海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第十二話 袋小路の死線

 パレス・ホテルの重厚な回転扉を押し出すと、黄浦江のヘドロと腐りかけた果実が混ざった、水飴のような夜気が全身にまとわりついた。東京でも呉でも嗅いだことのない、魔都特有の腐敗と活力が入り交じった匂いだ。

 

 隣に秋月慧が並んだ。白いディナージャケットの胸元を一度確かめ、南京路の喧騒には目も向けず、黄浦江の方角を見ている。月のない夜だった。川面から吹き上げる生温かい風が、二人の間を無言で抜けた。

 

「帰りはどうする」と真崎が尋ねた。

 

「馬車を一頭押さえてある。心配するな」

 

 秋月は振り返らずに答えた。

 

「……真崎」

 

 短い間の後、秋月がようやく横を向いた。その横顔は、ホテルの灯りに片面だけ照らされ、もう半分は夜の闇に溶けている。

 

「アスター・ハウスまでは、表通りを使え」

 

「何か掴んでいるのか」

 

「掴んではいない。だが、陸軍と海軍の駐在将校が連れ立っているのを人目に晒すのは、互いにとって得策ではないだろう。念のためだ」

 

 真崎はその意味を飲み込んだ。三宅坂の嗅覚の鋭い人間が余計な詮索を始めないとも限らない。合理的な助言だった。

 

「分かった。表通りを使う」

 

「ああ」

 

 それだけだった。秋月は短く頷くと、待たせていた馬車へ向かって石畳を歩き出した。ゴムタイヤの軋む音が夜気に溶け、やがて完全に闇の中に消えた。

 

 真崎は、その後ろ姿を見送った。

 

(計算高い男め)

 

 苦い笑いが口端に浮かんだ。しかし、その苦さは嫌いではなかった。今夜、秋月が帰り際にぽつりと漏らした一言――「近く見合いの席を設けられそうだ、悪くはない」――と、その直後にすぐ仏頂面に戻った横顔を思い出し、真崎はひとり、ガス灯の下で肩を揺らした。あの男も人間だった。

 

 ただ、秋月が皿の油膜を指して言い放った一言だけが、頭の隅にくすぶり続けていた。

 

「石油だ」

 

 それだけだった。陸軍将校である自分には縁遠い言葉のはずだった。だが、なぜかその二文字が、靴底の石畳の感触と同じくらいの重さで、ずっと足元についてくる。

 

 真崎は南京路の灯りに向かって歩き出した。

 

 表通りを使う。そう約束した。

 

 だが、しばらく歩くうちに足が自然と止まった。

 

 背後に、何かがある。特定の人物ではない。人力車夫が二人、不自然な間合いで同じ速度を保っている。向こうの屋台の親父が、鉄鍋を叩くリズムを変えた。それだけならば偶然で済む。だが三つが重なれば、これは「面」だ。

 

 秋月の忠告が耳に残っている。

 

 それでも真崎は、南京路の一本先の角を曲がった。

 

――――夜の弄堂(ロンタン)が、静かすぎた。

 

 麻雀牌をかき混ぜる乾いた音が止んでいる。路地角で客待ちしていた人力車夫が、理由なく方向転換した。屋台の鉄鍋を叩くリズムが、三拍おきに変わった。

 

 真崎は歩調を崩さぬまま、背広の裏でモーゼルの重みを確かめた。

 

 頭上には原色の洗濯物が空を塞ぎ、豚の脂と八角の重い匂いが路地に満ちる。石畳の隙間には生活排水が溜まり、靴底が僅かに滑る。一歩進むごとに、静寂が濃くなっていった。それはまるで、街全体が呼吸を止めて真崎だけを凝視しているような、異様な密度だった。

 

 前方に煉瓦の壁が迫った。背後の入口に闇が凝固している。

 

 袋小路だった。

 

 闇の奥から、足音もなく影が滲み出した。黒い詰襟の男、上半身裸でボロ布を纏った労働者風の男。その数が七名に及んだとき、真崎は静かに息を吐いた。彼らの手には、鈍い光を放つ青龍刀と、血脂にまみれた匕首(あいくち)が握られている。誰一人として言葉を発さない。ただ、爬虫類のように冷たく粘りつく殺意だけが、重い夜気を通じて真崎の肌を突き刺してきた。

 

