海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
田中義一は、懐中時計を三度出している。
午後一時の開議のはずが、議長席はまだ空いたままである。
議場は、きれいに二つに割れている。三月の総選挙で勝ち、大隈重信の内閣を担いでいる与党がおよそ二百十で、政府の案はとにかく通したい。
軍務局長の田中の席は、陸軍大臣・
懐にも、紙が一枚入っている。英国の陸軍省は四月十七日に、日本の師団に後方の一切を任せることへ「異存ナシ」と判を押していた。その文書の番号を書いた、ロンドンの秋月からの電文の写しで、番号は先週のうちにムドロスへ打たせてある。
一時五十一分、議長の島田三郎が入ってきた。
「体調が悪かったため、少々遅れました。このことを一言申し上げておきます」
野党の席から、すかさず声が飛ぶ。
「少々じゃなくて一時間だろうが!」
議場がどっと沸いた。九分ほど盛っておるな、と田中は思い、そんなものを数えている自分が可笑しくなった。
*
「日程第六、大正四年勅令第十一号の承諾を求める件。委員長の報告を求めます」
委員長が登壇して、紙を広げる。
「本案の委員は、去る二十九日に第四委員室に集まりまして――」
「短くやれ!」
「――質問と討論の結果、多数をもって――」
「聞こえんぞ!」
「――承諾を与えるべきものと決定いたしました」
「ご異議がなければ、委員長の報告どおり承諾いたします」
「異議なし!」
ぱらぱらと拍手が起きて、それで片がついた。
田中は時計を見ていた。三十秒である。何に使った金なのかを尋ねた者は、一人もいない。
次に上がる案も、形は同じだった。議会が開けない間に政府が勝手に使った金を、あとから「使ってよかったことにしてくれ」と頼む、承諾の案である。違うところは二つあって、一つは番号が振られていないこと、もう一つは、使い道の欄に行き先が一字も書かれていないこと。
地中海の一個師団の金だった。
「憲法第七十条による処分に関し、承諾を求める件」
書記が読み終わるより先に、野党の席が総立ちになった。
「金額しか書いておらんじゃないか!」
「どこへ使った、言うてみろ!」
野党の議員が演壇に駆け上がり、原稿を叩いた。
「政府は議会を解散しておいて、議会が無いから勅令で金を出した、と言う。自分で火を消しておいて、火が無いから暗い、と言うようなものであります!」
「そうだァ!」と野党。
「話を大きくするな!」と与党。
「一個師団が広島の
「守っておった艦は、逃げたそうじゃないか!」と野党。
「逃げたのではない、退いたのだ!」と与党。
「同じことだ!」と野党。
田中の隣で、海軍の政府委員の背中が硬くなった。主力艦はすべて陸から見える場所を離れる、という五月二十七日の電信を、田中も読んでいる。新聞はそれを「金剛無事」と書き、議場ではそれが「逃げた」になる。
与党の議員が弁護に立ち、欧州の情勢から説き起こして、いつまでも本題へ行き着かない。
野党の席から声が飛んだ。
「原稿を読み上げとるだけじゃないか! そのまま速記に回せ!」
今度は与党の席まで笑った。
陸軍大臣の岡が、政府を代表して立ち上がる。
「作戦に関することは、この場では申し上げかねます。同盟を結ぶイギリスから正式な要請があったことは、すでに申し上げたとおりであります」
「頼まれた証拠を出せ!」と野党。
「大臣がそう言うておるのだ!」と与党。
「大臣が言うから信用ならんのだ!」と野党。
田中の手が、懐へ行った。触れて、すぐに離れる。
そこにあるのは英国の役所の台帳の番号で、この議場で読み上げるわけにはいかない。紙というものは、出せる場所でしか効かないのだった。
「静粛に願います」と議長。
