海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「そんな手間をかけるのか」
戸口で
南満州、奉天から北へ七十キロほどの
この土地の井戸の水は、いわゆる硬水である。石灰が溶けているのだそうだ。
そのまま茶を淹れると、湯の面に薄い膜が張る。油を一滴落としたような、光の当たり方で虹に見える膜である。色は赤茶けて濁り、香りが立たない。口に入れると、味が平たい。
最初は茶葉が悪いのだと思ったが、上海から持ってきた、いい茶葉である。そうなると、疑うところは水しか残らない。
一度沸かして、冷ましてから淹れるとよい。真崎からの手紙に、そう書いてあった。
やってみると、膜は薄くなり、濁りも少し引いた。それでも、上海で飲んでいた茶とは、どこかが違う。
「教わったのよ」
「誰に」
「秘密」
李河は、それ以上聞かなかった。
線路の両側の、決められた幅の内側は、
その幅の外へ一歩出ると、井戸の水が硬い。
依頼主は、奉天の中国人の地主が三人である。この半年、痩せた土地ばかりが次々に人手へ渡っていて、買い手の名義はいつも中国人だが、金の出どころが同じらしい。地元の探偵はどこも請けず、上海まで話が回ってきた。
「なぜ、あんな土地を欲しがるのか分からん」
三人が三人とも、同じことを言った。分からないから、気味が悪い。
四つの土地を回った。
どれも水が悪く、硬いか、鉄気がある。麦は育つが、いい麦にはならない。
どれも、いまの線路から遠い。
そしてどれも、川と川のあいだの、少し高いところにあった。
「痩せてるなぁ」李河が土を握って崩した。「売り手が喜んで売る土地だ」
「買い手は、なぜ喜んで買うの」
「知らん。俺は買わん」
昼は
赤黒い粒で、炊くとぼそぼそして、噛むと粉っぽい。この街へ来てから三日続いていたが、李河は黙って食っていた。この男は、出された物に文句を言ったことがない。
「やっぱり上海のメシがいいなぁ」
「あなたが言うと思わなかった」
「言ってはいない。思っただけだ」李河は言った。「いま口から出たが」
愛玲は箸を置いて、遠くを見ながら長く噛んでいた。
「どうした」李河が言った。「元気がないな」
「……さすがのあなたにも分かるのね」愛玲は言った。「振られちゃったのよ」
「誰に」李河は箸を止めた。「お前に、そんな相手がいたのか」
「ええ」
「聞いていないぞ」
「言ってないもの」愛玲は湯呑みを持った。「やっぱり、この仕事をやってると、いろいろ難しいわね」
「そりゃ、そうだな」
李河は、それきり何も聞かなかった。
この男は昔から、聞かないことで人を扱う。
*
登記を確かめるために、日本の会社の役所へ入れるはずもないと思っていたが、入れた。向こうが会いたがっていたからである。
南満洲鉄道株式会社の調査部に、
卓の上に、綴りが一冊出してあった。
「去年の秋から、同じ形の話が二十件ばかり並んでおります」戸倉は言った。「土地の売り買いです。売り手は別々。買い手も別々の名義です。ですが、話の運び方が同じだ」
「同じ、とは」
「値の付け方と、証人の立て方です」戸倉は言った。「同じ人間が教えた手順です」
「表にして、上役に出しました」戸倉は綴りを指で叩いた。「上役の机に載ったきり、三月になります」
「反対されたのですか」
「反対は、ありません」戸倉は言った。「反対する人がいれば、誰かが誰かに文句を言いに行くので、話は上へ行きます。誰も反対しなければ、そこで止まる。……異存の無いものは、上がりません」
愛玲は、その言い方を頭に置いた。
どこの国の役所も、同じことを言うらしい。
「日本の方は、この辺りの土地を買えるのですか」愛玲は聞いた。
戸倉は、初めて顔を上げた。
「買えませんし、借りることもできません。線路の両側の、決められた幅の中だけです」戸倉は言った。「――それが、今までの決まりでした。二十五日から、変わります」
北京で、条約が結ばれたのだという。
――日本国の臣民は、南満洲において、商工業の建物を建てるため、また農業を営むために必要な土地を、
そういう定めのようだった。
「商租、とは」
「この条約のために作られた言葉です」戸倉は言った。「意味は、日本と中国で、たぶん違います。……いずれにしても、日本の金が入って、土地の値段は上がるでしょうね」
愛玲は、卓の綴りを見た。
去年の秋から、二十件。
「では、去年の秋から買っていた人は」
「上がる前の安い時期に、うまく買った、ということになります」
「上がると、知っていたのね」
「知らなければ」戸倉は言った。「あんな土地は、買わないでしょう」
戸倉は、もう一枚出した。地図である。
