海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「霧のようですな」
金剛の若い信号員が、艦橋の窓に顔を寄せて言った。
「霧じゃあない」航海長が舌打ちをした。「煙だ。三十隻が半日撃ち続けて、焚いた煙が全部ここに溜まっとる。こっちから丘は見えんが、向こうからは、煙の下にうちの影が丸見えだ。図体がでかいからな」
昼を過ぎて、金剛の列は前へ出ていた。距離を詰めれば当たりやすくなる。それは、敵にとっても同じである。
「射距離、八千」
「射距離八千ン!」
三度目に、艦首の前と艦尾の後ろへ、同時に水柱が立った。
「
「挟まれたな」艦長の
「トーリカージ、いっぱーい!」
艦は、すぐには動かない。
「……まだ曲がりません」信号員が言った。
「二百メートルを超える鉄の塊だぞ」航海長が言った。「舵を切ってから、頭が回りだすまでに十は数える」
潮崎は数えた。十を数えたところで、ようやく足の下が傾きはじめ、艦首の向かう先を見て、息を止めた。アジア側の岸が、正面にある。
「艦長!」航海長が海図から顔を跳ね上げた。「この先は浅瀬です! このままでは乗り上げます!」
「はは、心配せんでよい。海図と海の底は、頭に入っておる」
「頭に入っておっても、艦の腹は入りません!」
「いや、入る。ぎりぎりな」
両岸の砲は、まだ撃っている。だが着弾が、急に遠くなった。
「――外れております」信号員が上ずった声を出した。「なぜです」
「向こうの砲手はな、この艦がここまで入ってこられんと思うておる」松岡は言った。「入ってこられん場所は、はじめから狙わん」
「底が見えます!」見張りが叫んだ。「砂の筋まで見えます! 艦長ッ!」
水の色が、青から緑がかった白へ抜けていく。そのとき、艦が下がった。二万七千トンが、水の中へすとん、と据わったのである。
「し、沈みます!」
「沈まん。浅いところへ入ると、船は底へ吸われる」松岡は言った。「面舵いっぱい」
「舵、利きません! 水を噛みません!」
「両舷、前進いっぱい」
「艦長、底を打ちます!」
「打て。利かん舵で岸へ乗り上げるよりは、こすって曲がるほうがましだ」
機関の唸りが一段上がり、二万七千トンが狭い水の上で身をよじった。
ゴ、ゴゴゴ、ゴリ――
砂利の上を腹で滑るような音が足の裏から上がってきて、数秒で切れた。艦は速力を保ったまま、水の色の濃いほうへ戻っていく。
松岡は、椅子の上で少し身じろぎをした。
「……ちょいと、こすってしまったわい。こするつもりは、無かったんじゃがなぁ……」
一拍おいて、艦橋の誰かが噴き出した。潮崎も笑い、笑ってから、自分が笑っていることに驚いた。
「中尉殿」信号員が、まだ青い顔のまま囁いた。「機関科の連中が言うとった、二万七千トンを小舟のように、というのは」
「世辞ではなかったな」
*
ヒュルルルルル――
「被弾ッ!!」
ガアアアン!!
鉄を鉄で殴る音がして、艦が横っ面を張られたように傾いだ。前部右舷の副砲が一つ、砲郭の鉄板を内側へめくり上げたまま黙っている。
「第二副砲、直撃! 砲員――全滅であります!」
「浸水、第三区画! 水線下に破孔!」
「食い止められるか」
「食い止めます」
「機関は」
「無事です」
「なら、続ける」松岡は言った。
当直の下士官が、潮崎の帽子を拾って差し出した。午前の主砲の一発目で飛んだものである。
「中尉殿。これ」
「……ああ」
被り直して、潮崎はその時になって、自分の手が震えていることに気づいた。
「おい、特務の中尉」しばらくして、松岡が言った。「戦艦というのは、どういう船であるべきか、知っておるか」
「艦隊決戦において、最も大きな主砲を積み、最も遠くへ届く船であります」
「正しい。正しいが、それだけではない」松岡は言った。「沈む
足の下では、第三区画に水が入っている。副砲が一つ黙っている。それでも、主砲は撃っていた。
*
――バゴォォオオンッ!!
