無い。ロシア人が一人、療養に帰る。仕事は終わった、ということになっている。
――支払いは、去年の暮れで止まっていない。
終わっていない仕事が、一つ増えただけだった。冴子は引き出しを閉めた。
閉めてから、咲夜に手紙を書こうかと思った。何と書くのか。「あなたの言った通りにしたわ」だろうか。だが、それは正確ではない。あの日、自分は角砂糖三つであの人を切った。切っておいて、忘れなかった。
それに、あの女には書けないことの方が多い。
先生は生きている。
この世に、同じことを知っていて、同じ顔で黙っていられる人間が、もう一人いる。
冴子は、自分がそれを何と呼べばいいのか分からなかった。安堵とは違った。もっと落ち着かないものだった。
冴子は便箋を出さなかった。
窓の外で、犬が一度だけ吠えた。
それきり、夜は静かだった。
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