買われた土地に、二十個ばかりの印がつけてあった。
愛玲がその印を目でつないでいくと、二本の線になった。
「線路の形をしています」
「はい」
「でも、ここに線路はありませんよね」
「ありません」
「いつ、通るんですか?」
戸倉は、地図を裏返して、しまった。
「通るとは、誰も言っておりません」
「そ、そうね……失礼しました」
「いえ。そろそろ、こちらからのお願いごとをしても?」
「えぇ……どのようなご用件で?」
「買っている人間の名前を、調べていただきたい」戸倉は言った。「私は満鉄の人間です。会社の者が線路の幅の外で土地のことを聞いて回れば、会社が嗅ぎつけたと、その日のうちに買い手の側へ伝わる。次の日からは、誰も売り買いをしなくなります。あなたは中国の方で、地主に雇われた凄腕の探偵……というところまでは知っています。あちらは、あなたには話します」
愛玲は、卓の上の綴りと地図を見た。
「今日お見せになったものが、お代というわけね」
「そうです」
「お調べして、どうなさるおつもり? そんな紙を回しても、手柄にはならないでしょう」
「なりません。上役に嫌がられるだけです」戸倉は、裏返したままの地図を指で押さえた。「ですが、線路が通れば、その下の土地を条約より前に誰が買っていたかは、必ず分かります。そのとき、会社はこう言います。誰も気づかなかった、と」
「嘘ね」
「嘘です。私が気づいております」戸倉は言った。「ですが、紙が無ければ、嘘のほうが通ります」
愛玲は、そこで一つ思い当たった。
「……気づいていた人が一人だけいて、その人が何も書いていなかった、ということになると」
「私が、内通していたことになります」
戸倉は、初めて少しだけ間を置いた。
「日付の入った紙が一枚あれば、それは言えなくなる。私の利益は、そこだけです」
「ずいぶん、後ろ向きな利益ね」
「調べたことを書かないのなら、調査部にいる意味がありません」
「よくわからないけど、依頼は引き受けたわ。ちょっと時間はもらう」
愛玲は、この男の顔をもう一度見た。
笑わない理由が、少し分かった気がした。
*
二十五日の夕方、付属地の側が少しだけ賑やかになった。
役所の前に掲示板が出され、人が集まっている。日本語の話し声が、いつもより大きく聞こえる。
愛玲と李河は、幅の外の側から、それを見ていた。
「九十九年だそうだ」李河が言った。「大日本帝国が旅順と大連を借りている年限を、九十九年に延ばした。鉄道も同じだ」
「なぜ、百年ではないの」
「百と書くと、返さないと言っているのと同じになる」李河は言った。「九十九なら、いつか返す気があるように見える」
愛玲はその理屈を二度なぞって、どちらでも同じだと思った。
九十九年後に生きている人間は、この道に一人もいない。
「北京では、五月の九日を
「もっと荒れると思っていたわ」
「日本の貼り紙が、何枚か破られた程度だ」李河は言った。「一番強い第五号――日本人を政府の顧問に入れて、警察も一緒にやるという一組が、五月のはじめに落ちたからだろう。日本が自分から引っ込めたそうだ」
愛玲は、湯呑みを持ったまま考えた。
「そういえば、日本の北京に対する要求をイギリスが止めた、という話は聞いたわ」
「あぁ」李河は言った。「どうせ、高杉先生が一枚絡んでいるんだろう」
「マスターが」愛玲は言った。「……まあ、そうね」
「あなたは、腹が立たないの」
「立つさ」李河は言った。「だが、誰に腹を立てればいい。いまの中華民国は、俺たちの清国を滅ぼした連中だぞ」
愛玲は答えなかった。
朝廷が無くなったとき、父と母は殺された。殺したのは、新しい国を作った側の人間である。日本人ではなかった。
家が無くなったあと、残ったのは、隣で立っているこの男だけで、生き延びるには、この男から拳を教わるほかなかった。
掲示板が下ろされ、人が散っていった。
宿へ戻ると、机の上に、手紙が一通、置いたままになっていた。
四月に届いてから、六週間になる。
書きかけて途中でやめた紙が、机の下に二枚あった。
愛玲は、灯りを近くへ寄せた。
指の腹が硬い。銃を撃つ稽古を続けているからである。上海で真崎と潮崎に教わって以来、まだ一度も休んでいない。
筆を持った。
――水の話、試しました。少しましになりました。
そこで一度止めて、それから続けた。
――友でよいと書いてありましたが、こちらはまだ決めておりません。
そこまで書いて、また止まった。
止まったまま、最後に一行だけ足した。
――また会いたかったのに。あの日みたいに、骨が鳴るくらい強く、もう一度抱いてほしかった。
最後の二文字だけ、中国語である。
日本の辞書には出ていない。あの男のことだから、必ず誰かに訳させるだろう。訳せる者が近くにいれば、
