海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
真崎は、愛玲の手紙を畳んで護身符の隣に入れた。
同じ懐に入れて、悪い理屈はなかった。
東小磯の家は、一年前と何も変わっていなかった。庭に黒松が三本。根元に、羽根が散っている。使用人らしき老爺が、朝の獲物を拾って勝手口へ消えていくところだった。
「船が出ます」
「聞いた」村田は銃架に銃を置いた。「三十六隻じゃそうだな」
「はい」
「少ない」
真崎は、返す言葉を持たなかった。
少ない、と言われて、初めてそうかもしれないと思った。
「少ないが、無いよりはいい」村田は縁側に腰を下ろした。「無いところから三十六まで持っていったのは、貴様か」
「――多くの方の手が」
「そういう答え方をするようになったか」
村田は笑わなかった。褒めたのか、
「一つ、ご報告がございます」真崎は言った。「乃木大将の書き付けを、手放しました」
村田の指が、縁側の板を一度叩いた。
「誰に」
「山縣閣下です」
庭で、風が松を鳴らした。
村田は、しばらく相模湾の方を見ていた。この老人が黙る時は長い、ということを、真崎は一年前に覚えていた。
「山縣か」村田は言った。「……焼かれはせん」
「なぜ、そう言えます」
「あれは、捨てられん男じゃ」村田は言った。「捨てられんから、棚の奥にしまう。三年でも、三十年でもしまっておく。……そういう男が、この国の上には多すぎる」
村田は、そこで初めて真崎の顔を見た。
「取り返そうと思うな。取り返しても、貴様には棚が無い」
「――は」
「棚を持て、と言うておる」
真崎は、その言葉の意味を、その場では受け取れなかった。受け取れないまま、記憶した。
村田は立ち上がり、家の中へ入っていった。戻ってきた時、手ぶらだった。
「あの拳銃は」
「持っております」
「持っていけ」村田は言った。「返しはせん。あれは貴様が買うたものじゃ。……わしは、人の物を貰う
おいとましようとすると、村田は縁側から声をかけた。
「撃ったばかりのがある」
「は」
「
「――汽車が」
「一羽くらい、すぐ焼ける」
真崎は、椋鳥を一羽食べてから、汽車に乗った。
一年前もそうだった。この老人は、乃木大将の遺書を前にしても、朝飯の心配をする。
*
広島の
地中海へ発つまでに、あと数日あった。
港の裏手の坂を登る。長屋のような家が肩を寄せて並んでいる一角に、真崎の家はあった。屋根が低く、間口が狭い。工廠に人を吐き出すためだけに建った町である。
冴子は、その道を、着物の裾を持ち上げもせずに登ってきた。持ち上げれば楽だということに気づいていないのか、気づいていて持ち上げないのか、真崎には判断がつかなかった。
母のヨシは、土間に立っていた。
「大きゅうなったのう」
「二十年前から、この背です」
「そうかいの」
母は、それから冴子を見た。長く見た。
冴子は三つ指をついて、名乗り、頭を下げた。所作は完璧だった。自宅でだらんとしている女と、同じ人間の動きとは思えなかった。
「ようおいでんさった」母は言った。「なんもありませんが」
その日は、それだけだった。
*
兄の
呉海軍工廠に勤めている。手が、洗っても落ちない色をしていた。
弟が陸軍で少佐になり、中将の娘を連れてきたことについて、兄は何も言わなかった。飯を食い、酒を一合だけ飲み、明日も朝が早い、と言って寝た。
この家には、継ぐものが何も無かった。
子は六人いる。上から順に奉公へ出て、学校へ行ったのは真崎だけだった。母は昔から
兄はそのまま工廠に残り、母と暮らしている。下に妹のスエが一人いて、嫁に行った。
残った方の手が、船を造っている。出た方の弟が、その船を海の向こうへ出す紙を書いた。
真崎は、そのことを兄に言わなかった。言っても、たぶん「そうか」で終わる。
*
仏壇は、居間の隅にあった。
位牌は一つだけである。明治三十七年八月。父は、旅順で死んだ。
後方の守備の召集だった。四十を過ぎていた。宇品から発つ朝、真崎は岸壁で見送っている。父は最後に一度だけ振り返った。あの目を、真崎はまだ覚えている。
第一回の総攻撃である。永久堡塁と機関銃の前へ、歩兵が走らされた。銃剣を付けて、走った。走らせた者がいて、走った者が死んだ。父はその中にいた。
報せは、士官学校の教室に届いた。
真崎は二十歳で、内地にいた。安全な机の前で、名を読み上げられるのを聞いた。
その三月後に、二〇三高地が始まる。
郷田中佐が小松と堀内を失ったのは、そちらである。同じ囲みの、違う場所だった。
真崎は線香を上げて、しばらく座っていた。
一年前、三宅坂の地下で、旅順の弾薬消費の帳簿を繰った。数字が合わなかった。合わない数字の裏から、乃木大将の字が出てきた。
あの夜、最初に思ったのは、父のことだった。
