海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第百十二話 いかだ

「三分と十秒」

 

 尾根の上の男が、懐中時計の蓋を閉じながら言った。

 三月六日の午後である。ガバ・テペの岬の裏の尾根から見下ろすと、沖に灰色の巨艦が一隻、横腹を見せて浮かんでいた。英国の新しい戦艦、クイーン・エリザベス。その砲口が火を噴くたびに、頭の上を、貨物列車が通り過ぎるような音が渡っていく。弾は半島の背を越えて、反対側の海峡の砲台へ落ちていた。

「撃ってから、次を撃つまでの間だ」男は言った。「毎回、同じだけ間(ま)があるな」

 

 オスマン帝国陸軍、第十九師団長、ムスタファ・ケマル中佐。三十をいくつか出たばかりの、細い男である。軍帽の庇の下で、目だけが妙に明るい色をしていて、その目はさっきから一度も沖の艦から離れていない。

 馬で付いてきたのは、第五十七連隊の中隊長で、四十になるセリム大尉だった。

「間がある、と申しますと」

「あの艦から、海峡沿いの我が軍の砲台は見えん。山の向こうだ」師団長は言った。「見えんものを撃って、当たったかどうかを誰かに教えてもらうまで、次が撃てんのだ」

「……では、いずれ」

「いずれ、見に来る。艦で見えんものは、人の足で見に来るしかない」

 

 師団長は、眼下の海岸を顎で示した。岬の北に、名前も無いような狭い浜が細く延びている。

「上がるなら、ここだな。それと、半島の先か」

「軍の上のほうでは、半島の付け根と、アジア側を案じておられると聞きますが」

「上は上で、正しいかもしれん」師団長は言った。「だから私は、上とは争わん。師団を、どちらへもすぐ走れる場所に置いておくだけだ」

 

 沖の巨艦が、また火を噴いた。師団長は、もう一度蓋を開けた時計に目を落としている。

 頭の上を、重い音が渡っていった。

 

 連合国の兵がこの浜に上がってくるのは、七週間後のことになる。

 

   *

 

 打ち合わせのあった晩から、掃海が始まった。

 潮崎は、通訳として恩田の艇に乗り込んでいた。灯りを落として海峡の口へ入ると、両岸が急に近くなる。艦橋の隅には、恩田が横須賀から持ってきた湯呑みが一つ、据えてあった。

 

「両舷前進いっぱい」

「両舷前進いっぱーい!」

 

 ガクン、と索が鳴ったのは、三十分ほど経ってからだった。

「掛かりました! ――切れました!」

 波の間に、黒い球が一つ浮いてくる。人の背丈ほどもある鉄の玉から、角がいくつも突き出ている。

「小銃、用意」

 パン、パン、パン。三発とも外れた。

「当たっとらんぞッ!」

「申し訳ありません!」

 パン、パン、パン、パン――

 ――ドオオオオン!!

 海が持ち上がり、白い柱が夜空へ突き上がって、そのまま艇の上へ崩れてきた。水兵が帽子を振り、誰かが笑った。

「……喜ぶな」恩田だけが、笑っていなかった。

 

 岸の暗がりに、白い光が一つ点いた。二つ、三つと点いて、光の棒が海面を走り、艇の船体を捉えた。

 ドオン!!

「おいおい、オスマンの砲台が撃ってきやがった!」

「当たり前だ」恩田は言った。「いま、こっちが光ったのだ」

 次の一発が、艇のすぐ脇に水柱を立てた。降ってきた海水が艦橋へまともに入り、潮崎は襟から背中まで一息で濡れた。三月の海である。冷たいというより、痛い。

「冷えますなぁ」隣で艇長が言った。顔から水を垂らしたまま、平坦な声だった。

 

「例のいかだを出せい」

 艇の後ろに、細い綱で曳いているものがある。横須賀で積んできた木の枠に浮きを付け、真ん中に遮蔽(しゃへい)をかけた灯りを一つ据えただけのものだった。枠が四十メートル、六十メートルと遠ざかっていく。

「灯り、開け。――全艇、火を消せ」

 ピッ、ピッ。

 艇長の笛が短く二回鳴り、索を曳く四隻が、そろって闇に沈んだ。残ったのは、いかだの灯り一つである。

 探照灯の白い棒が、海面を舐めるように滑って、止まった。

 ズドン。ズドン。――ドオオオン!