少しだけ違う。もっと柔らかい。子供や、近しい者に向けて言う言い方である。
訳せる者がいなければ、二文字のまま残る。それでもよかった。
封をして、宛名を書いた。
上海を経由させると遅い。それに、あの男は軍人である。軍の郵便に乗れば、どこを通しても、中身は検閲の係に読まれるだろう。どうせ誰かが読むのなら、早いほうがいい。東京の軍務局気付で出すことにした。
読まれて困ることは、書いていない。最後の一行を除けば。
あの男は、いま戦地にいる。届くのは、ずいぶん先になるだろう。
*
鉄嶺から東へ七百キロ、ウラジオストクである。
埠頭には、東部戦線のロシア陸軍へ送る木箱が山と積んである。半分は行き先の書かれた弾薬箱で、もう半分は何も書かれていない日本の小銃の箱だった。役所を通さない取引で、東京で柏木丈二が話をつけたものである。同じ連合国の側に立つロシアは銃が足りず、動員した兵の三人に一人にしか渡っていないという。
川口たけ――咲夜は、その数字を先月買った。情報を安く買って、高く売るのが、咲夜の商いである。
日本人町の外れ、看板のない二階の一室。卓に茶が二つ、客の分まで頼んである。客は、この前と同じ椅子に座った。
ヴォルコフ。去年まで東京のロシア大使館にいた書記官で、
二月に、咲夜はその話を安値で買っている。
「サンクトペテルブルクは、貴方をお呼びになりまして?」
「――まだだ。それと……いまは、ペトログラードという。ドイツ語の響きが混じっているというので、戦争が始まってすぐに改めた」
名前を変えても、街は同じ場所にある。呼び戻されたと言っている男も、なぜかまだ同じ椅子に座っている。
「それに、いまの都は、呼ばれて喜んで帰る場所ではない」ヴォルコフは言った。「パンの列に並んだ女たちが、店の硝子に石を投げる。工場では、戦争をやめろと刷った紙が、手から手へ回っている」
「物騒ですこと」
「シベリアのほうもだ。去年の暮れには、国会の議員が五人、戦争に反対したというだけで、向こうへ流された」ヴォルコフは、茶の湯気を見ていた。「だが、シベリアの鉄道は、兵と弾を西へ運ぶので手一杯で、流刑地の見張りまでは手が回らん。流された連中は、勝手に手紙をやりとりして、勝手に仲間を増やしている」
「貴方は、どちらへ」
「西だ。おそらく、ストックホルムあたりだろう」ヴォルコフは言った。「あそこでは、ドイツの金で、ロシアの革命屋を養おうとしている男がいるそうだ。それを見張れと言われるのか、それに加われと言われるのかは、まだ分からん」
「……今のお話は、お代に入りまして?」
「世間話だ。帳面に書くなら、勝手に書け」
「今日は、売りに参りましたわね」
「分かるか」
「買いに来る方は、先に茶を飲みますの」
ヴォルコフは、茶に手をつけていなかった。
「東京の大使館の金ではない金が、二年のあいだ動いていた」ヴォルコフは言った。「運んだのは、私だ」
「お受け取りになったのは」
「日本の方だ」
「お名前は」
「知らん」
咲夜は、指を動かさなかった。
「本当に知らんのだ」ヴォルコフは言った。「私は運んだだけだ。顔も見ておらん。知っているのは、渡した場所と、回数と、額の刻み方だけだ」
咲夜は、指を一本立てた。
この街では、それで値が通る。咲夜の指の一本は、百ルーブルである。
「一つか」ヴォルコフは言った。「その値では、ひと月ももたん」
「さすがに、それだけでは」咲夜は言った。「お受け取りになった方のお名前が分かれば、買い手はつきます。場所と回数には、つきませんの」
ヴォルコフは、しばらく茶を見ていた。
それから頷いた。大使館からの給金は、二月で止まっている。
話し終えて、ヴォルコフは立ち上がった。
「一つ、ただで付けておこう」
「伺いますわ」
「二年のあいだ、一度も遅れなかった」
咲夜が、初めて顔を上げた。
「遅れる、と申しますと」
「役所の金は、必ず遅れて支払われる」ヴォルコフは言った。「戦争が始まってからは、なおのことだ。三ヶ月遅れることもある。……それでも、あれは一度も遅れなかった」
咲夜は、しばらく黙っていた。
「……一か、二かで悩んでおりました」
「は」
「間を取って、一と半分でいかが」
「契約成立だ」
咲夜は、百五十ルーブルを卓に置いた。
ヴォルコフはそれを懐へ寄せて、静かに出ていった。
咲夜は帳面を開いた。
二月に書いた名前がある。まだ買い手はついていない。
その下に、行を足した。場所。回数。額の刻み方。少し離して、ストックホルム、とも書いた。
最後に、もう一行書いた。
――一度も遅れず。
書いてから、値を消して、書き直した。前より高い値だった。