この一年、自分が三宅坂で言い続けてきたことは、全部この位牌の前で言えることばかりだった。機関銃の前で走るな。弾を惜しむな。兵の命を数えろ。
言い続けて、上官に楯突いて、上海へやられて、帰ってきて、船を三十六隻出させた。
それでも、その三十六隻には兵が乗る。
乗せるのは、自分である。
真崎は、位牌に向かって何も報告しなかった。
報告できることが、まだ一つも無かった。
*
冴子は、台所に立った。
母が止めたが、立った。
三度目に、母が横から手を出した。
「こうやるんじゃ」
細い焚きつけを下に、太いのを後から載せる。真ん中に、指が一本通るほどの隙間を空けて組む。手が、説明より先に動いていた。
「風が通らんと、火は起きん。詰めすぎるんじゃ、みんな」
「……はい」
「もう一遍、やってみんさい」
四度目に、火が起きた。
起きた時、冴子は本気で嬉しそうな顔をした。それから、その顔を引っ込めた。引っ込めるのが、少し遅かった。
母は、それを見て何も言わなかった。黙って、隣で大根を切り始めた。
夜、真崎が井戸端で顔を洗っていると、母が出てきた。
「あんた」
「はい」
「あの人を、一人にしんさんな」
真崎は、手を止めた。
「留守のあいだは、東京におります。神林の家に」
「そういうことを言うとるんじゃないわ」
母は、それだけ言って引っ込んだ。
真崎は、井戸の水をもう一度すくった。冷たかった。
この家の水は、昔から硬い。満州の井戸の水が硬い、と書いてきた人がいた。同じ硬さだろうかと、真崎は関係のないことを考えた。
翌朝、冴子は東京へ帰ることになっていた。
広島の駅である。上りの汽車と、宇品行きの支線は、同じ駅から出て、反対の方へ行く。
冴子は、包みを差し出した。
真崎が受け取ると、思ったより軽かった。
「開けても」
「どうぞ」
封筒の束だった。
厚みは、指二本ほどある。数えなかったが、五十は下らないだろうと思った。
どれも、表に宛名が書いてある。同じ字で、同じ丁寧さで、東京市赤坂区――
中は、空だった。全部、空だった。
真崎は、その束をしばらく見ていた。
自分の姓を、この人の字で見るのは初めてだった。それが五十枚あった。
「――これは」
「宛名を書くのは、面倒ですのよ」冴子は言った。「船の上では、なおのことでしょう」
それだけだった。書け、とは言わなかった。待っている、とも言わなかった。
ただ、宛名を五十枚書いて、持ってきた。
真崎は、束を内ポケットに入れた。護身符と、満州から来た二枚の隣だった。
入れてしまってから、その並びのことを一瞬考えた。考えて、やめた。
「私からも、一つ」
真崎は、外套の内から折った紙を出した。宿で、昨夜のうちに書いたものである。
原本は陸軍省の棚の奥にあり、写しは小田原の棚の奥にある。どちらも、もう自分の手には戻らない。だから、覚えている分だけを書いた。書けたのは、六行だった。
冴子は、その紙を広げた。ホームの朝の光の下だった。
――
冴子の指が、その一行の上で止まった。
「……これ」
「乃木大将の字です」真崎は言った。「私が覚えている分だけですが」
冴子は顔を上げなかった。
「持っていて構いませんの」
「私が持っていると、また誰かに渡すことになります」
冴子は、紙を畳んだ。畳んで、袂に入れた。
入れてから、袂の上を一度、手で押さえた。
この人が袂に手を入れるところを、真崎は何度か見ていた。いつも、何も持っていない手が出てきた。
今朝は、出てこなかった。
「では」冴子は言った。「行ってらっしゃいませ」
「はい」
「――四年ですって?」
「辞令には、そう書いてあります」真崎は言った。「ですが、田中局長は別のことを言われました。一年で目処をつける。延びても、もう一年だと」
冴子は、顔を上げた。
「紙には、なりませんの」
「なりません」真崎は言った。「紙にすると、四年が四年のまま動かんようになるそうです」
冴子は、少し黙った。
「では、口約束ですわね」
「はい」真崎は言った。「ですが、あの人は、できないことを言わない人です」
真崎は、そこで一つ足した。足すべきだと、遅れて気づいたからである。
「一年で、帰ります」
「……それでも、紙は四年ですわ」冴子は言った。「四年になったら、わたくし三十一ですのよ。いま二十七。……恐ろしい」
「そうですか」
冴子が、真崎の腕を軽く叩いた。強くはなかった。手の甲が一度当たっただけである。
「そうですか、とお答えになる方は初めてですわ」
「――すまん。すまん」
二度言ってから、真崎は、自分が敬語を忘れていることに気づいた。
冴子は、気づいたことに気づいたようだった。何も言わなかった。
上りの汽笛が鳴った。
冴子は帽子のつばに指をかけて、頭を下げた。
それから、振り返らずに改札の方へ歩いていった。人混みに紛れるまで、一度も振り返らなかった。
真崎は、その方向をしばらく見ていた。