「議長、何をしておる!」と野党。
「議長に当たるな!」と与党。
島田議長はもう一度「静粛に――」と言いかけて、口を閉じた。
*
騒ぎの底で、与党の席のいちばん後ろに、手を挙げている議員が一人いた。
怒鳴ってはいない。名前を呼ばれて立ち上がり、演壇へは行かずに、その場で言った。
「一つだけ伺いたい。兵が戦死したら、誰が、どう責任を取るのですか。十年前の日露の戦役では、八万を超える兵が死んで、賠償金は一銭も取れなかった。怒った人々が日比谷で交番を焼いたのを、ここにいる皆さんは覚えておられるはずだ。同じことを、今度は地球の裏側で、連合国のためにやるおつもりか」
政府の味方のはずの席から出た問いで、議場は冷や水を浴びせられたように音を失った。
岡陸相が、首だけ回して田中を見る。
田中の手元には、答弁の下書きが四つある。金額のこと、議会の無い間に使ったこと、師団の行き先のこと、頼まれたかどうか。この問いに当てる紙は無い。
即席で答えを作ることは、できた。国のために倒れた者には、国が必ず報いる。だが十年前も、政府は同じことを言っている。遺族に何が渡ったかを、陸軍省にいた田中は知っていた。
それに田中は、この問いの「兵」の顔を、一人知っている。二月に少佐の辞令を出した真崎勇気である。進級の書類に付いていた身上書には、「父、明治三十七年八月、旅順にて戦死」とあった。父親を旅順で取られたその男を、田中は地球の裏側へ送り出し、一年で目処をつける、延びてももう一年じゃ、と口で約束した。紙には書いていない。
責任を取るのは誰か、と問われれば、送ると決めた陸軍で、その書類を起こした田中である。だがそれを議場で言えば、承諾は取れない。承諾が取れなければ、内閣は倒れ、師団の金は止まる。
田中は、黙っていた。
「答えろ!」
野党の誰かが言い、音が戻ってきた。承諾案は、決めきれないまま委員会へ差し戻しになった。
「日程第七」
議長が読み上げると、一人の議員が立った。
「議長が指名する九名の委員に、任せることを望みます」
「賛成! 賛成!」
細かいことは委員会で、という手続きの一言である。荒川五郎というこの議員は、日程第八でも第九でも、立ってはこの一言を言って座った。
散会のあと、田中は秘書官を連れて廊下へ出た。
「決まりませんでしたなぁ」
「あぁ」
「海軍さんも、ずいぶん叩かれておりました」
「海軍も出したとなれば、叩く側がどっちを叩けばええか迷うじゃろう、と思うたんじゃが」
「迷いましたか」
「野党の連中、陸も海も両方叩きよった」
*
六月三日、野党は内閣不信任案を出した。
これが通れば、大隈内閣は総辞職しなければならない。内閣が倒れれば、差し戻したままの承諾案は宙に浮き、地中海の一個師団の次の飯と次の弾を払う根拠が消える。田中は政府委員席で、背中に汗をかきながら座っていた。
理由は、中国との交渉である。一月に政府が中国へ突きつけた要求には、新聞によれば、もとは「第五号」という一組があった。中国の政府に日本人の顧問を入れ、警察も日本と一緒にやらせる、という最も強い一組で、それがいつのまにか消えている。
「肝心の第五号を、外国の顔色を見て引っ込めた! 弱腰外交だ!」と野党。
「おかげで北京で暴動も起きておらん! 協調外交だ!」と与党。
「協調ではない、言いなりだ!」と野党。
野党第一党、政友会の総裁の原敬が演壇に立った。
「第五号が、ある有力な外国の事情によって引っ込められたことは、もはや公然の秘密であります」
野党の席が拍手に沸く。その拍手の中から、誰かが叫んだ。
「引っ込めた代わりに、師団を差し出したんじゃないのか!」
「下衆の勘繰りだ!」と与党。
田中は、膝の上で指を組み直した。
