海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
電信室から上がってきた紙を、潮崎拓馬は二度読んだ。
宛名は金剛ではなく、ムドロスの日下部中将、今回の派兵の総指揮官である。陸軍の師団には遠くまで届く無電が無いので、東京からの電報は、海軍の艦を中継して回っていく。中継する者は、読まずに回すのが決まりである。それでも、短い電文は一目で読めてしまう。
――貴師団ノ任務、後方ニ偏スルノ嫌アリ。議会ノ手前、相応ノ戦果ヲ期待ス。
潮崎は、日下部という人の顔を知らない。だが「議会の手前」の四字で、東京の誰かが困っていることだけは分かった。井戸を掘り、便所を作り、死者を埋めている師団に、何か派手なものを一つ持ってこい、と言っているのだ。
紙を伏せたところへ、二枚目が来た。今度は恩田大佐からである。
――海峡ノ口、ヘラス沖ニ油一筋。底ニ座ル者一隻アリト認ム。
潮崎は顔を上げた。
海の底に、動けない潜水艦が一隻いる。今夜のうちに見つけて、押さえておかなければ、明日には海峡の奥へ逃げ込まれてしまうだろう。
「艦長」
「読んだ」松岡秀二艦長は、艦橋の窓から夕方の海を見ていた。「恩田の掃海艇は、もう出とる」
信号員が、もう一枚持って上がってきた。英軍からの回覧である。
「英国の戦艦が、また潜水艦にやられたそうです。……もっとも、客船に板を張ったハリボテの戦艦だったそうですが」
艦橋に、低い笑いが広がった。
松岡は、笑わなかった。
「……うちのは本物じゃが、動けん」
五月二十七日から、主力艦は陸から見える場所に置いてはならないことになっている。金剛は、この泊地の網の中で十日、じっとしていた。
「潮崎」
「はい」
「英軍のお達しじゃ。主力艦は、陸から見える所に置くな、とな」松岡は言った。「……陸から見えん所、というのは、どこだと思う」
「……沖、でしょうか」
「夜だ」松岡は言った。「夜は、陸から何も見えん」
「艦長。それは、英軍通達の読み方として――」
「わしの
松岡は、それ以上言わせなかった。
「恩田の掃海艇が、あの口で夜通し索を曳く。駆逐艦は潜水艦を追って散っとる。重い砲を持っとるのは、この海に、うちしかおらん。……錨を上げい」
英軍の回覧に書いてあることは、この十日で暗記するほど読んだ。主力艦は潜水艦の的になる。陸から見える海域へ出すな。出ていた二隻は、現にトライアンフとマジェスティックである。
その禁を、この艦長は夜という一語で跨ごうとしている。しかも避けるためではなく、潜水艦のいる海へ、自分から入っていくためにである。
この人は、潜水艦を狩りに行くつもりだ。潮崎は、そう思った。
「
「両舷前進微速ゥ!」
*
海峡の口は、真っ暗だった。
右に半島の先、左にアジアの岸。どちらにも灯りは一つも無い。その間の黒い水の上を、恩田の掃海艇が二隻、索を一本渡して並んで進んでいる。
今夜の索は、機雷を切るためではなく、海の底の潜水艦に当てるために曳いている。トライアンフの日に潮崎が甲板で見た黒い缶が、九つ括りつけてあった。
出る前に、恩田は潮崎に言っていた。
「索を通した場所しか掃けん、と前に言うたな。今夜は、索を通した場所しか分からん。端から順に、一本ずつ潰す」
「当てて、どうなさるのです」
「犬の散歩だ」恩田は言った。「トライアンフの日に見せたろう。あの日は、向こうの座っとる場所が分からんかった。今夜は、油が教えてくれとる」
そのためには、速く走れば索が浮いてしまうので、遅くなければならない。曲がれば索がたるむので、まっすぐでなければならない。そして、畑を鋤くように、同じ海面を端から順に往復するしかない。
金剛は、その掃海艇の沖側を、同じ速さで、同じ向きに這っていた。
二万七千トンの巡洋戦艦が、漁船の歩き方をしている。機関の音が、足の裏でしか分からないほど小さかった。
