海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
戦艦の消えた沖から、夜明け前に
曳いているのは小さな蒸気艇で、灯りは点けていない。昨日の朝まで、あの沖には英国の戦艦が並んでいた。いまは、暗い水が広がっているばかりである。
真崎勇気は、桟橋の端で艀が着くのを待っている。
足もとには、昨日揚げきれなかった水の缶が積んである。昼のあいだにビーチー・ビルからの砲弾を浴びて、半分ほどに穴が開き、下の砂が黒く濡れていた。
「少佐殿、来ましたけぇ」井坂徹中尉が言った。
艀から下りてくるのは、水の缶と石灰の樽と、それから木の箱である。焼印の無い、角を丸く落とした箱が、兵の手から手へ渡って砂の上に並んでいく。数えると、五十あった。
上海で積まれて、輸送船の船倉のいちばん奥に乗ってきた五十箱である。誰も開けないまま、ムドロスの倉庫に置いてあった。それを昨日の夕方、中身も分からないまま、どうせ戦場で使うものならと、電文一本で呼び寄せたのである。
バールを天板の隙間に差し込むと、釘は一本も曲がらずに抜けた。
中には、油紙で巻いた太い筒が隙間なく詰まっている。腕ほどの太さで、長さは三十センチほど。隣の箱を開けると、今度は真鍮の小さな部品が、おが屑の中に行儀よく並んでいた。
「……弾は、どこですかいね?」井坂が聞いた。
「入っとらん」
箱の底に、紙が一枚敷いてあった。見覚えのある、右上がりの細い字である。
――中身は二種類。煙幕の筒と、新しい弾の部品。
――筒からは霧が出る。風上で焚け。風下で焚くと、焚いた奴が霧に巻かれて、何が何だか分からなくなる。
――部品は、日本の臼砲の弾に付く。遅れて割れる。何秒で割るかは、そっちで決めろ。名はユラノスケ。
署名は無い。書かなくても分かるだろう、と書いた本人は思っているに違いない。
(上海の井川のやつ……。作るからには説明書をちゃんと書け、とあれほど言ったのに)
「この男、説明書いうもんを知らんのですか」井坂が言った。
「知っている。書く気が無いだけだ」
真崎は、最後の一行をもう一度読んだ。
「……ユラノスケ?」
「由良之助だな」
郷田龍一郎中佐が、後ろから紙を覗き込んでいる。いつからそこにいたのか、真崎は気づかなかった。
「中佐、ご存じで」
「
「遅れて割れる信管に、遅れて間に合わなかった男の名を付けたわけですか」
「縁起でもない」郷田は顎をさすった。「……いや、待て。割れるのは敵の頭の上か。すると縁起が悪いのは、向こうのほうだな。まあ、いいのか」
自分で言って自分で首をかしげている郷田を、井坂が口を押さえて見ていた。
真崎は紙を畳んで、懐へ入れる。
遅れた、とあの男は自分で言っているのかもしれない。何に遅れたのかまでは、紙のどこにも書いていなかった。
一方、オスマン軍の陣地。
「中尉殿。連合国の艀が一隻、夜明け前に浜へ入ってきました」
ガバ・テペの裏、オリーブの林に隠したオスマン軍の砲座で、双眼鏡を覗いたまま軍曹が言った。
「荷は」
「木の箱です。それと、水の缶」
同盟国オスマン軍の観測の中尉は、林の縁の穴に伏せて、北の浜を見下ろしていた。四月に連合国の兵が上がってきた、あの狭い浜である。
「あの鬱陶しい戦艦がいなくなってから、向こうは昼に艀を着けられなくなった」中尉は言った。「着ければ、ここから丸見えだからな」
「昨日までは、一発撃つたびに、戦艦の砲弾が返ってきましたが」
「その戦艦が、もう沖にいない。……昼の浜は、こっちのものだ」
