海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「あいつら、地面の中から掘り進める気だな」
五月二十八日の夜。同盟国オスマン軍、第十九師団の塹壕で、師団長のムスタファ・ケマル中佐が、隣の尾根を見ながら言った。
隣の尾根は、第五師団の持ち場である。そこから夜ごとに兵が列を作り、土嚢を担いで斜面の裏へ下りていく。
「掘った土を担いで来ているのです」付いてきたセリム大尉が言った。「この三日、毎晩です」
「上から登れば、十九日と同じことになる……機関銃に撃たれて死ぬ」師団長は言った。「だから、下から行く。向こうの塹壕の真下まで掘って、火薬を詰めて、吹き飛ばす」
「……いつになるでしょうか?」
「今夜は、土嚢の列が短い」師団長は、隣の尾根から目を離さなかった。「おそらく掘り終わったのだ。今夜か、明日の朝だろう」
セリムは、列の長さなど数えていなかった。数えていなかったことに、そこで気づいた。
「うまくいくでしょうか」
「穴を開けるのは、うまくいく」師団長は言った。「開けた穴を、朝まで持っていられるかどうかだ」
しばらく、二人とも黙っていた。
「師団長殿。一つ、ご報告を」セリムが言った。「休戦の日に、日本の将校と話しました。十九日の夜、左の窪みに砲弾を落としてきたのは、あの男です。マサキ、と名乗りました」
「日本の」師団長は、少し考えた。「休戦の日に、担架を担いで、歩幅を一度も乱さずに斜面を往復していた男がいた。……あれか」
「おそらく」セリムは言った。「向こうにも、地面を読む者がおります」
師団長は、少しだけ間を置いた。
「そうか」
それから、胸の時計を出して一度見て、しまった。
「……そいつは、厄介だな」
*
ケナードを乗せた
浜から六段目までは、昼なら二十分の道だが、灯りを使えない夜は、その倍かかる。前を行く井坂徹中尉が、段の縁で足を探りながら、ときどき小声で数を数えていた。
「何を数えている」
「段です。少佐殿の真似をしてみたんですが」井坂は言った。「……十四で分からんようになりました」
「段は、七つしかないぞ」
「……ほいじゃあ自分は、何を数えとったんでしょう」
後ろで箱を担いでいる兵が、声を殺して笑った。
六段目の井戸の少し下に、日本製の臼砲が二門据えてある。撃つのはオーストラリアの砲手たちで、三日前に真崎と一緒に窪みを撃った顔ぶれだった。
真崎は、箱から部品を一つ取り出して、砲手の伍長に見せた。
目盛りの数字は、漢字である。
「これは、何と書いてあるんです」オーストラリアの伍長が、輪を指で叩いた。
「秒です。一から十二まで」
「読めませんな」
伍長は腰から釘を一本抜いて、真崎が読み上げる数を、漢字の横にアラビア数字で一つずつ刻んでいった。
「で、こいつの名前は」
「ユラノスケ、というそうです」
「ユア……ア・ニューサンス?」
伍長が聞き返すと、隣の若い砲手が噴き出した。You're a nuisance――お前は厄介者だ、と聞こえたらしい。
「はっはっ! いいじゃないか」伍長は言った。「窪みの連中にとっちゃ、厄介どころじゃ済まんだろうがな」
砲手たちは口々に、ニューサンス、ニューサンス、と言い合って肩を揺らしている。
真崎は、訂正しなかった。由良之助の話を英語でするなら、判官が腹を切るところから始めなければならず、至極面倒だったからだ。
何秒にするかは、真崎の帳面に手がかりがあった。
三日前、この二門で窪みを撃ったとき、真崎は懐中時計を出して、撃ってから土が噴き上がるまでを計っている。三百五十メートルで、八秒と少し。窪みの真上で割るなら、それより一秒ほど早く割ればいい。
「七秒」真崎は言った。
「
夜のうちに、試しに三発撃つことにした。暗ければ、割れたときの閃光で高さが分かる。
――ドンッ!
窪みのはるか上、星の高さで、ぱっと火の花が咲いた。ばらばらと破片の落ちる音が、ずいぶん遅れて届く。
「
「八」
「
二発目は、閃光が見えなかった。土の中でくぐもった音がして、窪みの縁のあたりが、少し持ち上がった気配がしただけである。
「
「七と半分」真崎は言った。
「半分なんて目盛りは無いぞ!」
「七と八のあいだに回してください。目盛りに無くても、輪は回ります」
伍長は舌打ちをして、自分で刻んだ七と八のちょうど真ん中に、爪で傷を一つ付けた。
――ドンッ!