二往復目の半ばで、掃海艇の探照灯が一度だけ点いて、すぐ消えた。
合図である。
――ゴツン。
音は聞こえなかった。だが、掃海艇が揺れたのが、双眼鏡の中で見えた。索が、海の底で何かを噛んだのだ。
掃海艇の上で、誰も声を出していない。
見つけた、ということである。
岩ではない。索が触れているのは鉄で、その鉄は、海の底に腹をつけて座っている。
しばらくして、索の張った先の海面に、泡が上がりはじめた。
ポコ、ポコ、と間を置いて浮いてくる。向こうも、上に何かいることに気づいたのだ。
だが、泡は同じ場所から上がり続けていた。
動かない。
なぜ逃げんのか、と潮崎は思った。気づいたなら、這ってでも場所を変えるはずである。変えないのは、変えられないからだろう。
海の底で、何かが壊れている。
出る前に、恩田はこうも言っていた。引っ掛けても、すぐには火を入れない。索を少しずつ緩めて、九つの爆薬を相手の背中に載せる。それまでに、十五分はかかる、と。
潮崎は、懐中時計を出した。
五分が過ぎ、八分が過ぎる。泡は、同じ場所から上がり続けている。
十分。
*
「海峡ノ奥ニ、影ッ!」
見張りの声が、裏返った。
海峡の奥から、低い影が出てくる。灯りを点けていない。一つ、二つ、三つ――四つ。細く、低く、煙突が二本ずつ。
「オスマン海軍です!」潮崎は叫んだ。「駆逐艦、四隻ッ!」
その形を、潮崎は知っていた。五月十三日の夜、ヘラスの沖に一隻だけ入ってきて、英国の戦艦を一隻沈めて帰っていった艦と、同じ型である。
あの夜は一隻だった。今夜は、四隻いる。
潮崎は、海の底の泡を見た。それから、四つの影を見た。
迎えに来たのだ。動けなくなったドイツの潜水艦を、夜のうちに海峡の中へ連れ込むために。
「副砲、左砲戦!」
「左砲戦ェン!」
――ドオンッ! ドオンッ!
間髪いれずに副砲が撃ちはじめた。影の手前に、白い水柱が立つ。次は影の向こうに立った。
当たらない。
四つの影のうち、一つが向きを変えた。金剛ではない。掃海艇のほうへ、まっすぐ突っ込んでいく。
「掃海艇へ行くぞッ!」見張りが叫んだ。
「恩田の掃海艇を守りに行く!」松岡が怒鳴った。「恩田の前に出るぞ!」
「艦長、陽動かもしれません!」潮崎は言った。「潜水艦が一隻だけとは限りません。回覧には、この一週間でもう一隻、海峡へ入ったとあります。広い海へ出れば、トライアンフと同じ、餌食です!」
「構わん! 迷っとるうちに、恩田が撃たれる」松岡は言った。「戦艦は、魚雷を一本くらっても何とかなる。掃海艇は、一発で木っ端微塵だ。――両舷前進いっぱい、面舵!」
「両舷前進いっぱーい!」
二万七千トンが、身をよじるように向きを変えはじめる。だが、巨きな艦が回りきるより、小さな駆逐艦のほうがずっと速かった。
――ドンッ! ドンッ!
駆逐艦の小さな砲が火を噴いた。恩田の乗る一番艇の横腹に、赤い火花が散る。二発目が、その艦橋をかすめた。
探照灯の中で、掃海艇がゆっくりと傾いていく。
「索を切れ!」誰かが叫んだ。「切って、逃げろ!」
掃海艇の探照灯が、点いて、消えて、また点いた。
潮崎が読んだ。
――索、放サズ。
恩田の信号だった。
索を切れば、海の底の一隻を見失う。見失えば、あの駆逐艦たちに連れていかれる。傾いた掃海艇の上で、恩田は索を離さないと言っているのだった。
三月の海峡で、トロール船の船尾に斧を括りつけた英国の男がいた。いつでも索を切って逃げてよい男が、逃げないことを選んだ。今夜は、日本の掃海艇がそれを選んでいる。
松岡が、海図台を拳で一度だけ殴った。
「……掃海艇の、傾きは」
「十五度! まだ浮いております!」
掃海艇の探照灯が、また明滅した。さっきより、ずっと遅い。一字ずつ、手探りで打っているような間である。
――潮崎ヘ。掃海ノ重要サ、広メテクレ。
潮崎は、読み上げようとして、声が出なかった。
――ズドォンッ!
