海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「
揺り起こされて、
慶応三年(一八六七年)四月、下関。夜はまだ深く、
枕元に屈み込んでいたのは、痩せこけた男だった。頬は削げ、寝間着の襟から覗く鎖骨が、刃物のように浮いている。それでも、目だけは笑っていた。
「た、高杉さん……! 起きてええんですか」
「ええわけがあるか。医者は、今夜が山じゃと言うちょる」
「なら、寝とってください!」
「じゃから、今夜死ぬことにした」
無人は、口を開けたまま固まった。
高杉晋作。奇兵隊を作り、長州を一夜でひっくり返した男である。その男が、この春から
十七の無人――後の乃木希典は、その看病の手伝いに、報国隊から寄越されていた。
「……死ぬことに、した?」
「そうじゃ」高杉は、白い歯を見せた。「棺はもう、裏に運んである。中身が要る」
*
離れの裏手の土間に、白木の棺が一つ置かれていた。
その脇に、
「わしの代わりに、こいつらに入ってもらう」
「石を……弔うんですか」
「石は、泣きごとを言わんでええ」
高杉は、咳き込みながら笑った。
「じゃが、軽すぎても重すぎてもいかん。担いだ者が首を傾げる。無人、お前、算盤は得意じゃったな」
「そ、そろばんくらいは」
「なら、わしの目方と同じだけ詰めい。痩せてしもうたけえ、お前が思うとるより、ずっと軽いぞ」
無人は、震える手で石を一つずつ棺に入れた。
高杉を背負ったときの重さを、腕に思い出す。一ヶ月前、厠へ運んだときには、まだ米俵ほどあった。この十日で、それが目に見えて減っている。
一つ。二つ。三つ――。
十四個目を入れたところで、無人は手を止めた。
「……これくらいです」
「数えたか」
「十四」
「ええ数じゃ」
高杉は棺の縁に手をかけ、中を覗き込んだ。石の上に、古い布団を詰めて、揺れても音が立たないようにする。最後に、自分がいつも着ていた羽織を、上に一枚かけた。
「これで、わしは死んだ」
そのとき、表の戸を叩く音がした。
「高杉は、まだ息があるか」
低い、よく通る声だった。
無人の心臓が跳ね上がる。奇兵隊の軍監、
高杉が、音もなく棺の陰に身を沈めた。唇だけが動く。
(寝とる、と言え)
無人は土間を横切り、戸を細く開けた。提灯の灯りの向こうに、山縣の長い顔が浮かんでいる。
「ね、寝ておられます」
「そうか。……咳は」
「さっきまで、ひどうございました。今は、落ち着いて」
「医者は、何と言うとる」
「こ、今夜が、山じゃと」
山縣は、しばらく黙って離れの奥を見ていた。灯りの消えた障子の向こうを、透かし見るような目だった。
無人の膝が、勝手に震えはじめる。棺は、山縣の立っている場所から、ほんの五歩先にあった。
「起きたら、言うとけ。わしは明日も来る」
それから、ぽつりと付け足した。
「……あれは、死なん男じゃ」
提灯の灯りが遠ざかっていく。戸を閉めた途端、無人はその場にへたり込んだ。
棺の陰から、押し殺した笑い声が聞こえてくる。
「上出来じゃ、無人。……狂介め、ええ勘をしとる」
*
「……なんで、こんなことをするんです」
ロウソクの灯りの下で、無人は、ようやくそれだけを口にした。
高杉は、壁にもたれて息を整えていた。しばらく黙ってから、ぽつりと言う。
「五年前、わしは
「上海……清国の」
「そうじゃ。イギリスやフランスの船が、港を埋めとった。清国の人間が、自分の国の港で、西洋人の荷を担がされて、棒で叩かれとる。立派な城も、大砲もある国がじゃ」
高杉の声は、咳でかすれていた。だが、目はロウソクの火を見据えたまま、少しも揺れなかった。
「日本も、放っておけばああなる。幕府は、もう長うはない。新しい国の表は、狂介らがやればええ。あれは、表の仕事に向いとる」
「じゃあ、高杉さんは」
「裏をやる」
高杉は、自分の胸を指で叩いた。