夕刻近く、英国の巡洋戦艦インフレキシブルが機雷に触れ、大きく傾いた。
掃海の済んだはずの海域だった。
「日本の艇が、三晩かけて掃除したはずが……」信号員が言った。
「済んだのは、索を通した場所だけだ」潮崎は言った。「掃海に、完全ということは無い」
その少し後、隊列の後方で二隻が反転した。イレジスティブルとオーシャンである。二隻は、恩田の艇が先頭に立って三晩かけて赤い斜線を引いた水路を辿り、何も起こらないまま、海峡の外へ出ていった。
旗艦から信号が入った。
「本日ノ攻撃、之ヲ中止ス――以上です」
「そうか」松岡は言った。
*
戦死十一名、負傷三十四名と、副長が感情の乗らない声で読み上げた。
「第三区画は、扉を閉めました」副長は続けた。「閉めたとき、中に四人おりました」
食い止めます、と答えた人間が、扉を閉めたのだった。
松岡は、それを最後まで黙って聞いていた。それから、拳で海図台を一度殴った。
ガン、と鳴って、艦橋の全員が動きを止めた。
「クソッ……陸の大砲なんぞに。ごせやける」
訛りが出ていた。この人が訛るのを、潮崎は初めて聞いた。
「……名を読め」
「は」
「十一人の名だ。一人ずつ読め」
副長が読み上げた。松岡は一つ読まれるたびに、小さく顎を引く。三人目のところで、砲術科の兵の名を、副長より先に言った。
「三人目のは、若松の在の者だ。去年、乗ってきた」松岡は言った。「わしと同じ在所だ、と申すのでな。覚えておった」
潮崎は、その十一の名のうち、顔を思い出せるものが一つも無かった。この艦には千人以上が乗っている。だが、椅子の上の人は、十一のうちの一人を先に言った。
夜、士官次室にはまた薄いコーヒーが出た。朝、濃くしろと言った士官は、何も言わずにそれを飲んだ。
*
同じ日の夕方、ロンドンには一通の電報が届いていた。海峡の口の掃海が、三晩で片付いたという報せである。
通されたのは、大きな机と、大きな地図と、灰皿ばかりが目につく部屋だった。チャーチルは立ったままだった。この男が椅子に座っているところを、秋月はまだ見たことがない。
「ジュリアン……ヴァンス男爵は、回復に向かっているそうだ。もう自分の足で立って歩けるとも」
「何よりです」秋月は言った。「やはり、お強い方だ」
「ああ。仕事に戻すと言ってやかましいが、私が止めておる」
チャーチルは机の上の紙束を叩いた。
「こいつは読んだ」電報の写しである。「――掃海が終わった、だと?」
「はい」
「四日だぞ。四日のあいだ、索に何ひとつ掛からなかった水域だ」チャーチルは紙束をもう一度叩いた。「それが、三晩で片付いたと言うのか」
「はい」
「なぜだ。船は同じだろう。むしろ、貴国の艇の方が古い」
「図体は古うございます」秋月は言った。「ですが、機関だけは小型軍艦の血筋です。トロール船とは、そもそもの作りが違う」
「馬力の話か」
「えぇ。半分は」秋月は言った。
「残り半分は」
「乗っている者が違います」
チャーチルは動きを止めた。秋月は続けた。
「イギリスの掃海の船に乗っているのは、契約で雇われた漁師です。勇敢ですが、軍規の外にいる。砲弾が来れば索を切って離れることが許されている。彼らは兵ではありませんから、その方が正しい判断です」
「うちの艇には、軍人が乗っています。離脱は、許されていません」
チャーチルは葉巻に火をつけず、指の間で転がしただけだった。
「責めているのかね」
「いいえ」秋月は言った。「相応の対価を、いただきたいのです」
しばらく、部屋の中の音が止まった。
それから、チャーチルは短く笑った。
「よろしい。いくらだ」
「金では頂きません」秋月は言った。「陸を使うことになった時、我が方の一個師団に、兵站と衛生を任せていただきたい。前線の一区画ではなく、後ろの一切を」
「それは、手柄の出ない場所だ」
「承知しております」
「――貴官らは、妙な国だな」チャーチルは机の縁に腰を預けた。「勲章の出ん仕事を、自分から取りに来る」
「東京は、勲章より欲しいものがある、と申しております」秋月は言った。「前線の一区画は、どこの国の兵が埋めても同じ一区画です。ですが後ろが止まれば、前線が全部止まります。貴国がいま一番お困りなのは、後ろのほうでしょう」
チャーチルは、葉巻を指の間で一度回した。
「一番困っているところを埋めれば、一番大きな貸しになる、か」
「それに、渡った先で兵が死ぬ理由の大半は、砲弾ではありません。水と病です」秋月は言った。「後ろを握っていれば、それを減らせます」
「本音はそこだろう」チャーチルは言った。「遠い国で兵が大勢死ねば、貴国の議会がもたん。違うかね」