勘繰りは、当たっている。一月、英国の大使は外務大臣に、第五号を引っ込めてくれるなら見なかったことにする、その代わりに一個師団を、と持ちかけた。その師団の書類を起こしたのが、田中である。
この議場でそれを知っている者は、政府の席にも数えるほどしかいない。
総理の大隈重信が、自ら演壇に上がった。七十七歳である。
「諸君の多くは若いから、感情に走って過ちを犯すこともある」
「いちばん年寄りの総理に言われたくない!」と野党。
議場じゅうが笑い、大隈は構わずに続けた。
「諸君は必ず後悔するのである!」
「出席三百六十五。賛成百三十三。反対二百三十二」
不信任案は否決された。
田中は、ようやく息を吐いた。一時間ほど、息を詰めていたような気がする。
廊下へ出ると、秘書官がぼそりと言う。
「今日もダメでしたなぁ」
「あぁ」
内閣が倒れなかったのだから、ダメではない。だが承諾案は、今日も一歩も進んでいなかった。
*
六月八日、野党はもう一度、不信任案を出してくる。今度の理由は、選挙のやり方である。
その日、初当選の
「諸君の中に、自分の野次をかえりみて、恥ずかしいと思わない者が、一人でもおりますか!」
「おるとも!」
議場じゅうが笑った。田中は笑えなかった。
ところが、いよいよ採決という段になって、進め方をめぐる揉め事が起きる。怒った野党の議員たちは、閉めかけた扉を押し開けて、ぞろぞろと出ていってしまった。
不信任案を出した当の本人たちが、である。
「出席二百三十。賛成三。反対二百二十七」
不信任案は、出した側が投票の前に帰ったので、三票で沈んだ。
「本日は時間が遅くなりましたので、これで散会いたします」
承諾案はその日も読まれず、同じ日程にあった、戦地へ出た兵の家族を救う建議も、後回しになった。
廊下へ出ると、秘書官が首をひねっていた。
「……日本の議会というのは、こうも決まらんものでしょうか。徳川の世のほうが、よほど早く決まったような……」
「おい、それを言うな」
その徳川を倒したのは薩摩と長州で、田中は長州の
*
六月九日、会期の最後の日に、承諾案は一人ずつ名前を呼んで投票することになった。
「議場を閉鎖いたします」
扉が閉まり、名を呼ばれた議員が一人ずつ、賛成なら白、反対なら青の札を箱へ入れていく。野党はみな青を入れた。与党の席からも、青を握って演壇へ上がる者が、一人、また一人と出る。あの最後列の議員も、その一人である。田中は青い札が落ちるたびに指を折り、途中で指が足りなくなった。
「出席三百五十八。賛成百九十一。反対百六十七」
承諾である。
田中は、今度こそ長く息を吐いた。
隣の秘書官が、声をひそめた。
「……決まりましたなぁ」
「あぁ」
拍手は起きなかった。師団の飯と弾を払う根拠は、これで残る。だが差し戻しの日のあの問いには、とうとう誰も答えていない。
「日程第十五、戦地へ出た兵の家族と、傷病兵と、戦病死者の遺族を救護する建議案」
前日に後回しになった
「……傷病兵や戦病死者の遺族は、いくらか恩典を受けられますけれども、これとて十分とは言えないのであります。まして戦地へ出た兵の家族には、何ひとつ与えられるものがないのであります……委員会は、満場一致で可決いたしました」
「ほかにご異議はありませんか」
荒川五郎が立った。
「本案は、委員長の報告どおり決めることを望みます」
「賛成! 賛成!」
「ご異議がないものと認め、そのとおり決定いたします」
建議というのは、議会から政府へ「こうしてほしい」と願い出るもので、政府がそれに従う決まりは無い。
田中は、時計を出さなかった。出さなくても、三十秒だと分かる。
帰ってこなかった者の家族のことは、三十秒で決まった。
反対した者は、一人もいない。