海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第百二十二話 ファーフィー

 戦艦の消えた沖から、夜明け前に艀(はしけ)が一隻入ってくる。

 

 曳いているのは小さな蒸気艇で、灯りは点けていない。昨日の朝まで、あの沖には英国の戦艦が並んでいた。いまは、暗い水が広がっているばかりである。

 

 真崎勇気は、桟橋の端で艀が着くのを待っている。

 足もとには、昨日揚げきれなかった水の缶が積んである。昼のあいだにビーチー・ビルからの砲弾を浴びて、半分ほどに穴が開き、下の砂が黒く濡れていた。

 

「少佐殿、来ましたけぇ」井坂徹中尉が言った。

 

 艀から下りてくるのは、水の缶と石灰の樽と、それから木の箱である。焼印の無い、角を丸く落とした箱が、兵の手から手へ渡って砂の上に並んでいく。数えると、五十あった。

 

 上海で積まれて、輸送船の船倉のいちばん奥に乗ってきた五十箱である。誰も開けないまま、ムドロスの倉庫に置いてあった。それを昨日の夕方、中身も分からないまま、どうせ戦場で使うものならと、電文一本で呼び寄せたのである。

 

 バールを天板の隙間に差し込むと、釘は一本も曲がらずに抜けた。

 中には、油紙で巻いた太い筒が隙間なく詰まっている。腕ほどの太さで、長さは三十センチほど。隣の箱を開けると、今度は真鍮の小さな部品が、おが屑の中に行儀よく並んでいた。

 

「……弾は、どこですかいね?」井坂が聞いた。

「入っとらん」

 

 箱の底に、紙が一枚敷いてあった。見覚えのある、右上がりの細い字である。

 

 ――中身は二種類。煙幕の筒と、新しい弾の部品。

 ――筒からは霧が出る。風上で焚け。風下で焚くと、焚いた奴が霧に巻かれて、何が何だか分からなくなる。

 ――部品は、日本の臼砲の弾に付く。遅れて割れる。何秒で割るかは、そっちで決めろ。名はユラノスケ。

 

 署名は無い。書かなくても分かるだろう、と書いた本人は思っているに違いない。

 

(上海の井川のやつ……。作るからには説明書をちゃんと書け、とあれほど言ったのに)

 

「この男、説明書いうもんを知らんのですか」井坂が言った。

「知っている。書く気が無いだけだ」

 

 真崎は、最後の一行をもう一度読んだ。

「……ユラノスケ?」

 

「由良之助だな」

 郷田龍一郎中佐が、後ろから紙を覗き込んでいる。いつからそこにいたのか、真崎は気づかなかった。

 

「中佐、ご存じで」

「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)を知らん日本人がおるか」郷田は言った。「芝居の四段目だ。塩冶判官(えんやはんがん)が腹を切る。国元から家老の大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)が駆けつけるが、着いたときには、もう刀が腹に入っておる。判官は『待ちかねたわやい』と言うて死ぬ。それで、肝心なときに間に合わんことを『遅かりし由良之助』と言う」

 

「遅れて割れる信管に、遅れて間に合わなかった男の名を付けたわけですか」

「縁起でもない」郷田は顎をさすった。「……いや、待て。割れるのは敵の頭の上か。すると縁起が悪いのは、向こうのほうだな。まあ、いいのか」

 

 自分で言って自分で首をかしげている郷田を、井坂が口を押さえて見ていた。

 

 真崎は紙を畳んで、懐へ入れる。

 遅れた、とあの男は自分で言っているのかもしれない。何に遅れたのかまでは、紙のどこにも書いていなかった。

 

 一方、オスマン軍の陣地。

 

「中尉殿。連合国の艀が一隻、夜明け前に浜へ入ってきました」

 ガバ・テペの裏、オリーブの林に隠したオスマン軍の砲座で、双眼鏡を覗いたまま軍曹が言った。

「荷は」

「木の箱です。それと、水の缶」

 

