海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第百十三話 白い場所

「二十六」

「さっきも数えたろう、アントン」

「数えるたびに二十六だと、安心するんだ」

 

 機雷敷設艇ヌスレットの艇尾で、ドイツの兵曹が二人、濡れた機雷の列を挟んでしゃがんでいた。アントンと、相棒のフランツ。二人ともドイツのキール軍港から、同盟国オスマンの海軍の手伝いに送られてきた機雷屋である。

 三月八日の朝。海峡は、霧雨で真っ白だった。

 

「いい霧だ」フランツが言った。「神様がオスマン側についたらしい」

「神様はどっちにもつかん。霧は霧だ」

「で、どこに撒くんだ。俺はまだ聞いてない」

「エレアケウイの湾だ」

「あの、発音しづらい名前の湾か? 海峡じゃなくてか。イギリスの戦艦は、海峡の本流を上ってくるんだろう。どうしてこんな横っちょの湾に?」

「上ってくるときはな。帰り道が違う」アントンは、濡れた手袋で海図の端を叩いた。「この半月、連合国の戦艦は――イギリスとフランスの連中は、海峡に入って砲台を撃つと、帰りには決まってこの湾で回れ右をする。毎日、同じ場所でだ」

「律儀な連中だな」

「丘の裏の臼砲(きゅうほう)の観測兵が、それを毎日見ていた。毎日同じ場所で回るなら、そこに置いておけばいい」

「掃海の船は、来ないのか」

「来るのは本流だけだ。奥の機雷原へ行く道しか掃かん。回るためだけに入る湾なんぞ、誰の道筋にも乗っとらん」

 

 七時十分、艦橋でオスマンの艇長が手を上げた。

「始めるぞ」

 アントンは止め金を外し、一つ目を水へ押し出した。ドボン、と鈍い音がして殻が沈み、錨の鎖がそのあとを追っていく。

「深さは」

「水面から四メートル半。戦艦の腹が、ちょうどそこを通る」

「間隔は」

「百メートル。岸と平行に、まっすぐ並べる」

「平行? 海峡を横切る向きに並べたほうが、引っかかりやすいんじゃないのか」

「普通はな」アントンは次の止め金に指を掛けた。「だが回る艦は、岸に沿って舵を切る。その道筋の上に、縦に並べておくんだ。一つ避けても、次がある」

 

 十二個目の機雷を落としたところで、フランツが海峡の入口のほうを振り返った。

「……おい。いま、霧の向こうに何か見えなかったか」

「見えたのなら、向こうからも見えてる。見えてないなら、それでいい」

「連合国の連中にばれてたら、どうするんだ」

「どうもせん。どっちにしても、残りの機雷を落とす」

 

 二十六個目が沈んだのは、七時半を回る前だった。

 チャナク・カレの沖に錨を下ろしたあと、二人は士官室の戸口から、オスマンの先任大尉が海図に鉛筆を走らせるのを見ていた。湾の中へ、岸に沿って一本の線。その上に、小さな点が二十六。

「イギリスの海図には」フランツが言った。「ここは、何て書いてあるんだろうな」

「何も」アントンは言った。「白いままのはずだ。ここに機雷があるとは、夢にも思わんだろうさ」

 

   *

 

 海図に、赤い斜線を引く仕事は、もう昨夜で終わっていた。

 

 士官次室では、いつも通りの朝食が出ていた。パンと、薄いコーヒー。今日が特別な日だという顔で給仕する者は、誰もいなかった。

「おい、これから陸の砲台とやり合うのだ。今日くらい濃くせんか」向かいの士官が言った。

「豆が、同じでありますので」

 給仕はそれだけ言って下がり、士官は黙ってそれを飲んだ。

 潮崎拓馬(しおざきたくま)はパンを半分だけ胃に収めて、甲板へ上がった。

 

「総員、配置につけ」

「総員配置ィ! 配置につけェ!」

 