三発目は、窪みの縁の、人の背丈の三倍ほど上で光った。一拍遅れて、ザアッと、夕立の降りはじめのような音が斜面の向こうから返ってくる。
「
真崎は帳面に、七と半分、と書いた。伍長は、爪の傷の上をもう一度釘でなぞって、深くした。
夜半を過ぎると、斜面は静かになった。
ラフティ軍曹が、妙なものを抱えて段を下りてきた。小銃の銃床に木の枠が括りつけてあり、枠の上下に小さな鏡が一枚ずつはめ込んである。
「潜望鏡付きの銃だ。浜の大工あがりの上等兵がこしらえた」ラフティは言った。「頭を壁の下に沈めたまま下の鏡を覗いて、紐で引き金を引く」
「……自分に、一挺もらえませんか」井坂が言った。「国へ持って帰って、砲工学校で見せたいんです」
「余りはある。やるよ」ラフティは言った。「昼に見せてくれたファーフィーと交換だ。咳の分は、まけといてやる」
井坂はその銃を抱いたまま、壁にもたれて眠ってしまった。真崎も臼砲の脇で、少しうとうとしていた。
――ズズン。
音は、足の下から来た。
体が浮くような揺れがあり、壁の土がぱらぱらと落ちてくる。谷のいちばん奥のポスト――敵の塹壕と十メートルほどしか離れていない、アンザックの最前線の陣地のあたりで、土の柱が夜空へ立ち上がっていた。
「坑道だ!」ラフティが怒鳴った。「下から掘ってきやがった!」
三時半である。
奥のポストから、叫び声と爆弾の破裂音が立て続けに降ってくる。ドン、ドン、ドン。崩れた塹壕の中へ、向こうの爆弾が放り込まれている。
照明弾が上がる。ぱっと空が白くなり――三秒で消えた。
その三秒で、真崎は見た。
稜線の裏から谷筋を下りてきた影が、例の窪みに溜まっている。奥のポストへ入った者の、後に続こうとする者たちだ。これまで、どの砲からも手の出せなかった場所である。
「窪みへ!」真崎は叫んだ。「七と半分!」
「
――ドンッ! ドンッ!
二門が続けて撃った。棒が後ろへ飛び、弾が夜空へ回りながら上がっていく。
ヒュルルルル――パァンッ!
窪みの真上で、火の花が開いた。一拍遅れて、ザアアッと雨の降るような音が斜面を叩く。
――パァンッ! ザアアアッ!
「次!」
「
砲手たちは弾の頭に部品をねじ込み、輪を爪の傷に合わせ、砲口へ落とし込む。オーストラリアの手と、日本の臼砲と、上海から来た真鍮が、一つの動きになって回っていく。
一方、窪みの底。
「頭を下げておけ! ここには機関銃が届かん。十九日の晩もそうだった」
セリムの中隊の曹長が、兵を窪みの奥へ押し込んでいた。前のポストへ飛び込んだ組に続く、二番手である。三十人ほどが、底の土に腹をつけて合図を待っている。
――ドンッ! ドンッ!
向こうの斜面で、くぐもった音が二つ鳴った。
「来るぞ! 砲弾だ!」
兵が一斉に顔を土に押しつける。十九日の晩、この窪みに落ちてきた砲弾は、みな地面で割れた。伏せていれば、破片は頭の上を抜けていく。
ところが、いつまで待っても、弾が地面を叩く音がしない。
「……ん?」
曹長が、顔を上げかけた。
――パァンッ!
頭の真上で、空気が裂けた。見上げた夜空に、火の花が開いている。一拍遅れて、灼けた鉄の破片が、雨のように窪みの底へ降ってきた。伏せた背中に、首に、腰に。
「上だ! 上で割れたぞ!」
「散開! 散開ッ! 窪みから出ろ!」
だが、窪みから斜面へ抜ける道は、一人ずつしか通れない細い谷筋が一本きりである。三十人が一度に這い上がれる幅ではない。兵がもつれ合い、押し合うところへ――
――パァンッ! ザアアアッ!
二発目が、同じ高さで開いた。
「伏せても駄目だ! 出れば機関銃だぞ!」
誰かの叫びが、三発目の破裂音にかき消される。
曹長は窪みの縁に手を掛けたところで、背中を灼けた鉄に叩かれ、底へ転がり落ちた。
*
十発を過ぎたころ、窪みから出てくる影が途切れた。
代わりに、斜面の下のほうで、何かが這っている。
撃つたびに、臼砲は砲口から火を噴く。その火が、ここに何かいる、と向こうへ教えていたのだ。
「来るぞ。十人ほどだ。爆弾持ちだな。臼砲を黙らせに来た」
いつのまにか、郷田龍一郎中佐が真崎の横にいた。土嚢の上に銃身を据えて、ぶれないように構えている。その銃の上に、見慣れない細い筒が一本載っていた。
「中佐、それは」
「望遠の照準器だ。イギリスの将校が、狩りに使っとったのを持ってきておった」郷田は筒から目を離さずに言った。「休戦の日にもらった煙草と換えた」
「……セリムの煙草を、ですか」
「俺はあまり吸わんからな」
「ですが中佐、夜は暗くて、照準器では何も見えんと」
「照明弾の三秒は、昼と同じだ」
照明弾が上がる。
――パンッ。――パンッ。
三秒のあいだに、郷田は二度撃ち、筒の中で十字に重なった影が、二つ止まった。次の照明弾でも、その次でも、止まる影は一つずつ増えていった。
それでも、全部は止まらない。
黒い球が一つ、闇の中から弧を描いて飛んできて、臼砲の脇に落ちた。
「伏せろッ!」
――ドンッ!
