海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「三分と十秒」
尾根の上の男が、懐中時計の蓋を閉じながら言った。
三月六日の午後である。ガバ・テペの岬の裏の尾根から見下ろすと、沖に灰色の巨艦が一隻、横腹を見せて浮かんでいた。英国の新しい戦艦、クイーン・エリザベス。その砲口が火を噴くたびに、頭の上を、貨物列車が通り過ぎるような音が渡っていく。弾は半島の背を越えて、反対側の海峡の砲台へ落ちていた。
「撃ってから、次を撃つまでの間だ」男は言った。「毎回、同じだけ
オスマン帝国陸軍、第十九師団長、ムスタファ・ケマル中佐。三十をいくつか出たばかりの、細い男である。軍帽の庇の下で、目だけが妙に明るい色をしていて、その目はさっきから一度も沖の艦から離れていない。
馬で付いてきたのは、第五十七連隊の中隊長で、四十になるセリム大尉だった。
「間がある、と申しますと」
「あの艦から、海峡沿いの我が軍の砲台は見えん。山の向こうだ」師団長は言った。「見えんものを撃って、当たったかどうかを誰かに教えてもらうまで、次が撃てんのだ」
「……では、いずれ」
「いずれ、見に来る。艦で見えんものは、人の足で見に来るしかない」
師団長は、眼下の海岸を顎で示した。岬の北に、名前も無いような狭い浜が細く延びている。
「上がるなら、ここだな。それと、半島の先か」
「軍の上のほうでは、半島の付け根と、アジア側を案じておられると聞きますが」
「上は上で、正しいかもしれん」師団長は言った。「だから私は、上とは争わん。師団を、どちらへもすぐ走れる場所に置いておくだけだ」
沖の巨艦が、また火を噴いた。師団長は、もう一度蓋を開けた時計に目を落としている。
頭の上を、重い音が渡っていった。
連合国の兵がこの浜に上がってくるのは、七週間後のことになる。
*
打ち合わせのあった晩から、掃海が始まった。
潮崎は、通訳として恩田の艇に乗り込んでいた。灯りを落として海峡の口へ入ると、両岸が急に近くなる。艦橋の隅には、恩田が横須賀から持ってきた湯呑みが一つ、据えてあった。
「両舷前進いっぱい」
「両舷前進いっぱーい!」
ガクン、と索が鳴ったのは、三十分ほど経ってからだった。
「掛かりました! ――切れました!」
波の間に、黒い球が一つ浮いてくる。人の背丈ほどもある鉄の玉から、角がいくつも突き出ている。
「小銃、用意」
パン、パン、パン。三発とも外れた。
「当たっとらんぞッ!」
「申し訳ありません!」
パン、パン、パン、パン――
――ドオオオオン!!
海が持ち上がり、白い柱が夜空へ突き上がって、そのまま艇の上へ崩れてきた。水兵が帽子を振り、誰かが笑った。
「……喜ぶな」恩田だけが、笑っていなかった。
岸の暗がりに、白い光が一つ点いた。二つ、三つと点いて、光の棒が海面を走り、艇の船体を捉えた。
ドオン!!
「おいおい、オスマンの砲台が撃ってきやがった!」
「当たり前だ」恩田は言った。「いま、こっちが光ったのだ」
次の一発が、艇のすぐ脇に水柱を立てた。降ってきた海水が艦橋へまともに入り、潮崎は襟から背中まで一息で濡れた。三月の海である。冷たいというより、痛い。
「冷えますなぁ」隣で艇長が言った。顔から水を垂らしたまま、平坦な声だった。
「例のいかだを出せい」
艇の後ろに、細い綱で曳いているものがある。横須賀で積んできた木の枠に浮きを付け、真ん中に
「灯り、開け。――全艇、火を消せ」
ピッ、ピッ。
艇長の笛が短く二回鳴り、索を曳く四隻が、そろって闇に沈んだ。残ったのは、いかだの灯り一つである。
探照灯の白い棒が、海面を舐めるように滑って、止まった。
ズドン。ズドン。――ドオオオン!
光の輪の中で、木の枠が火の粉になって散った。煙の外の暗がりから、トロール船が一隻、何事もなかった顔をして出てくる。
恩田は、水柱をまともにかぶった湯呑みを取り上げて、一口飲んだ。
「……塩が利いとるなぁ」
「大佐。あのいかだは、いくつ積んでこられたのですか」
「三十だ。足りんかもしれん」恩田は言った。「横須賀で、もっと作れと言うたのだがな。木がもったいない、と言われた」
三番目のいかだを出したとき、探照灯が、それを素通りした。
白い光は灯りの上を一度撫でただけで後ろへ滑り、後続のトロール船をまともに照らし出した。
「さすがに、気づかれました」
「三度も同じ手を見せればな」恩田は言った。「向こうも馬鹿ではない」
照らされたトロール船の船尾で、男が一人、斧に手をかけた。
索を曳く船は、どれも船尾に斧を括りつけている。沈みかけたとき、索を一撃で断ち切って身軽になるためのもので、徴用の契約書には、索を切って離れてよいと書いてあるはずだった。彼らは漁師であって、兵ではない。
「面舵いっぱい」恩田が言った。「あの船と、岸とのあいだへ入れ」
艇が回り込み、トロール船の、岸の砲台がある側へ肩を並べる。撃たれれば、外側にいるこちらが先に当たる。
シュルルル――ドォン。
水柱が二隻のすぐ外側に立ち、両方の甲板を同時に濡らした。斧に手をかけたまま、男が動きを止める。それから斧を舷側へ立てかけて、持ち場へ戻っていった。
「何と言うかと思いました」潮崎は言った。
「言葉は要らん」恩田は前を向いたまま言った。
同じことが、次の晩も、その次の晩も繰り返された。恩田の艇は毎晩先頭に立ち、トロール船は一度も逃げず、いかだは毎晩何枚か沈んだ。
三晩目の朝、ウィットビーが湯気の立つ英国の茶を二つ持って、艦橋へ上がってきた。
「私が将軍なら、貴官に勲章を出したい」
「わしらのような掃除屋に、勲章は回ってこん」恩田は茶を受け取った。「潮崎。縁の下の力持ち、というのは、英語で何と言う」
潮崎が苦労して説明すると、ウィットビーはしばらく考えてから言った。
「Unsung Hero――歌われない英雄、です」
その朝、潮崎は海図を覗き込んだ。
処理の済んだ海域に、赤鉛筆で斜線が引かれている。線はどれも、海峡を横切る向きに引かれていた。
海図の隅、アジア側の岸に、小さな入り江がひとつ描かれている。エレア……ケウイ、と読むのだろうか。海峡の本流から外れた、浅い湾である。そこには、何も引かれていなかった。
「斜線の無いところには入るな、と艦隊に言うてもらいたいところだがな」恩田が言った。
「あいにく、主力艦の突破は、もう日取りが決まっております」潮崎は言った。「間に合いません……」
*
三月十七日の夜、恩田は艇の艦橋で、海図を膝の上に広げていた。
「
十年ひとりで言い続けてきたことが、ようやく形になったはずなのに、この男は海図から目を離さない。
「潮崎」恩田は言った。「十年、機雷ばかり見とるとな。無い、という報告が、いちばん信用できん」
赤い斜線は、確かに海域のほとんどを埋めている。だが斜線は、線を引いた場所にしか引かれていない。
引いていない場所は、白いままだった。