海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
見知らぬ天井だった。
真崎勇気は、鈍い頭痛と共に意識を取り戻した。全身の筋肉が軋むように痛む。昨夜の記憶が、二日酔の重だるい脳裏に断片的に蘇ってくる。路地裏の蜘蛛の巣のような追跡。袋小路。七名の青龍刀。そして、頭上から降ってきた鋼鉄の三味線。
身を起こすと、そこは豪奢な紫檀の長椅子の上だった。部屋の空気には、上質な白檀の香りが薄っすらとただよっている。少なくとも、昨夜私費をはたいて予約したアスター・ハウス・ホテルの部屋ではない。
(……せっかくの最高級ホテルを取ったというのに、一泊分の宿代が完全に無駄に……)
一介のサラリーマンにも似た、酷く人間臭い小市民的なボヤキが、真崎の胸の内で虚しく響いた。軍服を脱ぎ捨てて駐在官を気取っても、懐具合を気にする貧乏性の感覚までは抜け切れていない。
部屋の奥に、一人の老人が立っていた。ゆったりとした絹のガウンを羽織ったその老人は、理科の実験器具に似た奇妙なガラス製のフラスコを操っている。アルコールランプの青い炎がフラスコ内の水を沸騰させ、それが細い管を昇って焦げ茶色の粉と混ざり合う。やがて火から下ろすと、漆黒の液体が下の球体へと静かに滴り落ちた。近代工業を知り尽くした真崎の目にも、それは西洋の錬金術のように映った。
「起きたか、若造。まあ、これを飲め」
老人は、マイセンの白磁のカップになみなみと注いだその黒い液体を、無造作に真崎の前に置いた。
警戒しつつも一口含むと、舌の根を焼き切るような強烈な苦味が口内を支配した。思わず眉間に皺が寄る。こんな顔をさらすまいと堪えたが、高杉の目がすでに細くなっていた。
高杉は真崎の顔を一瞥し、無言で卓上の砂糖壺を押しやった。
――この老人は、何もかも先読みしている。
真崎は無言で角砂糖を三つ放り込んだ。帝都の空を覆う石炭の煤煙を、そのまま煮詰めたような味だ。だが次の瞬間、芳醇な果実の香りとともに、脳髄を直接叩き起こすような凄まじいカフェインの覚醒作用が全身の血管を駆け巡った。鈍かった頭痛が、嘘のように晴れていく。
「……どうじゃ、苦いか。茶ばかりすする三宅坂の連中には分からん味じゃろうがな」
老人は葉巻の煙を吐き出しながら、腹の底から響くような声で笑った。
「これが、世界中の白人どもを熱狂させ、巨大な資本の歯車を回している『
「失礼ながら……アンタは、一体何者だ」
真崎はカップを置き、冷徹な軍人の瞳を取り戻して老人を睨みつけた。昨夜の路地裏を網の目のように張り巡らせた監視網。青幇を一声で退散させた威容。そのすべてを背後で操っていたのは、間違いなくこの男の組織だ。
老人は紫煙の向こうで、飄々とした笑みを崩さずに答えた。
「わしか。高杉晋作じゃ」
その名を聞いた瞬間、真崎の表情が凍りついた。
幕末の長州藩を熱狂の渦に巻き込み、奇兵隊を創設した伝説の英傑。だが史実では、明治維新の夜明けを見ることなく、下関で結核に倒れた男の名だ。
「……馬鹿を言うな。高杉晋作は半世紀前に死んでいる。くだらん騙し討ちはやめろ」
冷たく吐き捨て、論破しようとした。だが老人は慌てる素振りすら見せず、懐から無造作に黒光りする鉄の塊を取り出して机に投げ出した。
「ガタガタ言う前に、てめえのその目で確かめてみろ」
真崎の視線が釘付けになった。米国製の「S&Wモデル2・アーミー」だ。しかも現在の大量生産品ではない。小火器の専門家である真崎の目には、一八六〇年代初期に製造された極めて初期の型であることが一目瞭然だった。日本の正規軍には決して納入されていない代物である。
「文久二年に、この上海の裏市場で二丁買った兄弟銃じゃ。一丁は、土佐の田舎侍(坂本龍馬)にくれてやったがな」
真崎は息を呑んだ。歴史の生き証人でしか語り得ない、兵器流通の生々しいリアル。さらに、窓から差し込む朝の光が老人の頬を鮮明に照らし出した。深く刻まれた皺の間に、はっきりと見て取れる
兵器の物証と、肉体的な符合。
だがインテリジェンスを本職とする真崎の冷徹な理性が、土壇場で警鐘を鳴らした。
(……資金力のある列強の特務機関なら、年代物の拳銃を用意し、痘痕のある老人を仕立て上げるくらいの工作は容易い。これだけでは証明にならない)
「……手の込んだ小道具と芝居だ。帝国陸軍の将校をたぶらかすには、少々詰めが甘いな」
強がって睨みつける真崎に対し、老人は呆れたように紫煙を吐き出した。
「ほう、疑い深い若造じゃ。ならば……これはどうじゃ」
老人は机の引き出しを無造作に開け、数枚の書類を真崎の前に放り投げた。
目を落とした瞬間、全身の血の気が一気に引いた。
表紙には『極秘』の赤い捺印。来月施行される予定の『陸軍省軍務局・次期編制および権限規程』の最新の稟議書だ。しかも神林局長と郷田中佐の生々しい決裁印まで押された、紛れもない正本の写しである。