土と鉄が跳ねた。伍長は腕を押さえて転がり、その向こうで、ユラノスケを聞き違えて一番に噴き出した若い砲手が、うつ伏せのまま動かなくなっていた。
壁の上に、人影が立った。
オスマン兵が一人、塹壕の中へ飛び降りてくる。着地した場所が、ちょうど真崎の目の前だった。軍刀も拳銃も、抜く暇が無い。
真崎の手が掴んだのは、井坂が抱えて寝ていた潜望鏡銃だった。
ガシャン、と鏡の枠が男の頭で砕けた。
男がよろめく。真崎は潜望鏡銃を放り出し、壁に立てかけてあった砲手の小銃を掴むと、死んだ砲手の腰から銃剣を抜いて、銃口の下へ叩き込んだ。カチリ、と留め金が鳴る。
男が、体勢を立て直して掴みかかってくる。
真崎は、その胸へ突き入れた。
手応えは、思っていたよりずっと鈍く、重い。男の体が、銃剣の先で真崎のほうへ倒れかかってくる。
真崎は小銃を握ったまま踏み込み、その重みごと、男を塹壕の底へ押し倒した。男の背中が土を打つ。袖を一度だけ掴んできた手が、ゆっくりと離れていく。
銃剣を抜いたとき、男はもう動かなかった。
しばらく、真崎は小銃を握ったまま立っていた。
人を突いたのは、初めてである。精神で突撃するな、弾で戦え、と言い続けてきた男が、鏡で殴って、銃剣で突いた。
「……だから言うたろう」郷田が、次の弾を込めながら言った。「銃剣は、当たらんときに使うものだ」
その言葉が終わらないうちに、壁の上にもう一つ人影が立った。
郷田は弾を込めかけた小銃をくるりと持ち替え、腰の銃剣を抜いて着けると、飛び降りてきた男の胸を下から突き上げた。そのまま銃を振り上げる。男の体は、干し草でも放るように、ひょいと壁の向こうへ消えていった。
「このようになあッ!」
郷田は、何事も無かったように照準器を覗き直した。
「貴様の銃剣捌きも、なかなかじゃないか」
真崎は、何も言い返せなかった。
「撃て!」伍長が、片腕で装填しながら怒鳴った。「まだ一門は生きてるぞ!」
臼砲が、また撃ちはじめる。窪みの上で、火の花が開く。
――オスマンの攻撃が止まった。
夜が白みはじめたころ、奥のポストのほうから長い歓声が上がった。
「マサキ! ニューサンスのおかげだ! ブラボーだ!」
ラフティが、泥だらけの顔で段を下りてきた。
「窪みの連中が来なかったから、奥のポストは、中へ入った奴らだけ片付けりゃよかった。あいつらが来てたら、ポストは今ごろ向こうのもんだ」
*
朝になって、こちらの数が届いた。
「三十三だ」ラフティが言った。「奥のポストで死んだ、うちの兵の数だ。最初の爆発で、塹壕ごと生き埋めになったのが十一。掘り出したときにゃ、みんな息をしてなかった」
ラフティは、その先を言わなかった。
臼砲の脇では、あの若い砲手の上に、毛布が掛けてある。その少し先の塹壕の底には、真崎が突いた男が、何も掛けられないまま横たわっていた。
真崎は、井坂の潜望鏡銃を拾い上げた。
上の鏡は割れて、半分しか残っていない。壁の下に頭を沈めたまま、下の鏡を覗くと、ひびの入った鏡が窪みを映していた。
鏡の中は、朝の光で明るい。
塹壕のすぐ外の斜面に、郷田が放った男が、うつ伏せに転がっている。その先の窪みの底に、昨夜の影たちが、そのまま残っていた。上から降ったものを、身を伏せる場所の無い地面で受けたのである。動いているものは、一つも無い。
鏡を持つ手が、細かく震えていた。止めようとして、真崎は止められなかった。
真崎は鏡から目を離し、銃を井坂に返した。
「……もろうたばかりなんですが」
「すまん」
臼砲の脇では、伍長が、包帯を巻いた腕で、爪の傷を釘でもう一度なぞっている。
「マサキ。こいつは、あと何晩撃てる」
「部品の残りからすると、夏の半ばまでです」
「夏の半ばか」伍長は、釘をしまった。「ニューサンスは、本当にいい仕事をしたな」