海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
第百十一話 漁師の仕事
錨鎖の音で目が覚めた。
甲板に出ると、湾はもう船で埋まっていた。レムノス島、ムドロス湾。戦艦から名の分からない小舟まで、旗も国籍もばらばらのものが、朝の光の中で肩を寄せ合っている。英国の艦が多い。フランスの艦も混じっていた。
巡洋戦艦金剛は、その中へ静かに入っていった。横須賀を出て、ひと月が経っている。
陸軍の船は、月末に広島の宇品を出ると聞いていた。着くのは、早くて五月だという。
湾の縁に、日本の艦が固まっていた。出雲と磐手。駆逐艦が八隻。そして、その後ろに小さいのが並んでいる。
横須賀を出た時と同じ顔ぶれである。老朽の水雷艇。徴用した船。漁船を改めたものが二隻。甲板には、木枠に巻いた鋼索と、
泥縄だ、と横須賀の工員が言っていた。実際、縄だった。
潮崎は舷側に手を置いた。三月の鉄は冷たい。塗り重ねた塗料の下に、
この艦は、この海のずっと西の端で生まれている。
――泥で買うた艦を、泥の出どころへ返しに行く。
霞が関の二階で、判を押しながら久野が言った言葉だった。四十万円の泥。潮崎はその金額を、この鋲の一つ一つに割り振ってみようとして、やめた。割り切れる数ではなかった。
*
その日の午後、恩田大佐に呼ばれた。
十年、掃海だけを見てきた男である。海峡が機雷で埋まっていることは、初めから分かっていた。分かっていたから、海軍はこの変わり者に正式な役をつけて連れてきた。十年、誰も予算をつけなかった男に、である。
艇の狭い士官室である。卓の上に、海図が広げてあった。
エーゲ海の北東の隅から、細長い水路が一本、内陸へ食い込んでいる。ダーダネルス海峡。ヨーロッパとアジアが、そこだけ手を伸ばせば届く距離まで近づいている場所だった。
「頭から言うてみろ」恩田は言った。
「は」
「ここへ何をしに来たか、だ。順に言え。抜けたら止める」
潮崎は海図に指を置いた。
「まず、この海峡です。長さは六十キロほど。いちばん狭いところは、一キロ半もありません。両岸は、どちらも敵の陸です」
「抜けた先は」
「マルマラ海。その奥に、ボスポラス海峡があります。入口にコンスタンティノープル。抜ければ、黒海です」
「なぜ黒海が要る」
「ロシアです」潮崎は言った。「去年の十一月、オスマン帝国がドイツ側について参戦しました。この一本が閉まった時点で、ロシアは西の同盟国と物のやり取りができなくなっています。穀物は出せない、弾は入らない。そこへコーカサスで攻勢を受けて、ロシアがイギリスとフランスに泣きついた」
「それで」
「イギリスの海軍大臣が、艦隊だけで海峡を抜ける案を出しました。陸兵は使わない。艦隊がコンスタンティノープルの沖に姿を見せれば、オスマンは戦を降りる、と」
「本気か、それは」
「本気だそうです」潮崎は言った。「海軍の中にも、強い反対があったと聞いています。それでも、通りました」
恩田は、鼻から息を出した。
「で、我々は」
「日本は、イギリスの要請で来ました」潮崎は言った。「スエズを抜けて、ひと月かけて」
「呼ばれたから来た、ということだな」
「そうなります」
「良いことか、悪いことか」
「……自分には、分かりません」潮崎は言った。「ただ、もう浮かんでおります」
恩田は、海図の両岸を鉛筆の尻で叩いた。
「向こうは、素人か」
「いいえ」潮崎は言った。「艦隊が来ることは、とうに知られています。去年のうちから海峡に機雷を敷いて、両岸には砲台を据えている。ドイツの技術者も入っているそうです」
「よし」恩田は鉛筆を置いた。「そこまで言えれば十分だ。あとは一つだけ、覚えておけ」
「は」
「砲台を潰すには、艦を海峡に入れねばならん」恩田は言った。「艦を入れるには、機雷を除かねばならん。機雷を除く船を、その砲台が撃つ」
潮崎は、海図を見た。
三つの文が、輪になって閉じていた。どこから始めても、始めた場所へ戻ってくる。
「……どこから解くのですか」
「解けん」恩田は言った。「だから十年、誰も予算をつけんかったのだ」
「この国の海軍ではな、掃海は漁師の仕事ということになっとる」恩田は、海図を畳んだ。
*
英国の掃海の隊が湾に入ってきたのは、二日後の午後である。
