海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第十一話 琥珀の宴、黒き黄金

大正三年(一九一四年)七月、上旬の夜。

 

 上海・外灘(バンド)の象徴ともいえる南京路との交差点に、その赤煉瓦の城壁はそびえ立っていた。パレス・ホテル――中国名を「匯中飯店(ホワイチョン・ファンディエン)」という。

 

 真崎勇気(まさきゆうき)大尉が案内されたのは、最上階の特別個室であった。アール・ヌーヴォーのシャンデリアが、黄金色の光を落としている。開け放たれた窓からは黄浦江の湿った風が流れ込み、列強各国の軍艦が放つ鋭い汽笛の音を運んできていた。

 

「――待たせたな、真崎。三宅坂の(ほこり)は落ちたか」

 

 部屋の奥、夜景を背にして立っていたのは、帝国海軍少佐・秋月慧(あきつきけい)であった。

 

 同郷の幼馴染であり、海軍省軍務局の「冷徹な知将」と謳われる男である。三ヶ月前に上海駐在武官を拝命し、列強の情報が渦巻くこの魔都で、軍服よりも背広の方が遥かに多くを語ると学んでいた。今夜も一寸の乱れもない純白のディナージャケットを纏い、その姿は、国家という巨大な機械を数式で動かそうとする海軍エリートの、傲慢なまでの自負を体現している。

 

 真崎は、私費を投じて誂えたリネンの背広の襟を正し、短く応じた。

 

「久しぶりだな、ケイ――ホコリどころか、軍籍まで危ういところだ。お前の手配か、この部屋は」

 

「上海の『空気』を教えるには、ここが一番いい。……座れ。まずは、この街の毒を食らってもらう」

 

 円卓に運ばれてきた最初の一皿は、氷の敷き詰められた銀器に乗った「酔蟹(ズイシェ)」であった。

 

 それは、ただの紹興酒漬けではない。半年以上もの間、地下の氷室で凍結寸前の温度に保たれ、熟成を重ねた雌の上海蟹である。

 

 真崎が殻を割ると、中から現れたのは、宝石のような輝きを放つ琥珀色のゼリー状の身と、血のように赤く、雲丹(うに)よりも濃厚な輝きを放つ内子(うちこ)であった。

 

 真崎は躊躇せず、その身を唇で吸い込んだ。

 

 刹那、舌の上に暴力的なまでの冷気が走り、次の瞬間、熟成された老酒の芳醇な香りと、蟹の脂が持つ狂気じみた甘みが爆発した。内子の粘りつくようなコクが舌に絡みつき、喉を通るたびに神経が痺れるような悦楽が突き抜ける。

 

 合わせるのは、三十年物の紹興老酒「状元紅(ジョウゲンホン)」。

 

 重厚な土の香りとキャラメルのような焦げた甘みが、蟹の生々しい磯の香りを完璧に包み込み、昇華させる。真崎は思わず絶句し、ただその圧倒的な「旨味の暴力」に翻弄された。

 

 続いて運ばれてきたのは、このホテルのシェフが挑んだ、東西融合の極致とも言える一品であった。

 

 白磁の深皿の底で、厚さ二センチはあろうかという「フカヒレの姿煮」が、黄金色のスープの海に鎮座している。

 

 特筆すべきは、そのスープであった。

 

 中国料理の真髄である金華ハムの「上湯(シャンタン)」と、フランス料理の伝統技法で数日かけて抽出された清澄な「コンソメ」が、一滴の濁りもなく融合している。

 

 真崎がレンゲですくい、口に含む。

 

 まず訪れるのは、上湯の持つ突き抜けるような塩気と力強さ。しかし、その直後にコンソメの持つ牛肉の深い旨味と香味野菜の甘みが、絹のような滑らかさで追いかけてくる。肉厚なフカヒレの繊維一本一本にこの「究極の液体」が染み込み、歯を立てるたびにゼラチン質の官能的な弾力が脳を揺らす。

 

 秋月は、一八九〇年代のボルドー産赤ワインをグラスに注ぎ、真崎に差し出した。

 

「飲んでみろ。これが、旧い大陸の『マリアージュ』だ」

 

 二十年以上の歳月を経て円熟したワインの、枯れた薔薇や湿った土、そして黒い果実が複雑に絡み合った香りが、スープの動物的な旨味とぶつかり合う。ワインのタンニンがフカヒレの膠質(こうしつ)を洗い流し、代わりに複雑な余韻だけを舌の上に残していく。

 

 味覚の、完全なる調和。真崎は、この贅沢の裏にある、列強が数百年かけて築き上げてきた文化の「重み」を突きつけられた気がした。

 