 同盟国オスマン軍の観測の中尉は、林の縁の穴に伏せて、北の浜を見下ろしていた。四月に連合国の兵が上がってきた、あの狭い浜である。

「あの鬱陶しい戦艦がいなくなってから、向こうは昼に艀を着けられなくなった」中尉は言った。「着ければ、ここから丸見えだからな」

「昨日までは、一発撃つたびに、戦艦の砲弾が返ってきましたが」

「その戦艦が、もう沖にいない。……昼の浜は、こっちのものだ」

 

 昼を少し過ぎたころ、浜の真ん中で、白いものが噴き上がった。

「中尉殿! 浜の真ん中、桟橋の脇です!」

「……煙か」

 煙は見る見る太くなって浜を包み、それから斜面のほうへ這い上がっていった。

「何でしょう。火事でしょうか」

「隠すための煙なら、風上で焚く。あれは風下だ。素人の仕事だな」中尉は双眼鏡を下ろした。「分からんが、あそこに敵がいるのは確かだ。煙の根もとに向けて撃て」

「はっ!」

 

   *

 

 昼過ぎに、試しに一本焚いてみることにした。

 

 場所は浜の真ん中、桟橋の脇である。井坂が筒の頭の紐を引くと、シュウウウウ、と鳴って白い煙が噴き出した。煙は見る見る太くなって桟橋を包み、浜を包んでいく。

 

「こりゃあすごい!」井坂が筒を掲げた。「一本で、これだけの煙幕が張れるんですか!」

 

 その煙が、斜面を這い上がっていった。

 

 上の段で、咳が起きる。一人ではなく、段という段から、咳と罵声が降ってきた。

 

「ゴホッ、ゴホッ……なんだこりゃ! 毒ガスか!」

 ラフティ軍曹が、顔を布で押さえて段を駆け下りてくる。

 

「……霧です」真崎は言った。

「霧で咳が出るかよ! 味方を燻しやがって、国際問題だぞ!!」

 

 井坂は筒を抱えたまま固まっている。消し方は、紙のどこにも書いていなかった。

 

 ――ドオンッ!

 

 ガバ・テペのほうで砲声がして、煙の根もとから二十メートルほど離れた砂が噴き上がった。二発目は、それよりも近い。

 ビーチー・ビルが、煙の出どころを目当てに撃ってきている。浜を隠すはずの煙が、ここに何かいる、と向こうへ教えてしまったのである。

 

「砂をかけろ!」

 兵がシャベルで砂をかぶせても、筒はしばらく煙を吐き続け、それからようやく黙った。

 

「風です、マサキ」

 振り返ると、ケナード中尉が救護所の天幕の柱につかまって立っていた。昨日よりさらに頬がこけて、軍服が体から浮いている。

 

「ハリー、寝ていてくださいとあれほど……」

「寝ておりましたよ。煙で起こされました」ケナードは言った。「この浜は、朝のうちは陸から海へ吹きます。昼を過ぎると、海から陸へ吹き返す。真ん中で焚けば、斜面へ上がるだけです」

 

「……存じませんでした」

「一ヶ月ここで荷を揚げていれば、誰でも知っていることですよ」

 

 斜面の段を歩いて測り、井戸の深さを測り、窪みの位置を測ってきた。風だけは、真崎は一度も測っていない。

 

 ラフティはまだ咳き込みながら、砂に埋まった筒を見下ろしていた。それから、ガバ・テペのほうへ顔を向ける。

 

「……待てよ」

 ラフティは言った。

「中尉。艀が昼に着けられねえのは、ガバ・テペから浜が丸見えだからだったよな」

「ええ。見えるから、撃たれる」ケナードが答えた。

「なら、見えなくしちまえばいい。こいつを何本も並べて焚けば、浜ごと消せるぞ」

 

「こちらからも、向こうが見えなくなりますがね」

「向こうを見る用事なんぞ無い!」ラフティは、筒を砂から掘り出して掲げた。「こっちは水を上げたいだけだ!」

 

 ケナードの目にも、久しぶりに光が戻っている。

「風上に焚いて、煙の帯を、向こうの砲台とこの浜のあいだに立てる……。そういう置き方ができるなら、昼の荷揚げができるかもしれません」

 

「どこに立てればいいのです」真崎は聞いた。

「それは、荷揚げの連中に聞くのがいちばんだ」ラフティは言った。「毎日、あの砲台に撃たれながら浜を這い回ってんのは、あいつらだからな」

 