二十隻近くいた。ほとんどが同じ形をしていた。ずんぐりした船体に、太い煙突が一本。舷側は錆が浮き、船名は消えかけている。
「トロール船です」隣で艦橋要員が言った。「北海の漁船を、そのまま徴用したものだと」
潮崎は双眼鏡を下ろした。甲板に人が出ている。軍帽ではなかった。毛糸の帽子と、ゴム引きの上っ張り。網を扱う手つきで索を扱っていた。
恩田大佐は、その一隻に横付けさせた内火艇の上で、長いこと黙って見上げていた。
「奴らは漁師だ」やがて恩田は言った。「海軍軍人じゃない」
潮崎は、その一言の出どころを知っていた。海図の部屋で、この男は自分の国の海軍について同じことを言っている。掃海は漁師の仕事ということになっとる、と。
同じ言葉が、今度は他所の国へ向いていた。
英国側の指揮官は、ウィットビー中佐という男だった。
打ち合わせは司令部の一室で行われた。潮崎が間に立った。英語は読む方が得意で、喋る方は自信がなかったが、恩田は短く区切って喋る男だったので、どうにかなった。
「率直に申し上げる」ウィットビーは地図を押さえながら言った。「うちの索には、四日前から一本も掛かっていません」
「潮か」
「潮です」
ウィットビーは、地図の海峡を指でなぞった。奥の黒海の側から、手前のエーゲ海の側へ。
「流れは、いつもこちらへ向かって出てきます。我々は、それに逆らって入っていく」
「速さは」
「船だけなら八ノット出ます。ですが索を曳くと、半分に落ちる。ちょうど、潮と同じくらいの速さです」
「進まんということか」
「岸から見れば、止まって見えるでしょうな」ウィットビーは言った。「そこへ、オスマンの砲が降ってくる」
恩田は地図を自分の方へ引き寄せた。赤い鉛筆で、海峡を横切る向きに何本も線が引いてある。どれも、途中で切れていた。
「潮に乗って、下りながら曳けばどうだ」
「試しました」ウィットビーは即座に言った。「本国の、ヘイスティングス少将の指図です。……乗ると、今度は速すぎて舵が利かない。速力を落とせば、索が水面に浮いてしまう。二晩やって、切れた綱は一本もありませんでした」
恩田は、しばらく黙っていた。
「索を沈めておるのは、船の速さだ」やがて恩田は言った。「落とせば、浮く。道理だな」
「……そのとおりです」
「その少将は、船に乗ったのか」
「いいえ」ウィットビーは言った。
部屋が、少し静かになった。
「なら、手は一つしかない」恩田は言った。「潮に逆らって進む。掃海とは、そういう仕事だ」
「的でいる時間が、延びるばかりです」
「時間は短くできん。減らせるのは、的の数だけだ」
恩田は、地図の上に指を置いた。海峡の入口である。
「一度に入れるのは、四隻。日本の艇が二隻、イギリスのトロール船が二隻だ。残りは、入口で待たせる」
「たった四隻で」
「四隻でいい。多く出せば、多く沈む」
「それから、先に入るのは日本の艇だ」恩田は言った。「イギリスのトロール船は、その後ろにつけ」
「なぜです」
「うちの艇は年季こそ入っとるが、軍艦だ。機関の力がトロール船とは違う。潮に逆らって曳くなら、こちらが向いている」
恩田は、そこで一度言葉を切った。
「それに、前に軍艦がおれば、後ろは索を離さん。離せば、こちらから見える」
ウィットビーの目が、一度だけ動いた。侮辱を探したのだろう、と潮崎は思った。探して、見つからなかった顔をしていた。
「……あなたは、うちの漁師を信用していない」
「信用しておる」恩田は言った。「信用しておるから、見えるところに置く」
今回、艦隊が集結したムドロス湾について、少しだけ解説を。
エーゲ海のレムノス島にある湾です。ダーダネルス海峡の入口まで、およそ八十キロ。島の南側に大きく深く切れ込んだ入り江は、エーゲ海でも屈指の泊地とされ、戦艦から小舟まで一度に錨を下ろせる広さがありました。海峡を攻めるなら、ここを措いて他にない、という場所です。
ただし、レムノス島はギリシャ領でした。そしてこの時のギリシャは、中立国です。ヴェニゼロス首相が一九一五年二月に連合軍の使用を認めましたが、国王コンスタンティノスは反対しており、国内は真っ二つに割れていました。つまり連合軍の大艦隊は、中立国の湾を借りて、戦争の支度をしていたことになります。
潮崎が甲板から見た「旗も国籍もばらばらのものが、朝の光の中で肩を寄せ合っている」湾は、そういう場所でした。