 真崎は、蟹の脚の関節を一つずつ折り、その奥に詰まった身を徹底的に、泥臭いまでの執念でしゃぶり尽くしていた。

 対する秋月は、銀のナイフとフォークを使い、一滴のスープも衣服に飛ばすことなく、まるで精密機械を解体するかのような手つきで料理を処理していた。

 

 秋月は、最後に出された肉料理の皿を見つめた。

 

 皿の底には、煮詰められた濃厚なソースが広がり、その表面に虹色の鈍い光沢を放つ「油膜」が浮いている。

 

 秋月は、銀のフォークの先で、その虹色の膜を静かに指し示した。

 

「……真崎。お前は歩兵操典という名の『古臭い経典』を破り捨てようと躍起になっているな。欧州の泥を見て、近代的な火力戦を学ぶ。それは陸軍にとっては正しい。だが……」

 

 秋月の声が、低く冷たい響きを帯びた。

 

「俺たち海軍が欲しいのは、そんな泥じゃない。このソースの表面で、虹色に光っているものを見ろ」

 

 秋月は、窓の外の黄浦江に浮かぶ、石炭の黒煙を吐く自国の軍艦へ視線を向けた。

 

「これからの戦争を決めるのは、英雄の決断でも、大和魂でもない。この虹色の液体――『石油』だ。これ一滴のために、国を滅ぼすか、あるいは国を成すか。その時代がすぐそこまで来ている。お前たち陸軍が大陸の泥を這いずり回っている間に、世界は海を隔てたエネルギーの争奪戦へと突入するぞ」

 

(石油……)

 

 秋月の突きつけたその言葉の冷徹な響きに、真崎は背広の内ポケットへと無意識に手を伸ばしかけた。

 

 そこには、三宅坂の地下深くから持ち出した、あの「乃木希典の隠し遺書」が眠っている。

 

 精神論の偶像とされた軍神が、死の間際に吐き捨てた、白兵主義への呪いと火力戦への回帰を綴った「血と泥の記録」。これを秋月に見せれば、海軍の描くグランドデザインに、陸軍という巨大な楔を打ち込むことができるはずだ。

 

 だが。

 

 指先が古びた紙の感触に触れる寸前、真崎はその動きを止めた。

 

 アール・ヌーヴォーのシャンデリアが放つ柔らかな光。そして、究極の技巧が尽くされたフカヒレの姿煮。

 

 この卓上に、あの呪われた『泥と血の記録』を引き摺り出すのは、あまりに無粋である。

 

 それは、近代戦の真理を重んじ、合理的な知性を誇る真崎という男の、最後の美学でもあった。

 

 真崎は静かに手を下ろし、代わりに秋月の目を真っ直ぐに見据えて言った。

 

「石油か。……なるほど、海軍の見る地平は、相変わらず果てしなく広いな」

 

 真崎の声に、かつてないほどの重みと、ある種の凶暴な熱が混じり始めた。

 

「だがな、秋月。俺も手ぶらでここに来たわけじゃない。……帝国陸軍という巨大な硬直した組織を、その根底から壊滅させる猛毒を、俺は東京から持ち出してきた」

 

 秋月の眉が、微かにピクリと動いた。

 

 冷徹な合理主義者である秋月をして、一瞬、背筋に冷たいものが走るほどの、確かな殺気。

 

「猛毒……だと?」

 

「そうだ。今はまだ見せるわけにはいかんがな。いずれ時が来れば、お前が欲しがっている『石油』の利権さえも、この猛毒の波に飲み込まれることになるだろう」

 

 真崎は、秋月の好奇心と警戒心をその一言で鋭く煽り立てると、不敵な笑みを浮かべて再びグラスを手に取った。

 

 皿の底に広がる「石油」という海軍の未来を見つめる秋月。

 

 対して、懐に「隠し遺書」という名の過去の清算を抱き、陸軍という巨大な化け物の首を獲ろうとする真崎。

 

 同郷の幼馴染であり、同じ「近代化」という幻影を追い求める二人であったが、その足元にある地平は、この夜、決定的に分けられた。

 

 一人は虹色の油膜の先に世界の覇権を見、一人は血に染まった紙切れの先に祖国の新生を見ている。

 

 真崎は沈黙の中で、残りのワインを一気に飲み干した。

 

 喉を通る熟成した果実の甘みが、今はなぜか、焦げた石油のような、鉄の匂いがする血の味がした。

 

 魔都の夜は更けていく。

 

 外灘(バンド)の石造りの街並みに、黄浦江の湿った風が吹き抜け、歴史の巨大な歯車が、互いに異なる方向へと軋みを上げて回り始めていた。




◆あとがき◆
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