   *

 

 どこで焚くかを決めたのは、浜の荷揚げを仕切っているニュージーランドの軍曹である。ダウという名の、四十がらみの無口な男で、本国の港で二十年、荷を積んでいたという。

 ケナードの説明を聞き終えると、ダウは黙って浜の南の端の岬を指さした。

 

「あそこで焚け。海から吹く風が、煙を岬に沿って奥へ運ぶ。ガバ・テペからこの浜を見る線を、ちょうど横切ってな」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「何本要りますか」

「あんたの筒が、一本で何分もつかによる」

「……それも存じません」

「なら、試せ。今度は向こうの岬でな」

 

 真崎は、それ以上は何も言わなかった。言えることが無かったのもあるが、言わないほうがいいとも思った。

 

 二時過ぎ、岬の岩陰で、筒が間を置いて一本ずつ焚かれていく。

 

 シュウウウウ――。

 

 白い煙は海からの風に押されて、岬に沿って斜面の奥へ流れていく。二本目、三本目と重なるうちに、浜とガバ・テペのあいだに、分厚い白い帯が一本立ち上がった。帯の向こうの岬は、もう見えない。

 

「艀を出せ!」

 

 沖で待っていた艀が、昼の浜へ滑り込んでくる。水の缶が桟橋へ上がり、兵の肩に載って、斜面の段を上がっていく。日のあるうちに水が上がるのは、艦が去ってから初めてのことだった。

 

 ――ドオン!

 

 ビーチー・ビルが撃つ。弾は帯の手前の海に落ちて、バシャアアッと白い柱を立てた。次の一発は帯を越えて、誰もいない砂を掘る。三発目は、また海である。

 

「当てずっぽうだな」ラフティ軍曹が、まだ赤い目のままで言った。「向こうには、ここに何かあるらしい、ってことしか分かりゃしねえ」

 そう言ってから、にやりと笑う。

「こいつは、ファーフィーって呼ぼうぜ」

 

「ふぁー……?」井坂が首をかしげた。

 

「近ごろオーストラリアの兵のあいだで流行っている言葉で、噂のことです」ケナードが言った。「根も葉もない話を、彼らはファーフィーと呼ぶ。そこに何かあるように見えて、じつは何も無い。この筒にぴったりでしょう」

 

 少し息を整えてから、続ける。

「……それと、彼らの国の宿営地で、水を運んでいた車の名前でもあります。兵はその車の周りに集まって、噂を回していたそうで」

 

 井坂は、ファーフィー、と口の中で何度も転がしていた。

 

 最後の筒が燃え尽きかけたころ、白い帯の端がほつれはじめた。

 桟橋の手前では、最後の艀がまだ荷を下ろしている。

 

 一方、オスマン軍の陣地。

 

「中尉殿。北の師団から、伝令です」

 オリーブの林の穴で、軍曹が紙切れを差し出した。

「北の? うちの砲台は、あちらの持ち場ではないぞ」

「第十九師団の、ケマル中佐からだそうです。昼の中尉殿の報告を、あちらでもお読みになったと」

 観測の中尉は、紙を開いた。短い文句が、二行だけ書いてある。

 ――煙を撃つな。煙が切れるのを待て。

 ――桟橋は、動かん。

 

 中尉は、しばらくその二行を見ていた。

 それから双眼鏡を上げる。白い帯の端がほつれて、その切れ目の奥に、桟橋の杭が一本、黒く覗いていた。

「照準、桟橋」中尉は言った。「……まだだ。切れ目が、もう少し開くまで待て」

 

   *

 

 ――ドオン。

 

 その一発だけが、薄れた煙の隙間を抜けてきた。砂と水の缶が一緒に跳ね上がり、缶を担いでいた兵が二人、桟橋の上に倒れる。

 担架が走っていく。霧は、もう半分も残っていない。

 

 ファーフィーが守れるのは、ファーフィーがそこにあるあいだだけである。

 

   *

 

 夕方、真崎は帳面を開いた。

 