 上海の裏社会を束ねる秘密結社、青幇(チンパン)の構成員である。

 

(なぜだ……)

 

 思考は、冷えていた。上海着任からまだ数日。陸軍内部の政争程度で、外国の秘密結社が動くはずがない。ケイとの会食が問題だったのか――いや、そんなはずは――。

 

 だが、考える時間は、もうなかった。包囲が狭まる。

 

「……三宅坂の陰湿な駆け引きよりは、随分と分かりやすい歓待だ」

 

 退路を完全に絶たれた袋小路で、真崎は微かに口角を上げた。右手を背広の裏へ滑り込ませる。

 

 モーゼルC96。装弾数、薬室込みで十一発。七名に対して釣りが来る計算だ。

 

 だが、暗がりでの実戦は的当てではない。

 

 最前列の二名の膝を確実に撃ち抜く。倒れ込む体を壁代わりにして後続の動きを止める。生じた数秒で右翼の壁際へ突破口を開く。大和魂の咆哮など不要だ。これは、与えられた物理法則の中で生存確率を最大化するための、冷酷な計算に過ぎない。

 

 先頭の男が耳障りな奇声を発し、青龍刀を高く振りかぶった。

 

 距離、三歩。

 

 真崎は引き金に力を込めた。

 

 その刹那。

 

 頭上の暗闇から、何かが落ちてきた。弦を弾くような奇妙な異音。直後に、巨大な質量。

 

 ズンッ。

 

 銃身が物理的に叩き落とされた。石畳を向いた銃口から火が出る。

 

 弾が足元の泥を跳ね上げ、それで終わった。

 

 三味線だった。(さお)から胴に至るまで、すべて鋼鉄で打たれた特注品だ。何十キロもある。

 

 石畳にバウンドした棹を、二階の窓から飛び降りた老人が空中で掴んだ。絹の和装の袂が翻る。着地の反動を一切殺さず、独楽のように体を捻って横薙ぎにフルスイングした。

 

 ガキィィンッ。

 

 暗闇に火花が散り、振り下ろされた青龍刀が飴細工のようにへし折れて吹き飛んだ。

 

 真崎は唖然として銃を下ろした。

 

 老人の動きが銃弾より速かったわけではない。上空の死角から、重力と質量という絶対の物理法則を、発砲より先に使っただけだ。ただそれだけのことを、自分には完全にできなかった。理屈が停止する感覚があった。歴戦の軍人として積み上げてきた戦術的思考が、この老人の前では文字通り、叩き落とされた。

 

 老人は三味線を肩に担ぐと、腹の底から声を発した。

 

散開(セェカイ)――解散せよ」

 

 上海語だった。流暢を超えた、呪術に近い響きだった。

 

 その一言で、七名の顔から一斉に血の気が引いた。彼らは目の前の老人が誰であるかを悟ったのだ。魔都の裏社会に君臨し、逆らう者には黄浦江の泥底を約束する、絶対の長老(ターラォ)

 

 折れた青龍刀が石畳に落とされた。七名は真崎に背を向けることもできないまま、蜘蛛の子を散らすように暗がりへと後退し、瞬く間に夜の底へと消えた。

 

 袋小路に残ったのは、硝煙と、生温かい夜風だけだった。

 

 真崎は、手の中で熱を持つモーゼルを見つめた。次いで、悠然と夜空を見上げている老人の背中を見た。握った銃把(グリップ)がまだ熱い。自分の掌が、僅かに汗ばんでいることに気づいた。

 

 極度の緊張の糸が切れた。

 

「……少し、酒を飲みすぎたか」

 

 銃弾を叩き落とし、青龍刀を粉砕し、一言で秘密結社を退かせた老人。近代軍人たる自分の脳が見せたアルコールの幻覚だとでも思わなければ、理性の形が保てなかった。

 

 老人はゆっくりと振り返り、皺の刻まれた顔にニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「おい、陸軍の若造。命拾いしたな。ついてこい」

 

 真崎は二度目の絶句を味わった。

 

「に……日本語!?」

 

 魔都の闇を支配する正体不明の怪物が、事もなげに発した流暢な日本語。

 

 歴史の亡霊が牙を剥き、若き将校を途方もない運命の渦へと引きずり込んだ瞬間であった。




◆あとがき◆
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※明日も同じく3回(07:00 / 12:00 / 19:40)更新予定です。
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