 光の輪の中で、木の枠が火の粉になって散った。煙の外の暗がりから、トロール船が一隻、何事もなかった顔をして出てくる。

 

 恩田は、水柱をまともにかぶった湯呑みを取り上げて、一口飲んだ。

「……塩が利いとるなぁ」

「大佐。あのいかだは、いくつ積んでこられたのですか」

「三十だ。足りんかもしれん」恩田は言った。「横須賀で、もっと作れと言うたのだがな。木がもったいない、と言われた」

 

 三番目のいかだを出したとき、探照灯が、それを素通りした。

 白い光は灯りの上を一度撫でただけで後ろへ滑り、後続のトロール船をまともに照らし出した。

「さすがに、気づかれました」

「三度も同じ手を見せればな」恩田は言った。「向こうも馬鹿ではない」

 

 照らされたトロール船の船尾で、男が一人、斧に手をかけた。

 索を曳く船は、どれも船尾に斧を括りつけている。沈みかけたとき、索を一撃で断ち切って身軽になるためのもので、徴用の契約書には、索を切って離れてよいと書いてあるはずだった。彼らは漁師であって、兵ではない。

「面舵いっぱい」恩田が言った。「あの船と、岸とのあいだへ入れ」

 艇が回り込み、トロール船の、岸の砲台がある側へ肩を並べる。撃たれれば、外側にいるこちらが先に当たる。

 シュルルル――ドォン。

 水柱が二隻のすぐ外側に立ち、両方の甲板を同時に濡らした。斧に手をかけたまま、男が動きを止める。それから斧を舷側へ立てかけて、持ち場へ戻っていった。

「何と言うかと思いました」潮崎は言った。

「言葉は要らん」恩田は前を向いたまま言った。

 

 同じことが、次の晩も、その次の晩も繰り返された。恩田の艇は毎晩先頭に立ち、トロール船は一度も逃げず、いかだは毎晩何枚か沈んだ。

 三晩目の朝、ウィットビーが湯気の立つ英国の茶を二つ持って、艦橋へ上がってきた。

「私が将軍なら、貴官に勲章を出したい」

「わしらのような掃除屋に、勲章は回ってこん」恩田は茶を受け取った。「潮崎。縁の下の力持ち、というのは、英語で何と言う」

 潮崎が苦労して説明すると、ウィットビーはしばらく考えてから言った。

「Unsung Hero――歌われない英雄、です」

 

 その朝、潮崎は海図を覗き込んだ。

 処理の済んだ海域に、赤鉛筆で斜線が引かれている。線はどれも、海峡を横切る向きに引かれていた。

 海図の隅、アジア側の岸に、小さな入り江がひとつ描かれている。エレア……ケウイ、と読むのだろうか。海峡の本流から外れた、浅い湾である。そこには、何も引かれていなかった。

「斜線の無いところには入るな、と艦隊に言うてもらいたいところだがな」恩田が言った。

「あいにく、主力艦の突破は、もう日取りが決まっております」潮崎は言った。「間に合いません……」

 

   *

 

 三月十七日の夜、恩田は艇の艦橋で、海図を膝の上に広げていた。

「粗方(あらかた)、片付いた。明日、艦隊が入る」

 十年ひとりで言い続けてきたことが、ようやく形になったはずなのに、この男は海図から目を離さない。

「潮崎」恩田は言った。「十年、機雷ばかり見とるとな。無い、という報告が、いちばん信用できん」

 

 赤い斜線は、確かに海域のほとんどを埋めている。だが斜線は、線を引いた場所にしか引かれていない。

 引いていない場所は、白いままだった。

 

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