海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
サイフォンが音を立てている。
真崎勇気は、紫檀の長椅子に深く身を沈めたまま動けなかった。手元のコーヒーはもはや湯気を立てるのをやめ、漆黒の静面を保っている。乃木の遺書。「東行先生」への手紙。石油という二つ目の黒い血。夜明けからこの方、積み重なった衝撃の質量が、今も真崎の思考を重く圧し潰し続けている。
「真崎よ。陸軍の秀才殿が、そんな顔で固まっておってはどうしようもないぞ」
高杉晋作は、いたずらっぽく目を細めた。老英雄は机の上に広げられた世界地図を一瞥し、手近な小道具をひとつずつ取り上げた。
「いいか。世界を動かしておるのは、正義でも条約でもない。この『形』じゃ」
高杉は、自らが飲んでいたティーカップを地図のイギリスの位置へと静かに置いた。白磁の底がコトリと鳴る。
「これが、大英帝国だ。カイロ、ケープタウン、カルカッタ……アフリカの南端から印度洋をぐるりと囲い込んで、世界を仕切っておる。シンガポールも、香港も、わしらが今いるこの上海の租界も、このカップの縁の上に乗っかっておるに過ぎん」
次に高杉は、黒光りする万年筆を取り出し、ドイツ帝国の位置に置いた。
「対するドイツのカイザーは、この壁をぶち抜こうとしておる。ベルリンから、バグダードまで。陸の鉄道で、中東へ真っ直ぐ鉄の棘を突き刺すつもりじゃ」
高杉は万年筆の尾栓を指先でギリギリと回した。黒い筒の先端から鋭い金ペン先がせり出し、地図の上を滑って、ティーカップの縁にカツリと硬くぶつかった。
「この衝突点に何があるか分かるか。……メソポタミアの砂の下に眠る、『石油』じゃ」
真崎は息を呑んだ。
「チャーチルは、つい先日、イギリス艦隊の燃料を石炭から石油へ切り替えると決めた。船は速くなり、主砲は大きくなる。その代わり、イギリスは死んでも中東の油田を手放せなくなった。……これが、今まさに欧州で始まろうとしている大戦の、本当の正体じゃ」
真崎の声がかすれた。
「艦隊が石油で動くならば、いずれ陸の兵站もすべて石油に依存することになる。自動車、飛行機……。だが、我が国にあるのは越後に僅かに湧く油田程度だ。我らは、戦う前に干上がる」
「ほう」
高杉は、真崎の青ざめた顔をしばらく黙って眺めた。値踏みするような、確かめるような目だった。
「三宅坂の連中がその計算式に辿り着くのは、二十年先の話じゃ。……お前は今、自分の頭でそれを組み立てた」
高杉は、節くれだった指を赤道直下のある一帯へとゆっくり滑らせた。
「蘭印じゃ。イギリスは石油が欲しいが、欧州の戦に縛られて、極東まで守る余裕がない。オランダは油田を持っとるが、守る軍がない。そして日本は、軍はあるが、国を回す油がない。……この三つの欠けは、ちょうど割符のように噛み合う」
真崎は、三点を頭の中で結んだ。
「……日英同盟に、オランダを組み込む。日英蘭三国同盟、ということか」
「さすがじゃ」
高杉は初めて、心底嬉しそうに目を細めた。
「乃木が見込んだだけのことはあるのう」
それから、万年筆の先で、地図の右の端――太平洋の向こうを、軽く叩いた。
「油の蛇口を他人に握られた国は、いずれ、蛇口を握った国と戦う羽目になる。三十年先、その相手はおそらく、あの国じゃ」
アメリカ。
真崎は、口の中が乾いていくのを感じた。
「わしらが影でやっとるのは、それを曲げる仕事じゃ。蛇口を、仲間の手に握らせておく。……そうすりゃ、この国は、滅びの道を歩かずに済む」
「……高杉先生。あんたの描く図面は、余りにも奇麗すぎる」
真崎は、冷え切ったカップを机に置いた。
「昨年のカリフォルニアを見てみろ。排日の法を平然と通した連中が、有色人種と対等に組むはずがない。連中は日本を、『番犬』ではなく『狂犬』としてしか見ない」
「日英同盟は、もう十二年続いておる。あれは愛情か?」
高杉は、微塵も揺るがなかった。
「外交とは、愛の告白ではない。互いの『絶望』を縫い合わせる作業じゃ。恐怖は、愛よりも遥かに強い接着剤よ」
論理は分かる。だが、綺麗な論理の裏には必ず汚い代価がある。
「……そのパズルを組み合わせるための、代価は何ですか」
「鋭いな」
高杉の目が、笑わなくなった。
「イギリスが我々に求めとるのは、武士道でも精神性でもない。機関銃の十字砲火の前に、何万人死のうが文句を言わずに、規律正しく突っ込んでいく。……安上がりな『肉の壁』としての値打ちじゃ」
部屋の空気が、凝固した。
「……肉の、壁」
宇品港の岸壁が、脳裏を過った。万歳の声と、傷病兵の白い包帯。士官学校の教室に届いた、父の戦死の報せ。
「……旅順で死んでいった俺たちの父親は、その『肉の壁』だったと、そう言うのですか」
「そうじゃ」
高杉は静かに、しかし容赦なく言い切った。
「義和団のとき、北京で柴五郎の部隊は、最も少ない兵で、最も長く持ちこたえた。白人どもはそれを見て初めて、わしらを同盟に値する相手と認めた。その二年後に、日英同盟が結ばれた。……席は、血で買うたんじゃ。欧州の席も、同じ値札がついとる」
真崎は、冷え切ったコーヒーをようやく一口啜った。冷えても苦い。むしろ冷えた方が苦い。
「……俺は」
声が、低く掠れた。
「父と同じ死に方を、兵にさせるつもりはない」
高杉は、しばらく黙っていた。
それから、にやりと笑った。
「なら、別の払い方を考えい。血で払わん席の取り方をな。……それを考えるのが、お前の仕事じゃ」
高杉は満足げに三味線を手に取った。
「毎週日曜はここに来い。陸軍の教科書で作られた心身を、裏の作法で鍛え直してもらう。魔都の闇を生き抜くための作法をな」
静寂の中、ベンベンと力強い弦の音が響いた。
真崎はその音を、黙って聞いていた。
少しだけ種明かしを。
高杉が語った「義和団事件の柴五郎」は実在の人物です。
北京籠城戦で最も少ない兵力で最長期間守り抜いた柴中佐の奮戦は、列強の武官たちに「日本陸軍の真価」を刻み込んだと言われます。
高杉が「だから英国は同盟を結んだ」と言い切れる根拠がここにあります。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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