海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第百二十一話 紛糾、帝国議会

 田中義一は、懐中時計を三度出している。

 

 午後一時の開議のはずが、議長席はまだ空いたままである。

 

 議場は、きれいに二つに割れている。三月の総選挙で勝ち、大隈重信の内閣を担いでいる与党がおよそ二百十で、政府の案はとにかく通したい。原敬(はらたかし)の政友会と犬養毅(いぬかいつよし)の国民党を合わせた野党がおよそ百三十で、政府の案はとにかく叩きたい。

 軍務局長の田中の席は、陸軍大臣・岡市之助(おかいちのすけ)のすぐ後ろの列で、大臣が振り返ったときに答弁の紙を差し出すのが役目である。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 懐にも、紙が一枚入っている。英国の陸軍省は四月十七日に、日本の師団に後方の一切を任せることへ「異存ナシ」と判を押していた。その文書の番号を書いた、ロンドンの秋月からの電文の写しで、番号は先週のうちにムドロスへ打たせてある。

 

 一時五十一分、議長の島田三郎が入ってきた。

「体調が悪かったため、少々遅れました。このことを一言申し上げておきます」

 野党の席から、すかさず声が飛ぶ。

「少々じゃなくて一時間だろうが!」

 

 議場がどっと沸いた。九分ほど盛っておるな、と田中は思い、そんなものを数えている自分が可笑しくなった。

 

   *

 

「日程第六、大正四年勅令第十一号の承諾を求める件。委員長の報告を求めます」

 委員長が登壇して、紙を広げる。

 

「本案の委員は、去る二十九日に第四委員室に集まりまして――」

「短くやれ!」

「――質問と討論の結果、多数をもって――」

「聞こえんぞ!」

「――承諾を与えるべきものと決定いたしました」

「ご異議がなければ、委員長の報告どおり承諾いたします」

「異議なし!」

 

 ぱらぱらと拍手が起きて、それで片がついた。

 田中は時計を見ていた。三十秒である。何に使った金なのかを尋ねた者は、一人もいない。

 

 次に上がる案も、形は同じだった。議会が開けない間に政府が勝手に使った金を、あとから「使ってよかったことにしてくれ」と頼む、承諾の案である。違うところは二つあって、一つは番号が振られていないこと、もう一つは、使い道の欄に行き先が一字も書かれていないこと。

 地中海の一個師団の金だった。

 

「憲法第七十条による処分に関し、承諾を求める件」

 書記が読み終わるより先に、野党の席が総立ちになった。

 

「金額しか書いておらんじゃないか!」

「どこへ使った、言うてみろ!」

 野党の議員が演壇に駆け上がり、原稿を叩いた。

 

「政府は議会を解散しておいて、議会が無いから勅令で金を出した、と言う。自分で火を消しておいて、火が無いから暗い、と言うようなものであります!」

「そうだァ!」と野党。

「話を大きくするな!」と与党。

 

「一個師団が広島の宇品(うじな)から出ていった。その師団は、いまどこにおるのか!」

「守っておった艦は、逃げたそうじゃないか!」と野党。

「逃げたのではない、退いたのだ!」と与党。

「同じことだ!」と野党。

 

 田中の隣で、海軍の政府委員の背中が硬くなった。主力艦はすべて陸から見える場所を離れる、という五月二十七日の電信を、田中も読んでいる。新聞はそれを「金剛無事」と書き、議場ではそれが「逃げた」になる。

 

 与党の議員が弁護に立ち、欧州の情勢から説き起こして、いつまでも本題へ行き着かない。

 野党の席から声が飛んだ。

「原稿を読み上げとるだけじゃないか! そのまま速記に回せ!」

 今度は与党の席まで笑った。

 

 陸軍大臣の岡が、政府を代表して立ち上がる。

「作戦に関することは、この場では申し上げかねます。同盟を結ぶイギリスから正式な要請があったことは、すでに申し上げたとおりであります」

 

「頼まれた証拠を出せ!」と野党。

「大臣がそう言うておるのだ!」と与党。

「大臣が言うから信用ならんのだ!」と野党。

 

 田中の手が、懐へ行った。触れて、すぐに離れる。

 そこにあるのは英国の役所の台帳の番号で、この議場で読み上げるわけにはいかない。紙というものは、出せる場所でしか効かないのだった。

 