 焚いた筒は、試しの一本を入れて六本。上がった水の缶が百二十。桟橋で倒れた者が二人で、そのうち一人は、鵜飼軍医の天幕から戻ってこなかった。

 それから筒の残りを数えて、日数で割る。昨日、弾でやったのと同じ割り算である。毎日焚けば、一ヶ月ももたない。

 

 真崎は井坂を呼び、筒の箱の半分に白墨で印を付けさせた。

「焚くのは、印の無いほうだけだ。それも毎日は焚かん」

「節約ですか」

「それもある」

「……ほかには」

「秘密だ」

 井坂はそれ以上聞かずに、印を付けた箱を奥へ運ばせた。

 

 日が傾くころ、井坂が郵便の袋から封筒を一通抜いて、にやにやしながら持ってきた。

「少佐殿。東京の、奥様からですけぇ」

 見慣れた字の宛名で、日付は四月二十日とある。コロンボから出した一通目への、返事だった。

 

 ――お手紙、拝見いたしました。水と馬と便所のことばかりで、まるで陸軍省の報告書のようでしたわ。

 ――東京はもう寒くありません。桜は散って、庭の楓が芽を出しました。

 ――夜会のお誘いは、みんなお断りしております。話の通じる方がいらっしゃらないと、退屈で仕方がありませんの。

 ――満州の文通のお相手が、面白いことを書いてまいりました。ペトログラードでは、パンと砂糖の値がずいぶん上がって、町の者が不平を言っているそうです。皇后さまのお側にいる、髭の長いお坊さんの噂も、ハルビンまで聞こえてくるとか。家の中が騒がしい国と同じ側で戦っていらっしゃるのですから、どうかお気をつけて。

 ――それから。

 

 次の一行で、真崎の指が止まった。そこだけ、英語で書いてある。

 ――早くお帰りになって、広島の宿の晩のように、息もできないくらい強く、抱いてくださいまし。

 

「少佐殿、なんと書いてあるんです?」井坂が、肩越しに覗き込もうとする。

「……水のことだ」

 真崎は手紙を畳んで、懐の奥へしまった。耳が熱い。

 

 それから、箱の上で封筒を一枚使った。

 ――上海の友人から荷物が届きましたが、説明書が入っておりませんでした。

 ――そちらは、そろそろ梅雨でしょうか。

 ――お手紙の最後の一行へのご返事は、帰ってから、口で申し上げます。

 封をすると、四十一枚が残った。

 

 日が落ちてから、鵜飼稔に付き添われて、ケナードが担架で桟橋へ運ばれてきた。病院船へ回る艀に載せられるのである。

 

「ハリー!」

 真崎は担架へ駆け寄った。灯りの無い桟橋でも、顔の色が抜けているのが分かる。

「顔が真っ青じゃないですか! なぜ、ここまで我慢したんです!」

「マサキ」ケナードが、担架の上から手を伸ばした。「すまない……。案内役が、先に帰ることになりました」

 真崎はその手を握った。骨が浮いて、驚くほど冷たい。思わず強く握り返すと、ケナードは少し顔をしかめて、それから笑った。

「帰るのではありません。休みに行くのです」真崎は言った。「……必ず、戻ってきてください」

「風のことは、ダウ軍曹に聞いてください。私よりよく知っている」

「鵜飼。病院船の軍医に、よく頼んでおいてくれ」

「書いて持たせました」鵜飼が言った。

 

 艀が暗い沖へ出ていく。灯りは点けていない。真崎は、その影が闇に溶けるまで、桟橋の端から動かなかった。

 

 真崎は浜へ戻り、もう半分の箱の前に立った。ユラノスケの部品が、おが屑の中で鈍く光っている。

 

「少佐殿」井坂が、後ろから言った。「わしら、測量と便所と井戸のために来たんじゃ、なかったんですか」

「そのつもりだった」真崎は言った。「だが艦は行ってしまった。船も、当分は来ん。帰れんのなら、ここにいるあいだは、やれることを全部やる。井戸も、霧も、これもだ」

 井坂は少し黙ってから、はい、とだけ答えた。

 

 真崎は顔を上げた。夕闇の中に、稜線が黒く伸びている。

 

 霧は、浜を隠すことができる。

 だが、あの稜線の向こうへ落とせるものは、まだ何も無い。

 

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