反対側の番線に、宇品行きが入ってきていた。
宇品の港は、三月の下旬でもまだ冷えた。
陸軍運輸部の桟橋に、船が並んでいた。
真崎は、埠頭の端から数えた。数えなくても分かっていたが、数えた。
三十六隻。
三宅坂の地下で帳簿を繰りながら弾いた数字が、いま、目の前で浮いている。鉄で、木で、煙を吐いて、浮いている。
紙は、こうなるのか、と真崎は思った。
一年前、あの地下書庫には十年間誰も来なかった。貸出記録の欄は、ずっと空白だった。そこから一枚剥がした紙が、いま、瀬戸内の海に三十六隻分の影を落としている。
乗船は、朝から続いていた。
兵が縦列で舷梯を上っていく。背嚢。小銃。飯盒。工兵の中隊は、井戸を掘る道具を積んでいた。
真崎は積荷の控えを受け取り、埠頭の風の中で目を通した。
控えは、合っていた。
合っていたが、末尾に一行あった。
――軍需品、五十箱。
品名がない。積地は上海。荷主の欄は、商社の名が一つ書いてあるだけだった。
「これは」
真崎は運輸部の下士官に聞いた。下士官は控えを覗き込み、それから首を傾げた。
「上から回ってきた分であります」
「上、というのは」
「自分には、そこまでは」
真崎は、その一行をもう一度見た。
五十箱。行き先は書いてある。地中海である。中身が書いていない。
この一年、行き先の書かれていない金額を見た。行き先の書かれていない木箱の話も聞いた。今度は、行き先だけがあって、中身がない。
真崎は控えを返した。返す時、指が少し止まった。
止めても、船は出る。今から止めれば、止めたのは自分だということになる。
その計算が終わるまでに、三つ数えなかった。
小田原の庭で、同じ速さで黙ることを決めた夜のことを、真崎は思い出した。
あの時と違ったのは、背筋が寒くならなかったことだった。慣れたのだ、と思った。
出航は、正午だった。
汽笛が鳴った。一隻が鳴らすと、次が鳴った。三十六隻が順に鳴らし終えるまで、しばらくかかった。
真崎は甲板に立っていた。
懐に手を当てる。護身符。満州から来た二枚。空の封筒が五十枚。
一月前、この懐には何も無かった。乃木の字を手放して、空になった懐が頼りなかったことを、真崎は覚えている。
いまは、重い。中身のあるものは、一つも入っていないのに、重い。
岸が離れた。
宇品の桟橋に、見送りの人影が並んでいる。誰が誰だか、もう分からない距離だった。田中は来なかった。来られる立場ではない。三月二十五日に総選挙があり、五月に議会が開く。あの人は、東京でそれを一人で持ちこたえることになっている。
承諾が取れなければ、内閣は倒れる。倒れれば、この船の兵の、次の飯と次の弾を払う根拠が消える。
片道の切符である。若槻礼次郎は、そう言った。脅しではない、とも言った。
真崎は、岸に背を向けた。
瀬戸内を抜けるまで、島がいくつも過ぎていった。
夕方、船倉の点検に降りた。
積荷は、控えの通りに並んでいた。番号順に、隙間なく。
一番奥に、木箱が積んであった。
五十。数えるまでもなかった。
どれも、同じ大きさだった。焼印は無い。品名も無い。上海の湿気を吸った木の匂いだけが、そこにあった。
真崎は、その前にしばらく立っていた。
手を触れれば、分かるかもしれなかった。重さで、中身の見当はつく。
触れなかった。
――本番は、船が海に出た後よ。
誰の声だったのか、真崎は知らない。
知らないまま、船倉の梯子を上がった。
甲板に出ると、日が沈むところだった。
陸は、もう細い線になっていた。
三十六隻が、順に一列へ入っていく。前の船の航跡を、次の船が踏んでいく。踏まれた跡は、すぐに消えた。
真崎は西を見た。
この先に、地中海がある。四十日。それから、一年。あるいは四年。
懐の中で、五十枚の空の封筒が、風に押されて紙の音を立てた。
書くことは、まだ何も無かった。
――第一部 軍神の遺書 完
第一部「軍神の遺書」、これにて完結です。
110話までお読みいただき、ありがとうございます。
もし1話から通しでお読みくださった方がいらっしゃるなら……本当に、本当にありがとうございます。
日本陸海軍は、いよいよ欧州大戦の現地へ向かうことになります。
ここから先は、史実と大きく変わってきます。
第一部はおおよそ謀略七、戦闘三の配分だったかと思いますが、第二部では戦闘の比重が増していく見込みです。
この物語は四部構成で考えており、昭和十六年(1941年)十二月八日を目指して進み続けます。
作中の現在は大正四年の春ですから、あと二十六年。
そこへたどり着くまでの長い道のりに、どうかお付き合いいただけますと幸いです。
※第二部は、少し時間をおきまして1~2週間後くらいから投稿開始します。
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