「静粛に願います」と議長。

「議長、何をしておる!」と野党。

「議長に当たるな!」と与党。

 島田議長はもう一度「静粛に――」と言いかけて、口を閉じた。

 

   *

 

 騒ぎの底で、与党の席のいちばん後ろに、手を挙げている議員が一人いた。

 怒鳴ってはいない。名前を呼ばれて立ち上がり、演壇へは行かずに、その場で言った。

 

「一つだけ伺いたい。兵が戦死したら、誰が、どう責任を取るのですか。十年前の日露の戦役では、八万を超える兵が死んで、賠償金は一銭も取れなかった。怒った人々が日比谷で交番を焼いたのを、ここにいる皆さんは覚えておられるはずだ。同じことを、今度は地球の裏側で、連合国のためにやるおつもりか」

 

 政府の味方のはずの席から出た問いで、議場は冷や水を浴びせられたように音を失った。

 

 岡陸相が、首だけ回して田中を見る。

 田中の手元には、答弁の下書きが四つある。金額のこと、議会の無い間に使ったこと、師団の行き先のこと、頼まれたかどうか。この問いに当てる紙は無い。

 

 即席で答えを作ることは、できた。国のために倒れた者には、国が必ず報いる。だが十年前も、政府は同じことを言っている。遺族に何が渡ったかを、陸軍省にいた田中は知っていた。

 

 それに田中は、この問いの「兵」の顔を、一人知っている。二月に少佐の辞令を出した真崎勇気である。進級の書類に付いていた身上書には、「父、明治三十七年八月、旅順にて戦死」とあった。父親を旅順で取られたその男を、田中は地球の裏側へ送り出し、一年で目処をつける、延びてももう一年じゃ、と口で約束した。紙には書いていない。

 

 責任を取るのは誰か、と問われれば、送ると決めた陸軍で、その書類を起こした田中である。だがそれを議場で言えば、承諾は取れない。承諾が取れなければ、内閣は倒れ、師団の金は止まる。

 田中は、黙っていた。

 

「答えろ!」

 野党の誰かが言い、音が戻ってきた。承諾案は、決めきれないまま委員会へ差し戻しになった。

 

「日程第七」

 議長が読み上げると、一人の議員が立った。

「議長が指名する九名の委員に、任せることを望みます」

「賛成! 賛成!」

 

 細かいことは委員会で、という手続きの一言である。荒川五郎というこの議員は、日程第八でも第九でも、立ってはこの一言を言って座った。

 

 散会のあと、田中は秘書官を連れて廊下へ出た。

 

「決まりませんでしたなぁ」

「あぁ」

 

「海軍さんも、ずいぶん叩かれておりました」

「海軍も出したとなれば、叩く側がどっちを叩けばええか迷うじゃろう、と思うたんじゃが」

「迷いましたか」

「野党の連中、陸も海も両方叩きよった」

 

   *

 

 六月三日、野党は内閣不信任案を出した。

 

 これが通れば、大隈内閣は総辞職しなければならない。内閣が倒れれば、差し戻したままの承諾案は宙に浮き、地中海の一個師団の次の飯と次の弾を払う根拠が消える。田中は政府委員席で、背中に汗をかきながら座っていた。

 

 理由は、中国との交渉である。一月に政府が中国へ突きつけた要求には、新聞によれば、もとは「第五号」という一組があった。中国の政府に日本人の顧問を入れ、警察も日本と一緒にやらせる、という最も強い一組で、それがいつのまにか消えている。

 

「肝心の第五号を、外国の顔色を見て引っ込めた! 弱腰外交だ!」と野党。

「おかげで北京で暴動も起きておらん! 協調外交だ!」と与党。

「協調ではない、言いなりだ!」と野党。

 

 野党第一党、政友会の総裁の原敬が演壇に立った。

「第五号が、ある有力な外国の事情によって引っ込められたことは、もはや公然の秘密であります」

 野党の席が拍手に沸く。その拍手の中から、誰かが叫んだ。

「引っ込めた代わりに、師団を差し出したんじゃないのか!」

「下衆の勘繰りだ!」と与党。

 