 甲板の物音が一斉に変わった。弾薬を運ぶ靴音、砲塔の旋回音、誰かが短く数を数える声。恩田の艇の静けさとは、まるで違う。

 

 艦長の松岡秀二(まつおかしゅうじ)大佐が、艦橋の椅子に腰を下ろした。丸顔で、背は高くない。潮崎はこの人と、横須賀を出てからのひと月で、十度も口をきいていなかった。

 会津若松の生まれだという。「海の薩摩」と言われる帝国海軍では、珍しい出である。よく怒鳴るが、そのかわり、怒鳴った相手の家の事情まで覚えている、という噂を、潮崎は乗る前から聞いていた。

 そして、艦を動かすのが上手い。二万七千トンを小舟のように扱う、と機関科の下士官が言っていたが、潮崎はそれを世辞の類だと思っていた。

 

 昨夜、艇を降りる潮崎に、恩田は言った。

「行け。明日は――」

 それだけで、口を閉じた。潮崎は続きを待たず、敬礼して桟橋へ渡った。十年ひとりで機雷を見てきた男は、今日という日を、他人の艦の甲板から見送ることになる。

 

   *

 

 連合国の艦隊は縦列を組んで、海峡の入口へ進んだ。

 

「先頭はクイーン・エリザベスだ」航海長が海図を指で叩いた。「去年できたばかりの、イギリスの新品だぞ。十五インチ砲を八門積んでいる」

「十五インチ」潮崎は言った。「うちの三十六糎(センチ)より、上ですか」

「上だ。当分、あれより上は出てこん」航海長は言った。「その次が我々だ。後ろにアガメムノン、ロード・ネルソン、インフレキシブル。この列は、遠くから砲台を叩く」

「フランスの艦は」

「二列目だ。距離が詰まったら、彼らが前へ出て、近くから撃つ」

 

「砲台は、潰せますか」

「潰せるかどうかは、今日で分かる」航海長は言った。「潰せなければ、また明日だ」

「明日も駄目でしたら」

「明後日だ」

 

 海峡に近づくにつれ、両岸の丘が霞んで見えてきた。そこに砲台があることを、潮崎は知識としてしか知らない。

 

 舷側の下を、浮標が点々と過ぎていった。恩田たちがこの数日で立てていったもので、索の届いた場所の目印である。潮崎はその一つ一つに、見覚えのある赤い斜線を重ねて見た。掃海隊の艇は、湾の隅に固まって錨を下ろしている。仕事を終えた者の位置だった。

 

「あそこまでは、大丈夫ということだな」隣で艦橋要員が呟いた。まだ若い、信号員だった。

 潮崎は答えなかった。というより、答えを持っていなかった。両岸から届く砲声が、次第に近くなってくる。

 

   *

 

「オスマンの陸上砲台、見えます!」

「主砲、右砲戦」

「主砲、右砲戦ン!」

「射距離、一万四千」

「射距離一万四千ン!」

 

 砲塔が、低い唸りを上げて右へ回っていく。ゴゴゴ、と鉄が鉄の上を滑る音。三十六糎の砲身が、丘の方角へゆっくりと持ち上がった。

 

 潮崎は、この艦の主砲を数字でしか知らなかった。口径、弾量、射程、装薬。紙の上に並んだ数字である。

 

「打ち方、始め」

「打ちィー方ァ始めェ!」

 

 ズゴォォォォ――ン!!

 

 音ではなかった。壁だった。

 空気が固まって顔を殴ってきた。潮崎は思わず一歩下がった。帽子が飛んだ。追う暇はなかった。耳の奥で、何かが細く鳴り続けている。

 

「――これが、金剛の主砲……紙で読むのとは、えらい違いですな」

 隣で信号員が言った。声が裏返っていた。

「そうだな」

 潮崎は答えた。自分の声も、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。

 

   *

 

 午前のうちは、遠距離の撃ち合いだった。

 

 丘の上に、白い煙がぽつりと湧く。しばらくしてから、海面のどこかに水柱が立つ。距離があるので、音より先に、目に見える。

 

