海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「二十六」
「さっきも数えたろう、アントン」
「数えるたびに二十六だと、安心するんだ」
機雷敷設艇ヌスレットの艇尾で、ドイツの兵曹が二人、濡れた機雷の列を挟んでしゃがんでいた。アントンと、相棒のフランツ。二人ともドイツのキール軍港から、同盟国オスマンの海軍の手伝いに送られてきた機雷屋である。
三月八日の朝。海峡は、霧雨で真っ白だった。
「いい霧だ」フランツが言った。「神様がオスマン側についたらしい」
「神様はどっちにもつかん。霧は霧だ」
「で、どこに撒くんだ。俺はまだ聞いてない」
「エレアケウイの湾だ」
「あの、発音しづらい名前の湾か? 海峡じゃなくてか。イギリスの戦艦は、海峡の本流を上ってくるんだろう。どうしてこんな横っちょの湾に?」
「上ってくるときはな。帰り道が違う」アントンは、濡れた手袋で海図の端を叩いた。「この半月、連合国の戦艦は――イギリスとフランスの連中は、海峡に入って砲台を撃つと、帰りには決まってこの湾で回れ右をする。毎日、同じ場所でだ」
「律儀な連中だな」
「丘の裏の
「掃海の船は、来ないのか」
「来るのは本流だけだ。奥の機雷原へ行く道しか掃かん。回るためだけに入る湾なんぞ、誰の道筋にも乗っとらん」
七時十分、艦橋でオスマンの艇長が手を上げた。
「始めるぞ」
アントンは止め金を外し、一つ目を水へ押し出した。ドボン、と鈍い音がして殻が沈み、錨の鎖がそのあとを追っていく。
「深さは」
「水面から四メートル半。戦艦の腹が、ちょうどそこを通る」
「間隔は」
「百メートル。岸と平行に、まっすぐ並べる」
「平行? 海峡を横切る向きに並べたほうが、引っかかりやすいんじゃないのか」
「普通はな」アントンは次の止め金に指を掛けた。「だが回る艦は、岸に沿って舵を切る。その道筋の上に、縦に並べておくんだ。一つ避けても、次がある」
十二個目の機雷を落としたところで、フランツが海峡の入口のほうを振り返った。
「……おい。いま、霧の向こうに何か見えなかったか」
「見えたのなら、向こうからも見えてる。見えてないなら、それでいい」
「連合国の連中にばれてたら、どうするんだ」
「どうもせん。どっちにしても、残りの機雷を落とす」
二十六個目が沈んだのは、七時半を回る前だった。
チャナク・カレの沖に錨を下ろしたあと、二人は士官室の戸口から、オスマンの先任大尉が海図に鉛筆を走らせるのを見ていた。湾の中へ、岸に沿って一本の線。その上に、小さな点が二十六。
「イギリスの海図には」フランツが言った。「ここは、何て書いてあるんだろうな」
「何も」アントンは言った。「白いままのはずだ。ここに機雷があるとは、夢にも思わんだろうさ」
*
海図に、赤い斜線を引く仕事は、もう昨夜で終わっていた。
士官次室では、いつも通りの朝食が出ていた。パンと、薄いコーヒー。今日が特別な日だという顔で給仕する者は、誰もいなかった。
「おい、これから陸の砲台とやり合うのだ。今日くらい濃くせんか」向かいの士官が言った。
「豆が、同じでありますので」
給仕はそれだけ言って下がり、士官は黙ってそれを飲んだ。
「総員、配置につけ」
「総員配置ィ! 配置につけェ!」
甲板の物音が一斉に変わった。弾薬を運ぶ靴音、砲塔の旋回音、誰かが短く数を数える声。恩田の艇の静けさとは、まるで違う。
艦長の
会津若松の生まれだという。「海の薩摩」と言われる帝国海軍では、珍しい出である。よく怒鳴るが、そのかわり、怒鳴った相手の家の事情まで覚えている、という噂を、潮崎は乗る前から聞いていた。
そして、艦を動かすのが上手い。二万七千トンを小舟のように扱う、と機関科の下士官が言っていたが、潮崎はそれを世辞の類だと思っていた。
昨夜、艇を降りる潮崎に、恩田は言った。
「行け。明日は――」
それだけで、口を閉じた。潮崎は続きを待たず、敬礼して桟橋へ渡った。十年ひとりで機雷を見てきた男は、今日という日を、他人の艦の甲板から見送ることになる。
*
連合国の艦隊は縦列を組んで、海峡の入口へ進んだ。
「先頭はクイーン・エリザベスだ」航海長が海図を指で叩いた。「去年できたばかりの、イギリスの新品だぞ。十五インチ砲を八門積んでいる」
「十五インチ」潮崎は言った。「うちの三十六
「上だ。当分、あれより上は出てこん」航海長は言った。「その次が我々だ。後ろにアガメムノン、ロード・ネルソン、インフレキシブル。この列は、遠くから砲台を叩く」
「フランスの艦は」
「二列目だ。距離が詰まったら、彼らが前へ出て、近くから撃つ」
「砲台は、潰せますか」
「潰せるかどうかは、今日で分かる」航海長は言った。「潰せなければ、また明日だ」
「明日も駄目でしたら」
「明後日だ」
海峡に近づくにつれ、両岸の丘が霞んで見えてきた。そこに砲台があることを、潮崎は知識としてしか知らない。
舷側の下を、浮標が点々と過ぎていった。恩田たちがこの数日で立てていったもので、索の届いた場所の目印である。潮崎はその一つ一つに、見覚えのある赤い斜線を重ねて見た。掃海隊の艇は、湾の隅に固まって錨を下ろしている。仕事を終えた者の位置だった。
「あそこまでは、大丈夫ということだな」隣で艦橋要員が呟いた。まだ若い、信号員だった。
潮崎は答えなかった。というより、答えを持っていなかった。両岸から届く砲声が、次第に近くなってくる。
*
「オスマンの陸上砲台、見えます!」
「主砲、右砲戦」
「主砲、右砲戦ン!」
「射距離、一万四千」
「射距離一万四千ン!」
砲塔が、低い唸りを上げて右へ回っていく。ゴゴゴ、と鉄が鉄の上を滑る音。三十六糎の砲身が、丘の方角へゆっくりと持ち上がった。
潮崎は、この艦の主砲を数字でしか知らなかった。口径、弾量、射程、装薬。紙の上に並んだ数字である。
「打ち方、始め」
「打ちィー方ァ始めェ!」
ズゴォォォォ――ン!!