「な……っ!?」
真崎は書類を引き寄せ、震える指で頁を繰った。間違いない。書式も、捺印の位置も、軍務局特有の青い罫線も、すべて本物だ。さらに、欄外に走り書きされた鉛筆の修正指示――あの几帳面で角張った字は、自分が三宅坂にいた頃に何度も起案書を突き返してきた、郷田中佐の手癖そのものだった。
(なぜこれが、ここにある)
東京と上海の間には、二千キロ近い海がある。この書類が決裁されたのはほんの数日前のはずだ。
「三宅坂の連中が数日前にハンコを押したばかりの極秘書類じゃ。今の陸軍の頂点におる山縣の狂介にせよ、あ奴らの足元には、わしの根が腐るほど張り巡らされておるんじゃよ」
帝国陸軍の絶対的権力者である山縣有朋元帥を「狂介」と小僧扱いで呼び捨てにし、陸軍中枢の機密を紙切れ一枚で掌握している事実。
拳銃などではない。この圧倒的な「
真崎は、論理的にも精神的にも、完全に屈服させられていた。
だが、敗北感の底から奇妙な高揚感が燃え上がり始めていた。三宅坂の政争など、この男の前では児戯に等しい。それでも――いや、だからこそ。
この男ならば。帝国陸軍という巨大な硬直した組織をぶち壊すための、共犯者になり得るのではないか。
真崎は静かに息を吸い、背広の内ポケットへゆっくりと手を伸ばした。
油紙の感触が、指先に伝わってきた。
厳重に包まれた数枚の和紙をゆっくりと取り出した。上海に来てからこの方、肌身離さず持ち歩いてきた代物だ。
「……一応、信じよう。あんたにこれを見せておく」
机の上に、和紙の束を静かに置く。
「二年前に殉死した乃木大将が、密かに遺した『隠し遺書』の写しだ。あんたが本当に高杉晋作なら、これを読めば……この国の、今後の道筋が分かるだろう」
「俺はこれを使って、三宅坂の狂った精神論を叩き潰す。これで、陸軍の首を獲るつもりだ」
老人はそれを一瞥した。肩が揺れた。クックックという忍び笑いが漏れ、やがて腹を抱えての大爆笑になった。
「あっはっは! 乃木の石頭め、あの世に往く間際になって、まだそんなもんをお前のような若造に拾わせる算段を残しておったか!」
真崎は虚を突かれた。
笑うのか。この男は、命を懸けて持ち出してきた乃木の言葉を前にして、笑うのか。
高杉は笑い涙を拭いながら、書斎の引き出しを開け、真崎が提示した和紙の束よりも遥かに分厚い手帳を、無造作に放り投げた。
「そいつの『原本』なら、とうの昔にわしの手元に届いとるわ」
真崎は震える手で手帳を引き寄せ、封筒を確かめた。
宛名には「東行先生」と記されていた。高杉の号である。
それが何を意味するか、真崎の脳は一拍遅れて理解した。
乃木希典は「東行先生」へ手紙を書いた。つまり乃木は、高杉晋作が生きていることを知っていた。それだけではない。死の間際にすがり付く相手として、この男を選んだのだ。軍神が、軍神に頭を垂れた。三宅坂の地下書庫で真崎が発見した「写し」は、乃木が高杉への手紙を書く際に手元に控えとして残したものに過ぎない。本命は最初から、この男の手元にあったのだ。
そして文面には、帝都で崇められる乃木希典の、およそ似つかわしくない私的な懺悔が書き殴られていた。
『
乃木の幼名「無人」。旅順で何万人もの部下を死なせた鉄の将軍が、死の淵でただの弱い青年に戻り、先輩にすがった言葉。
真崎は唖然とした。
自分の軍籍と命を賭した覚悟が、この歴史の怪物たちの途方もなく巨大な「手のひらの上」での出来事に過ぎなかったのか。自分はずっと、地図の端っこを握りしめて「俺は大きな絵図を持っている」と思い込んでいたのだ。
知的な敗北感が、冷たい汗となって背筋を伝った。
高杉は、最後の一滴までコーヒーを注ぎ切ると、窓外の煙るような上海の街並みに目を向けた。
「真崎よ。このコーヒーは欧米資本を回す『黒い血』と言ったが、向こう百年、世界地図の輪郭さえも容赦なく塗り替えてしまうもう一つの『黒い血』がある。何か分かるか」
真崎の脳裏に、前夜パレス・ホテルで秋月が皿の油膜を指差して言い放った一言が閃光のように過った。
「……石油、ですか」
「ほう。秋月の入れ知恵か。海軍の若造らしい、鋭い見立てじゃな」
高杉が、楽しげに片眉を上げた。
「……その震えは忘れずに持っておけ、若造。歴史の重みと恐怖を知る者だけが、本当に国を動かすことができるんじゃ。三宅坂では決して聞こえん、世界地図の裏側の話をくれてやる」
高杉は再びアルコールランプに火を灯した。コポコポという音が、再び静寂を満たし始めた。
◆あとがき◆
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※続きは本日12:00 / 19:40に更新予定です。
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