昼を少し過ぎたころ、浜の真ん中で、白いものが噴き上がった。
「中尉殿! 浜の真ん中、桟橋の脇です!」
「……煙か」
煙は見る見る太くなって浜を包み、それから斜面のほうへ這い上がっていった。
「何でしょう。火事でしょうか」
「隠すための煙なら、風上で焚く。あれは風下だ。素人の仕事だな」中尉は双眼鏡を下ろした。「分からんが、あそこに敵がいるのは確かだ。煙の根もとに向けて撃て」
「はっ!」
*
昼過ぎに、試しに一本焚いてみることにした。
場所は浜の真ん中、桟橋の脇である。井坂が筒の頭の紐を引くと、シュウウウウ、と鳴って白い煙が噴き出した。煙は見る見る太くなって桟橋を包み、浜を包んでいく。
「こりゃあすごい!」井坂が筒を掲げた。「一本で、これだけの煙幕が張れるんですか!」
その煙が、斜面を這い上がっていった。
上の段で、咳が起きる。一人ではなく、段という段から、咳と罵声が降ってきた。
「ゴホッ、ゴホッ……なんだこりゃ! 毒ガスか!」
ラフティ軍曹が、顔を布で押さえて段を駆け下りてくる。
「……霧です」真崎は言った。
「霧で咳が出るかよ! 味方を燻しやがって、国際問題だぞ!!」
井坂は筒を抱えたまま固まっている。消し方は、紙のどこにも書いていなかった。
――ドオンッ!
ガバ・テペのほうで砲声がして、煙の根もとから二十メートルほど離れた砂が噴き上がった。二発目は、それよりも近い。
ビーチー・ビルが、煙の出どころを目当てに撃ってきている。浜を隠すはずの煙が、ここに何かいる、と向こうへ教えてしまったのである。
「砂をかけろ!」
兵がシャベルで砂をかぶせても、筒はしばらく煙を吐き続け、それからようやく黙った。
「風です、マサキ」
振り返ると、ケナード中尉が救護所の天幕の柱につかまって立っていた。昨日よりさらに頬がこけて、軍服が体から浮いている。
「ハリー、寝ていてくださいとあれほど……」
「寝ておりましたよ。煙で起こされました」ケナードは言った。「この浜は、朝のうちは陸から海へ吹きます。昼を過ぎると、海から陸へ吹き返す。真ん中で焚けば、斜面へ上がるだけです」
「……存じませんでした」
「一ヶ月ここで荷を揚げていれば、誰でも知っていることですよ」
斜面の段を歩いて測り、井戸の深さを測り、窪みの位置を測ってきた。風だけは、真崎は一度も測っていない。
ラフティはまだ咳き込みながら、砂に埋まった筒を見下ろしていた。それから、ガバ・テペのほうへ顔を向ける。
「……待てよ」
ラフティは言った。
「中尉。艀が昼に着けられねえのは、ガバ・テペから浜が丸見えだからだったよな」
「ええ。見えるから、撃たれる」ケナードが答えた。
「なら、見えなくしちまえばいい。こいつを何本も並べて焚けば、浜ごと消せるぞ」
「こちらからも、向こうが見えなくなりますがね」
「向こうを見る用事なんぞ無い!」ラフティは、筒を砂から掘り出して掲げた。「こっちは水を上げたいだけだ!」
ケナードの目にも、久しぶりに光が戻っている。
「風上に焚いて、煙の帯を、向こうの砲台とこの浜のあいだに立てる……。そういう置き方ができるなら、昼の荷揚げができるかもしれません」
「どこに立てればいいのです」真崎は聞いた。
「それは、荷揚げの連中に聞くのがいちばんだ」ラフティは言った。「毎日、あの砲台に撃たれながら浜を這い回ってんのは、あいつらだからな」
*
どこで焚くかを決めたのは、浜の荷揚げを仕切っているニュージーランドの軍曹である。ダウという名の、四十がらみの無口な男で、本国の港で二十年、荷を積んでいたという。