「この胸は、日本の医者には治せん。じゃが、上海のイギリス人の医者なら、分からん。生き延びたら、わしはあの街で、西洋の連中が何を考えとるかを見張る。……生きとる男には、行ける場所に限りがある。死んだ男なら、どこへでも行ける」
「そんな……上海までの船旅に、そのお身体が持つかどうか……」
無人は、それしか言えなかった。
この人は、死ぬ間際まで、人を食ったようなことばかり言う。だが、その言葉が冗談でないことだけは、分かった。
「わしの代わりに、
「ぼ、僕がですか。なんで、僕に」
「お前が臆病じゃからよ」
高杉は、にやりと笑った。
「臆病な将は、兵を無駄に死なせん。怖いけえ、よう考える。……それに、臆病な奴は余計なことを言わんし、長生きもする」
高杉は、枕元の筆を取り、半紙の隅に二文字を書きつけた。
――東行。
「これまで色々と名前を変えてきた。晋作も、
*
夜明け前の浜に、小舟が一艘、
櫓を握っているのは、口を利かない漁師だった。沖では、灯りを落とした外国の蒸気船が、黒い影になって待っている。
高杉は、無人の肩を借りて波打ち際まで歩いた。足が砂に取られるたびに、軽い体が、無人の腕の中で揺れた。
「そうじゃ、辞世を詠んでおかんといけん」
舟べりに手をかけたところで、高杉が言い出した。
「い、今ですか」
「死んだ男に、辞世が無いのは格好がつかんじゃろうが」
高杉は東の空を見上げた。水平線の端が、わずかに白みはじめている。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
それきり、黙った。
「……下の句は」
「向こうで考える」
高杉は、心底おかしそうに笑って、舟に乗り込んだ。
「無人。泣くな」
「泣いとりません」
「泣いとるわ。……臆病者め。長生きせえよ」
櫓が、水を掻いた。
小舟は、白みはじめた海へ滑り出し、やがて沖の黒い影に吸い込まれていった。
無人は、波打ち際に立ったまま、いつまでもその方角を見ていた。
*
高杉晋作の死は、その朝のうちに、奇兵隊の陣営へ伝えられた。
「棺は、もう釘を打ったんか」
昼過ぎ、離れに駆けつけてきたのは、山縣狂介だった。高杉のあとを継いで、奇兵隊を率いている男である。
「は、はい」無人は、棺の前で頭を下げた。「労咳は、うつりますけえ……早う閉じた方がええと、医者が」
「顔も、見られんのか」
「……申し訳ありません」
山縣は、しばらく黙って棺を見下ろしていた。
それから、「担ぐぞ」と隊士たちに声をかけ、自分も棺の角に手をかけた。
四人で、持ち上げる。
山縣の眉が、わずかに動いた。
「……重いのう」
無人の背中を、冷たい汗が流れた。
「あれだけ痩せとったのに、高杉にしては、重い」
「し、死んだ者は、重うなると申します」
口から、勝手に言葉が出た。
山縣は、無人の顔をじっと見た。無人は、目を逸らさない。怖くて、逸らせなかったのだ。
「……そうか」
山縣は、それ以上は何も言わなかった。昨夜、戸口で「あれは、死なん男じゃ」と言ったときと、同じ目をしていた。
*
葬列は、下関から吉田の陣営へと向かった。
石を十四個詰めた棺が、奇兵隊の隊士たちに担がれて、土の道を運ばれていく。沿道には、泣き崩れる者も、手を合わせる者もいた。無人は列の後ろを歩きながら、ずっと足元だけを見ていた。
峠の上で、山縣が一度だけ足を止めた。
西の海を見ている。朝の舟が出ていった方角だった。
「あの男は、いつも、わしらには見えん遠くの水平線を見ておった」
誰に言うでもなく、山縣は呟いた。
「……さて、な」
それきり、山縣は前を向いて歩き出した。
それから四十五年後。
陸軍大将となった乃木希典は、自刃する前の晩、上海の「東行先生」へ宛てて、一通の手紙を書いた。
――無人は、相変わらず臆病なままです。
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