海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第十一話 琥珀の宴、黒き黄金

 上海に来て初めて、真崎勇気は自分が貧しいと思った。

 

 案内された部屋は、外灘(バンド)のパレス・ホテル最上階の特別個室であった。中国名を「匯中飯店(ホワイチョン・ファンディエン)」という。アール・ヌーヴォーのシャンデリアが黄金色の光を落とし、開け放たれた窓からは黄浦江の湿った風が流れ込んでいる。列強各国の軍艦が放つ鋭い汽笛が、夜気の中を遠く流れていた。

 

 (これが、海軍の金の使い方か)

 

「――待たせたな、真崎。三宅坂の(ほこり)は落ちたか」

 

 部屋の奥、夜景を背にして立っていたのは、帝国海軍少佐・秋月慧(あきつきけい)であった。

 

 同郷の幼馴染であり、海軍省軍務局の「冷徹な知将」と謳われる男である。三ヶ月前に上海駐在武官を拝命し、列強の情報が渦巻くこの魔都で、軍服よりも背広の方が遥かに多くを語ると学んでいた。今夜も一寸の乱れもない純白のディナージャケットを纏い、その姿は、国家という巨大な機械を数式で動かそうとする海軍エリートの、傲慢なまでの自負を体現している。

 

 真崎は、私費を投じて誂えたリネンの背広の襟を正し、短く応じた。

 

「久しぶりだな、ケイ――ホコリどころか、軍籍まで危ういところだ。お前の手配か、この部屋は」

 

「上海の『空気』を教えるには、ここが一番いい。……座れ。まずは、この街の毒を食らってもらう」

 

 円卓に運ばれてきた最初の一皿は、氷の敷き詰められた銀器に乗った「酔蟹(ズイシェ)」であった。

 

 半年以上、地下の氷室で凍結寸前の温度に保たれた雌の上海蟹である。真崎が殻を割ると、琥珀色のゼリー状の身と、雲丹(うに)よりも濃厚な内子(うちこ)が現れた。唇で吸い込んだ瞬間、熟成された老酒の香りと蟹の脂の甘みが舌の上で爆発する。合わせるのは三十年物の紹興老酒「状元紅(ジョウゲンホン)」――その重厚な焦げた甘みが、蟹の磯の香りを完璧に包み込んだ。

 

 続いて運ばれてきたのは、黄金色のスープをたたえた白磁の深皿であった。「フカヒレの姿煮」――中国料理の金華ハムと、フランス料理のコンソメを合わせた東西融合の一品である。真崎がレンゲですくい、口に含む。二つの文明が一滴の濁りもなく溶け合い、肉厚なフカヒレの繊維一本一本に染み込んでいた。秋月は一八九〇年代のボルドー産赤ワインをグラスに注ぎ、真崎に差し出した。

 

「飲んでみろ。これが、旧い大陸の『マリアージュ』だ」

 

 真崎は、蟹の脚の関節を一つずつ折り、その奥に詰まった身を徹底的に、泥臭いまでの執念でしゃぶり尽くしていた。

 対する秋月は、銀のナイフとフォークを使い、一滴のスープも衣服に飛ばすことなく、まるで精密機械を解体するかのような手つきで料理を処理していた。

 

 秋月は、最後に出された肉料理の皿を見つめた。

 

 皿の底には、煮詰められた濃厚なソースが広がり、その表面に虹色の鈍い光沢を放つ「油膜」が浮いている。

 

 秋月の視線が、窓の外へ流れた。黄浦江を行き交う列強の軍艦が、石炭の黒煙を重く吐き出している。あの煤煙そのものが、この時代の海軍の限界だと秋月は言いたいのだろう。だが新世代の燃料ならば――。

 

 秋月は、銀のフォークの先で、皿の虹色の膜を静かに指し示した。

 

「……真崎。お前は歩兵操典という名の『古臭い経典』を破り捨てようと躍起になっているな。その声は、海軍の一部にも届いているぞ。欧州の泥を見て、近代的な火力戦を学ぶ。それは陸軍にとっては正しい。だが……」

 

 秋月の声が、低く冷たい響きを帯びた。

 

「俺たち海軍が欲しいのは、そんな泥じゃない。このソースの表面で、虹色に光っているものを見ろ」

 

「これからの戦争を決めるのは、英雄の決断でも、大和魂でもない。この虹色の液体――『石油(アブラ)』だ。これ一滴のために、国を滅ぼすか、あるいは国を成すか。その時代がすぐそこまで来ている。お前たち陸軍が大陸の泥を這いずり回っている間に、世界は海を隔てたエネルギーの争奪戦へと突入するぞ」

 

(石油……)

 

 秋月の言葉の冷徹な響きに、真崎は背広の内ポケットへと無意識に手を伸ばしかけた。

 

 そこには、三宅坂の地下深くから持ち出した、あの「乃木希典の隠し遺書」が眠っている。精神論の偶像とされた軍神が、死の間際に吐き捨てた、白兵主義への呪いと火力戦への回帰を綴った「血と泥の記録」。これを秋月に見せれば、海軍の描くグランドデザインに、陸軍という巨大な楔を打ち込むことができるはずだ。

 

 だが。

 

 指先が古びた紙の感触に触れる寸前、真崎はその動きを止めた。

 

 (俺だって、お前と同じ地平を見ている――)

 

 そう叫びたかった。石油の覇権争いを語る秋月の前で、自分もまた未来を見据えていると証明したかった。乃木閣下の遺書を叩きつければ、それができる。陸軍という巨大な獣を内側から壊す毒を、俺はすでに手の中に持っていると。

 

 だが手は、止まっていた。この卓上に、あの呪われた『泥と血の記録』を引き摺り出すのは、あまりに無粋である。それが、真崎という男の最後の美学だった。

 

 真崎は静かに手を下ろし、代わりに秋月の目を真っ直ぐに見据えて言った。

 

「石油か。……なるほど、海軍の見る地平は、相変わらず果てしなく広いな」

 

 真崎の声に、かつてないほどの重みと、ある種の凶暴な熱が混じり始めた。

 

「だがな、秋月。俺も手ぶらでここに来たわけじゃない。……帝国陸軍という巨大な硬直した組織を、その根底から壊滅させる猛毒を、俺は東京から持ち出してきた」

 

 秋月の眉が、微かにピクリと動いた。冷徹な合理主義者である秋月をして、一瞬、背筋に冷たいものが走るほどの、確かな殺気。

 

「猛毒……だと?」

 

「そうだ。今はまだ見せるわけにはいかんがな。いずれ時が来れば、お前が欲しがっている『石油』の利権さえも、この猛毒の波に飲み込まれることになるだろう」

 

 真崎は不敵な笑みを浮かべ、再びグラスを手に取った。

 

 残りのワインを一気に飲み干す。喉を通る熟成した果実の甘みが、今はなぜか、焦げた石油のような、鉄の匂いがする血の味がした。

 




◆あとがき◆
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