ケナードの説明を聞き終えると、ダウは黙って浜の南の端の岬を指さした。
「あそこで焚け。海から吹く風が、煙を岬に沿って奥へ運ぶ。ガバ・テペからこの浜を見る線を、ちょうど横切ってな」
「何本要りますか」
「あんたの筒が、一本で何分もつかによる」
「……それも存じません」
「なら、試せ。今度は向こうの岬でな」
真崎は、それ以上は何も言わなかった。言えることが無かったのもあるが、言わないほうがいいとも思った。
二時過ぎ、岬の岩陰で、筒が間を置いて一本ずつ焚かれていく。
シュウウウウ――。
白い煙は海からの風に押されて、岬に沿って斜面の奥へ流れていく。二本目、三本目と重なるうちに、浜とガバ・テペのあいだに、分厚い白い帯が一本立ち上がった。帯の向こうの岬は、もう見えない。
「艀を出せ!」
沖で待っていた艀が、昼の浜へ滑り込んでくる。水の缶が桟橋へ上がり、兵の肩に載って、斜面の段を上がっていく。日のあるうちに水が上がるのは、艦が去ってから初めてのことだった。
――ドオン!
ビーチー・ビルが撃つ。弾は帯の手前の海に落ちて、バシャアアッと白い柱を立てた。次の一発は帯を越えて、誰もいない砂を掘る。三発目は、また海である。
「当てずっぽうだな」ラフティ軍曹が、まだ赤い目のままで言った。「向こうには、ここに何かあるらしい、ってことしか分かりゃしねえ」
そう言ってから、にやりと笑う。
「こいつは、ファーフィーって呼ぼうぜ」
「ふぁー……?」井坂が首をかしげた。
「近ごろオーストラリアの兵のあいだで流行っている言葉で、噂のことです」ケナードが言った。「根も葉もない話を、彼らはファーフィーと呼ぶ。そこに何かあるように見えて、じつは何も無い。この筒にぴったりでしょう」
少し息を整えてから、続ける。
「……それと、彼らの国の宿営地で、水を運んでいた車の名前でもあります。兵はその車の周りに集まって、噂を回していたそうで」
井坂は、ファーフィー、と口の中で何度も転がしていた。
最後の筒が燃え尽きかけたころ、白い帯の端がほつれはじめた。
桟橋の手前では、最後の艀がまだ荷を下ろしている。
一方、オスマン軍の陣地。
「中尉殿。北の師団から、伝令です」
オリーブの林の穴で、軍曹が紙切れを差し出した。
「北の? うちの砲台は、あちらの持ち場ではないぞ」
「第十九師団の、ケマル中佐からだそうです。昼の中尉殿の報告を、あちらでもお読みになったと」
観測の中尉は、紙を開いた。短い文句が、二行だけ書いてある。
――煙を撃つな。煙が切れるのを待て。
――桟橋は、動かん。
中尉は、しばらくその二行を見ていた。
それから双眼鏡を上げる。白い帯の端がほつれて、その切れ目の奥に、桟橋の杭が一本、黒く覗いていた。
「照準、桟橋」中尉は言った。「……まだだ。切れ目が、もう少し開くまで待て」
*
――ドオン。
その一発だけが、薄れた煙の隙間を抜けてきた。砂と水の缶が一緒に跳ね上がり、缶を担いでいた兵が二人、桟橋の上に倒れる。
担架が走っていく。霧は、もう半分も残っていない。
ファーフィーが守れるのは、ファーフィーがそこにあるあいだだけである。
*
夕方、真崎は帳面を開いた。
焚いた筒は、試しの一本を入れて六本。上がった水の缶が百二十。桟橋で倒れた者が二人で、そのうち一人は、鵜飼軍医の天幕から戻ってこなかった。
それから筒の残りを数えて、日数で割る。昨日、弾でやったのと同じ割り算である。毎日焚けば、一ヶ月ももたない。