 クイーン・エリザベスの十五インチが鳴るたび、二列離れた金剛の甲板まで空気が押してきた。丘の稜線が、ひと呼吸遅れて土を噴き上げる。

「入りました」測的所から声が上がる。

「入ったか」

「……いえ。手前です」

 

 砲術長が短く言い、砲塔がわずかに動いた。

 

 ズゴォォォン。……ズゴォォォン。

 

 潮崎は、丘を見ていた。土煙は確かに上がる。上がって、風に流れて、消える。消えたあとの丘は、さっきと同じ形をしていた。

「あれは、当たっておるのですか」潮崎は航海長に聞いた。

「当たってはおる」

「では、なぜ黙りませんか」

「砲台というのは、穴の中にある」航海長は言った。「土に埋めた砲の、口だけが出ておるのだ。潰すには、その穴へ落とさねばならん。艦から撃つ弾は、寝て飛ぶ。丘の向こう側には落ちん」

 

 海から来る弾には、丘が盾になる。盾の裏には届かない。

「では、どうやって潰すのですか」

「陸から回り込んで、上から落とすしかないな」航海長は言った。「――それができるなら、我々はここにおらん」

 

 誰も死なない距離での戦争だった。

 

   *

 

 正午を過ぎた頃、右舷前方で、白い光が一つ弾けた。

 

「被弾!」見張りの声が上がった。「右舷前方、フランスの列の――二番艦であります!」

 

 黒煙が上がった。潮崎は双眼鏡を上げた。

「あれは」隣で信号員が言った。「ずいぶん、古い形ですな」

「ブーヴェだ」航海長が言った。「フランスの戦艦。うちより二十年近く前のものだ」

 

 艦首が、水の面へ低く突き出している。舷側は、上へ行くほど内側へ絞れていた。体当たりで敵の腹を突くための艦首である。ひと目で前の時代のものと分かる形をしていた。

 

 ブーヴェは速力を落とし、右へ舵を切った。

「退がりますな」

「うむ」

 

 潮崎は双眼鏡を追わせた。艦の向かう先は、海峡の本流から外れた、小さな入り江だった。

 名前を、潮崎は知っていた。海図の隅に描かれ、赤い線が一本も引かれていなかった場所である。エレアケウイ。

 

「――そこは」

 

 言葉は、そこで途切れた。

 誰に向かって言ったのでもない。言ったところで、届く相手がいなかった。旗を上げて信号を組むには、何もかもが間に合わない。

 

 ――バゴォォォーーンッ!

 ブーヴェは入り江の奥へ半分ほど進んだところで、右舷から白い水柱を上げた。傾きは止まらず、黒煙とも水煙ともつかない塊が艦の輪郭を隠した。二分と経たないうちに、艦影は海面から消えた。

 

 艦橋の誰かが、小さく息を呑んだ。海に浮いていたはずの艦影が、もう無い。乗員が何人いたのか、潮崎は知らない。数えるための時間さえ、与えられなかった。

 

「救助に、向かわんのですか」信号員が言った。

「向かわん」松岡が言った。椅子から動かないままだった。「列を出れば、次はこっちだ」

 

 フランスの駆逐艦が二隻、現場へ向かうのが見えた。

 

 潮崎は双眼鏡を下ろした。手が、少し冷たくなっている。

 恩田の赤鉛筆は、あの入り江には届いていなかった。届かせようがなかった。誰も、あそこに索を通していないのだから。

 

「中尉殿」信号員が言った。「なぜ、あんな所へ入ったのでありますか」

「本流から出たかったのだろう」潮崎は言った。「あそこなら、両岸の砲からいちばん遠い」

「では」信号員は言った。「いちばん安全な所へ、逃げ込んだわけでありますか」

「そうだ」

 

 信号員は、それきり何も聞かなかった。

 

 しばらくして戻ってきたフランスの駆逐艦の甲板には、引き上げた人影が数えるほどしか並んでいなかった。潮崎はその数を数えて、それから数えるのをやめた。

 

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