駆逐艦の主砲の弾が、掃海艇の真ん中に飛び込んだ。艇が内側から膨らむように火を噴き、燃え上がった火柱が、探照灯よりも明るく海を照らす。
索の反対の端を持っていた、隣の掃海艇から、探照灯が瞬いた。
――一番艇、大破。索ハ、二番艇ニテ保持ス。
松岡は、海図台に置いた拳を、開かなかった。
「一番、二番、目標、向かってくる駆逐艦!」
「目標、右の駆逐艦ッ!」
「三番、四番、目標、向こう側の駆逐艦!」
「目標、奥の駆逐艦ッ!」
「駆逐艦ごとき、さっさと沈めろッ! ――
――ズゴォォォォン!!
金剛の主砲が、前と後ろで一斉に火を噴いた。だが、小さく速い影のまわりに白い柱が林のように立つばかりで、当たらない。
「貴様らァッ!」砲術長が、伝声管に怒鳴り込んだ。「あんな細っこい駆逐艦一隻に、何発無駄にしとる! さっさと当てんかいッ!」
*
四つの影のうち、別の一つが、金剛と二番艇のあいだへ回り込んできた。
潮崎は、その位置の意味が分かった。あそこから魚雷を撃てば、金剛に届く。金剛がかわそうと舵を切れば、その先に二番艇がいる。
二万七千トンの艦は、自分の足もとの小さな掃海艇を轢かずには、前へも横へも、一歩も動けないのだった。
「駆逐艦、発射管をこちらへ向けます! 距離八百!」
「かわしますか!」航海長が叫んだ。
「恩田の掃海艇を轢いたりはせん」松岡は言った。「両舷後進いっぱい、取舵いっぱい! 左の後ろへ回り込む。それしか無い」
「両舷後進いっぱーい! 取舵いっぱーい!」
足の下で、機関が逆に回りはじめる。だが、前へ進んでいた二万七千トンが止まり、後ろへ走り出すまでには、長い時間がかかる。
「距離、六百!」
「右舷後方、灯火ッ!」
見張りが叫んだ。
「後ろじゃと……?」松岡が振り返った。「イギリスの艦か?」
――シュゥゥゥン。
頭の上を、何かが通り過ぎた。
――ドォオーンッ!
金剛と二番艇のあいだに回り込んでいた駆逐艦が、魚雷の発射管のあたりから火を噴き上げた。燃え上がった駆逐艦が、自分の炎で周りの海面を赤く照らしている。その光の中で、残りの三隻の艦影が、初めてはっきりと見えた。
潮崎は、右舷後方を振り返る。
水平線の向こうで、探照灯が一本、まっすぐ空へ立っていた。光の柱が、一度倒れて、また立つ。短く、長く、短く。信号である。
「いや……」潮崎は、光の明滅を目で追った。「あれは――」
――ワレ、比叡。
六月の上旬にムドロス着、と聞いていた。その艦が、ムドロスではなく、ここにいる。
そして、弾を撃った音が、弾よりも後から届いた。
――ズゴォォォォ――ン!!
腹に来る音だった。金剛が自分で撃つときと、同じ音である。三月の海峡で、潮崎はこの音を何十回と聞いた。だが、自分の足の下からではなく、遠い闇の向こうから聞くのは、初めてだった。
次の一撃は、残った三隻のいちばん手前の、すぐ鼻先に落ちた。
白い柱が、駆逐艦のマストよりも高く上がって、崩れる。その駆逐艦が、大きく傾いて舵を切った。
残った三つの影が、初めて、揃って向きを変えた。
艦橋の誰も、声を出さなかった。
松岡は、窓の外を見たまま、笑いもせずに言った。
「……ネジの付いとらん男が、来よった」
水平線の探照灯が、もう一度、短く長く瞬いた。
――比叡、助太刀イタス。