真崎は井坂を呼び、筒の箱の半分に白墨で印を付けさせた。
「焚くのは、印の無いほうだけだ。それも毎日は焚かん」
「節約ですか」
「それもある」
「……ほかには」
「秘密だ」
井坂はそれ以上聞かずに、印を付けた箱を奥へ運ばせた。
日が傾くころ、井坂が郵便の袋から封筒を一通抜いて、にやにやしながら持ってきた。
「少佐殿。東京の、奥様からですけぇ」
見慣れた字の宛名で、日付は四月二十日とある。コロンボから出した一通目への、返事だった。
――お手紙、拝見いたしました。水と馬と便所のことばかりで、まるで陸軍省の報告書のようでしたわ。
――東京はもう寒くありません。桜は散って、庭の楓が芽を出しました。
――夜会のお誘いは、みんなお断りしております。話の通じる方がいらっしゃらないと、退屈で仕方がありませんの。
――満州の文通のお相手が、面白いことを書いてまいりました。ペトログラードでは、パンと砂糖の値がずいぶん上がって、町の者が不平を言っているそうです。皇后さまのお側にいる、髭の長いお坊さんの噂も、ハルビンまで聞こえてくるとか。家の中が騒がしい国と同じ側で戦っていらっしゃるのですから、どうかお気をつけて。
――それから。
次の一行で、真崎の指が止まった。そこだけ、英語で書いてある。
――早くお帰りになって、広島の宿の晩のように、息もできないくらい強く、抱いてくださいまし。
「少佐殿、なんと書いてあるんです?」井坂が、肩越しに覗き込もうとする。
「……水のことだ」
真崎は手紙を畳んで、懐の奥へしまった。耳が熱い。
それから、箱の上で封筒を一枚使った。
――上海の友人から荷物が届きましたが、説明書が入っておりませんでした。
――そちらは、そろそろ梅雨でしょうか。
――お手紙の最後の一行へのご返事は、帰ってから、口で申し上げます。
封をすると、四十一枚が残った。
日が落ちてから、鵜飼稔に付き添われて、ケナードが担架で桟橋へ運ばれてきた。病院船へ回る艀に載せられるのである。
「ハリー!」
真崎は担架へ駆け寄った。灯りの無い桟橋でも、顔の色が抜けているのが分かる。
「顔が真っ青じゃないですか! なぜ、ここまで我慢したんです!」
「マサキ」ケナードが、担架の上から手を伸ばした。「すまない……。案内役が、先に帰ることになりました」
真崎はその手を握った。骨が浮いて、驚くほど冷たい。思わず強く握り返すと、ケナードは少し顔をしかめて、それから笑った。
「帰るのではありません。休みに行くのです」真崎は言った。「……必ず、戻ってきてください」
「風のことは、ダウ軍曹に聞いてください。私よりよく知っている」
「鵜飼。病院船の軍医に、よく頼んでおいてくれ」
「書いて持たせました」鵜飼が言った。
艀が暗い沖へ出ていく。灯りは点けていない。真崎は、その影が闇に溶けるまで、桟橋の端から動かなかった。
真崎は浜へ戻り、もう半分の箱の前に立った。ユラノスケの部品が、おが屑の中で鈍く光っている。
「少佐殿」井坂が、後ろから言った。「わしら、測量と便所と井戸のために来たんじゃ、なかったんですか」
「そのつもりだった」真崎は言った。「だが艦は行ってしまった。船も、当分は来ん。帰れんのなら、ここにいるあいだは、やれることを全部やる。井戸も、霧も、これもだ」
井坂は少し黙ってから、はい、とだけ答えた。
真崎は顔を上げた。夕闇の中に、稜線が黒く伸びている。
霧は、浜を隠すことができる。
だが、あの稜線の向こうへ落とせるものは、まだ何も無い。