 田中は、膝の上で指を組み直した。

 勘繰りは、当たっている。一月、英国の大使は外務大臣に、第五号を引っ込めてくれるなら見なかったことにする、その代わりに一個師団を、と持ちかけた。その師団の書類を起こしたのが、田中である。

 この議場でそれを知っている者は、政府の席にも数えるほどしかいない。

 

 総理の大隈重信が、自ら演壇に上がった。七十七歳である。

「諸君の多くは若いから、感情に走って過ちを犯すこともある」

「いちばん年寄りの総理に言われたくない!」と野党。

 

 議場じゅうが笑い、大隈は構わずに続けた。

「諸君は必ず後悔するのである!」

 

「出席三百六十五。賛成百三十三。反対二百三十二」

 不信任案は否決された。

 田中は、ようやく息を吐いた。一時間ほど、息を詰めていたような気がする。

 

 廊下へ出ると、秘書官がぼそりと言う。

 

「今日もダメでしたなぁ」

「あぁ」

 

 内閣が倒れなかったのだから、ダメではない。だが承諾案は、今日も一歩も進んでいなかった。

 

   *

 

 六月八日、野党はもう一度、不信任案を出してくる。今度の理由は、選挙のやり方である。

 その日、初当選の本田親清(ほんだちかきよ)という議員が、与党も野党もまとめて叱りつけた。

 

「諸君の中に、自分の野次をかえりみて、恥ずかしいと思わない者が、一人でもおりますか!」

「おるとも!」

 

 議場じゅうが笑った。田中は笑えなかった。

 

 ところが、いよいよ採決という段になって、進め方をめぐる揉め事が起きる。怒った野党の議員たちは、閉めかけた扉を押し開けて、ぞろぞろと出ていってしまった。

 不信任案を出した当の本人たちが、である。

 

「出席二百三十。賛成三。反対二百二十七」

 

 不信任案は、出した側が投票の前に帰ったので、三票で沈んだ。

「本日は時間が遅くなりましたので、これで散会いたします」

 

 承諾案はその日も読まれず、同じ日程にあった、戦地へ出た兵の家族を救う建議も、後回しになった。

 

 廊下へ出ると、秘書官が首をひねっていた。

 

「……日本の議会というのは、こうも決まらんものでしょうか。徳川の世のほうが、よほど早く決まったような……」

「おい、それを言うな」

 

 その徳川を倒したのは薩摩と長州で、田中は長州の萩(はぎ)の生まれである。

 

   *

 

 六月九日、会期の最後の日に、承諾案は一人ずつ名前を呼んで投票することになった。

 

「議場を閉鎖いたします」

 

 扉が閉まり、名を呼ばれた議員が一人ずつ、賛成なら白、反対なら青の札を箱へ入れていく。野党はみな青を入れた。与党の席からも、青を握って演壇へ上がる者が、一人、また一人と出る。あの最後列の議員も、その一人である。田中は青い札が落ちるたびに指を折り、途中で指が足りなくなった。

 

「出席三百五十八。賛成百九十一。反対百六十七」

 承諾である。

 

 田中は、今度こそ長く息を吐いた。

 

 隣の秘書官が、声をひそめた。

「……決まりましたなぁ」

「あぁ」

 

 拍手は起きなかった。師団の飯と弾を払う根拠は、これで残る。だが差し戻しの日のあの問いには、とうとう誰も答えていない。

 

「日程第十五、戦地へ出た兵の家族と、傷病兵と、戦病死者の遺族を救護する建議案」

 前日に後回しになった建議(けんぎ)である。委員長が登壇した。

「……傷病兵や戦病死者の遺族は、いくらか恩典を受けられますけれども、これとて十分とは言えないのであります。まして戦地へ出た兵の家族には、何ひとつ与えられるものがないのであります……委員会は、満場一致で可決いたしました」

「ほかにご異議はありませんか」

 

 荒川五郎が立った。

「本案は、委員長の報告どおり決めることを望みます」

「賛成! 賛成!」

「ご異議がないものと認め、そのとおり決定いたします」

 

 建議というのは、議会から政府へ「こうしてほしい」と願い出るもので、政府がそれに従う決まりは無い。

 

 田中は、時計を出さなかった。出さなくても、三十秒だと分かる。

 

 帰ってこなかった者の家族のことは、三十秒で決まった。

 反対した者は、一人もいない。

 

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