「……ご明察です」
「よろしい。正直な取引は、嫌いではない」
チャーチルは地図の方を見て、海峡の細い線を指の腹で一度なぞった。
「陸軍省には、私が書く」チャーチルは言った。「通るかどうかは保証せん。だが、私が書いたものを陸軍省が握り潰したという記録は、残る」
秋月は一礼した。この人はこういう約束の仕方をする、とヴァンスが言っていた通りだった。
その日の海峡で何が起きたかを伝える電報は、まだ届いていない。
*
翌日の午前、ムドロス湾で水葬が行われた。
艦尾に、帆布の包みが十一並んでいる。ラッパが鳴って、板が一つずつ傾けられていった。
潮崎は、水の音を数えていた。数えるつもりはなかったが、気がつくと数えていた。十一回で、終わった。
午後、掃海隊の艇へ渡ると、甲板で水兵が二人がかりで木の枠を数えていた。
「何枚残った」
「四枚であります。あとは全部、行きました」水兵は言った。「ですが、うちの隊は一人も欠けておりません。板が二十六枚、身代わりになってくれました」
「横須賀に知れたら、木がもったいない、と言われるな」
「言われます」水兵は真顔で言った。「大佐殿は今朝、もう三十枚、追加の注文を出されました」
士官室では、恩田が海図に赤鉛筆を当てていた。アジア側の小さな入り江、エレアケウイ。その縁に、赤い×が一つ打ってある。
「大佐。それは」
「掃海、未了と書いた。赤字でな」
「海峡の真ん中――本流を先に掃除したのは、当然の判断です」潮崎は言った。「湾の奥までは……時間も、艇の数も、足りませんでした」
「そういう判断だ。間違ってもおらん」恩田は赤鉛筆を置いた。「間違っておらんことをして、人が死ぬこともある」
「では、なぜ×印を」
「白いままにしておくとな、次にこれを見た者が、掃いてあると思う」
「金剛は、どうだった」
「戦死十一名。負傷三十四名です」
「そうか」恩田は海図を畳みながら言った。「イヤなもんだなぁ」
それから、畳みかけた手を止めた。
「潮崎。機雷は、少しは減らせたか。艦は、通りやすくなったか」
「なりました。格段に通りやすくなっております」潮崎は、間を置かずに答えた。「海峡を通ったというだけで沈む艦の数を、我々は大きく減らしております。――高い確度で、そう信じております」
「それを、紙に書けるか」
「……は」
「書いてみろ」恩田は言った。「わしは十年、それが書けんかった」
夕方、ウィットビーが英国の茶の缶を一箱抱えて上がってきた。
「私の隊は、明日、湾を出ます。勲章の代わりに、置いていきます」ウィットビーは言った。「それから、昨日のフランスの艦に乗っていた者の数が出ました。六百を超えるそうです。……司令部では、もう一度艦で入り直すという話は消えました。陸兵を待つそうです」
「上陸か」
「上陸です」
恩田は、畳んだ海図に手を置いた。
「艦で通れんかったものが、人が歩けば通れるのか」
潮崎が訳すと、ウィットビーは答えなかった。答えを持っていない、という顔をしていた。
*
その夜、潮崎は士官次室で、軍令部第三班宛の報告書を開いた。向かいの席では、朝に「濃くせんか」と言った士官が、また薄いコーヒーを啜っている。
「報告書か」士官が言った。「掃海は大成功、とでも書いておけ。イギリスの二隻は、お前らの掃いた水路を通って無事に帰ったのだろう」
「そう書くための証拠が、一枚もありません」
「証拠?」
「沈んだ艦は数えられます」潮崎は言った。「沈まなかった艦は、数えられません」
士官は少し考えてから、カップを置いた。
「……面倒な仕事だな、特務というのは」
「恩田大佐は、似たようなことを十年やっておられます」
潮崎は、数えられた数だけを書いた。
戦死十一名。負傷三十四名。掃海隊、戦死者なし。いかだ、二十六枚喪失。
それから頁を裏返して、頼まれていない一項を足した。
――付記。エレアケウイ湾ニ、我ノ索、到ラズ。
電報が届いたのは、その夜である。
――陸軍輸送船三十六隻、来ル二十二日宇品ヲ発ス。着ハ五月ノ見込。
五月に、陸の連中が来る。それまでにこの海が何をするかは、まだ誰の紙にも書いていない。
少しだけ解説を。
史実の三月十八日、ヌスレットがエレアケウイ湾に並べた二十六個の機雷は、フランスのブーヴェだけでなく、英国の戦艦イレジスティブルとオーシャンも沈めています。インフレキシブルが触雷して大きく傾いたのは、史実のとおりです。
本作では、恩田たちが三晩かけて掃いた水路をたどって、二隻は海峡の外へ帰っていきました。ただし、沈まなかった艦は数えられません。潮崎の報告書に「掃海は大成功」と書けなかったのは、そのためです。