音ではなかった。壁だった。
空気が固まって顔を殴ってきた。潮崎は思わず一歩下がった。帽子が飛んだ。追う暇はなかった。耳の奥で、何かが細く鳴り続けている。
「――これが、金剛の主砲……紙で読むのとは、えらい違いですな」
隣で信号員が言った。声が裏返っていた。
「そうだな」
潮崎は答えた。自分の声も、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。
*
午前のうちは、遠距離の撃ち合いだった。
丘の上に、白い煙がぽつりと湧く。しばらくしてから、海面のどこかに水柱が立つ。距離があるので、音より先に、目に見える。
クイーン・エリザベスの十五インチが鳴るたび、二列離れた金剛の甲板まで空気が押してきた。丘の稜線が、ひと呼吸遅れて土を噴き上げる。
「入りました」測的所から声が上がる。
「入ったか」
「……いえ。手前です」
砲術長が短く言い、砲塔がわずかに動いた。
ズゴォォォン。……ズゴォォォン。
潮崎は、丘を見ていた。土煙は確かに上がる。上がって、風に流れて、消える。消えたあとの丘は、さっきと同じ形をしていた。
「あれは、当たっておるのですか」潮崎は航海長に聞いた。
「当たってはおる」
「では、なぜ黙りませんか」
「砲台というのは、穴の中にある」航海長は言った。「土に埋めた砲の、口だけが出ておるのだ。潰すには、その穴へ落とさねばならん。艦から撃つ弾は、寝て飛ぶ。丘の向こう側には落ちん」
海から来る弾には、丘が盾になる。盾の裏には届かない。
「では、どうやって潰すのですか」
「陸から回り込んで、上から落とすしかないな」航海長は言った。「――それができるなら、我々はここにおらん」
誰も死なない距離での戦争だった。
*
正午を過ぎた頃、右舷前方で、白い光が一つ弾けた。
「被弾!」見張りの声が上がった。「右舷前方、フランスの列の――二番艦であります!」
黒煙が上がった。潮崎は双眼鏡を上げた。
「あれは」隣で信号員が言った。「ずいぶん、古い形ですな」
「ブーヴェだ」航海長が言った。「フランスの戦艦。うちより二十年近く前のものだ」
艦首が、水の面へ低く突き出している。舷側は、上へ行くほど内側へ絞れていた。体当たりで敵の腹を突くための艦首である。ひと目で前の時代のものと分かる形をしていた。
ブーヴェは速力を落とし、右へ舵を切った。
「退がりますな」
「うむ」
潮崎は双眼鏡を追わせた。艦の向かう先は、海峡の本流から外れた、小さな入り江だった。
名前を、潮崎は知っていた。海図の隅に描かれ、赤い線が一本も引かれていなかった場所である。エレアケウイ。
「――そこは」
言葉は、そこで途切れた。
誰に向かって言ったのでもない。言ったところで、届く相手がいなかった。旗を上げて信号を組むには、何もかもが間に合わない。
――バゴォォォーーンッ!
ブーヴェは入り江の奥へ半分ほど進んだところで、右舷から白い水柱を上げた。傾きは止まらず、黒煙とも水煙ともつかない塊が艦の輪郭を隠した。二分と経たないうちに、艦影は海面から消えた。
艦橋の誰かが、小さく息を呑んだ。海に浮いていたはずの艦影が、もう無い。乗員が何人いたのか、潮崎は知らない。数えるための時間さえ、与えられなかった。
「救助に、向かわんのですか」信号員が言った。
「向かわん」松岡が言った。椅子から動かないままだった。「列を出れば、次はこっちだ」
フランスの駆逐艦が二隻、現場へ向かうのが見えた。
潮崎は双眼鏡を下ろした。手が、少し冷たくなっている。
恩田の赤鉛筆は、あの入り江には届いていなかった。届かせようがなかった。誰も、あそこに索を通していないのだから。
「中尉殿」信号員が言った。「なぜ、あんな所へ入ったのでありますか」
「本流から出たかったのだろう」潮崎は言った。「あそこなら、両岸の砲からいちばん遠い」
「では」信号員は言った。「いちばん安全な所へ、逃げ込んだわけでありますか」
「そうだ」
信号員は、それきり何も聞かなかった。
しばらくして戻ってきたフランスの駆逐艦の甲板には、引き上げた人影が数えるほどしか並んでいなかった。潮崎はその数を数えて、それから数えるのをやめた。