海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
オスマン軍の陣地。
「中尉殿。また、伝令です」
ガバ・テペの裏、オリーブの林に掘った穴で、軍曹が紙切れを差し出した。
「北からか」
「北の集団の、ケマル大佐からです。今度は、軍司令部を通して参りました」
「……また、ケマル大佐か」
オスマン軍の観測の中尉は、紙を開いた。五月の末に「煙を撃つな」と寄こしてきた男は、この八月に北の丘で連合国の大軍を押し返して、いまは北の一帯を丸ごと預かっている。
紙には、今度も二行しか書いていなかった。
――丘を撃つな。
――浜の水と、艀を撃て。
「塹壕を撃たずに、水をですか。……水を撃て、とは、どういうことでありましょう」軍曹が言った。
「あの丘は、ちょっとやそっとでは落ちん。落ちんものに弾を使うな、ということだ」中尉は双眼鏡を上げた。「向こうは、あの狭い浜から、丘の上まで水を担ぎ上げて持ちこたえている。……喉を撃て、と言っておられる。狙うのは、水を運ぶ列と艀だ」
夕方、沖から平たい船が一隻、浜へ近づいてきた。喫水が深く、ひどく遅い。腹いっぱいに水を詰めた船である。
「照準、あの水船」中尉は言った。「桟橋に着く前に、沈めろ」
*
「三日で、三隻だ」
真崎勇気は、桟橋の端で、沈んだ水船のマストの先を見ていた。海面から、棒が一本だけ突き出ている。
「当てずっぽうではありません」鵜飼稔が言った。「塹壕には、この三日、一発も来ておりません。来るのは、兵站を運ぶ艀にだけです」
「向こうにも、地面を読む者がいる」
「今日、浜へ揚がった水は、昨日の半分です。明日は、たぶんその半分です」
沖に、艦の影は無い。金剛と比叡は、ムドロスの網の中にいる。六月に一度、ビーチー・ビルを撃ちながらこの沖を抜けていったきりで、英軍は、主力艦を陸から見える所へ二度と戻さなかった。
八月三十一日。日下部中将が「誰にも言うな」と言った八月が、今日で終わる。
真崎は帳面を閉じ、ムドロスの日下部へ電文を一本書いた。答えは、その夜のうちにムドロスから戻ってきた。宛名は真崎ではない。ロンドンの、秋月少佐である。
――当師団ノ数字、九月末ヲ以テ立タズ。週報ハ五月ヨリ毎週英軍司令部ニ提出セルモ、応答ナシ。本国ノ机ニ届キタルヤ否ヤ、確カメラレタシ。
――七月末ノ英陸軍省下令、番号左ノ通リ。
*
ロンドン、英国陸軍省の地下の文書課。
「ああ、またあなたですか」
あの下士官は、秋月慧の顔を見るなりそう言った。
「今度は、何の番号です」
「これを」秋月は、手帳を開いた。ムドロスから電信で届いた番号である。「七月の末に、ここから地中海の司令部へ出た下令です」
「下令なら、出したほうの綴りがあります。どうぞどうぞ」
下士官は台帳を引き、棚のあいだへ消えて、綴りを一冊抱えて戻ってきた。
一枚目が、下令の控えだった。
――日本師団ノ後方支援、極メテ有効。余力アラバ、戦闘ノ支援ヲモ望ム。
その下に、この下令のもとになった紙が綴じてある。地中海の司令部から上がってきた、日本の師団の週報の要約だった。
――給水、改善ス。衛生、著シク改善ス。後方支援、極メテ有効。
要約は、半頁しかない。
「週報の、本文は」秋月は聞いた。「日本の師団は、五月から毎週、水の量と、腹を下した者の数を書いて出しております。その本文は」
下士官は、要約の紙の隅を指さした。鉛筆で、小さく書き込みがある。
――原本、現地保管。
「上がってきておりませんねぇ」下士官は言った。「要約で足りる、と向こうの司令部が判断したのでしょう」
「足りる、とは」
「良い知らせは、揉めませんからね」下士官は言った。「揉めないものは、要約されて上へ行きます。要約した紙だけ読んで、上は下令を出す。よくあることです」
「つまり」秋月は言った。「ロンドンの机に載っているのは、褒め言葉だけ、ということですか」
「そういうことになりますな」
秋月は、手帳を閉じた。
腹を下した者の数も、信管の残りも、沈められた水船も、ロンドンの誰も読んでいない。良い知らせだけが短く刈られて上へ上がり、悪い知らせは現地の棚で眠っている。上はその一行を読んで、まだ余力があると考え、「もっと前へ」と命じたのである。
秋月の手帳には、ムドロスから届いた本当の数字がある。それを、誰かが上の机へ載せなければならない。
ランカスター公領の大臣の部屋は、海軍省のあの部屋の三分の一もなかった。
チャーチルは、やはり立っていた。片手には、琥珀色の、薄いウイスキーのソーダ割りを持っている。
「久しぶりだな、ケイ。……飲むか」
「職務中ですので」
「私も職務中だよ。職務が、ほとんど無いだけでな」
秋月は、手帳から写した紙を机に置いた。
日本の師団の、五月からの数字である。弾で倒れた者と、腹で倒れた者。尽きた信管。三日で三隻沈められた水船。それから、一頁目の数と、いまの数。
チャーチルは、それを長いこと読んでいた。
「私は、ダーダネルス委員会で、半島の攻勢を続けろと言っておる」チャーチルは言った。「毎回だ」
「存じております」
「では、なぜ私に持ってくる。続けろと言う男の机に、帰れという数字を」
「閣下は、三月に約束を紙にしてくださった方です」秋月は言った。「紙が届かないと、何が起きるか。この国でいちばんよくご存じの方です」
チャーチルは、グラスを揺らした。
「五月に、私は貴官に言ったな。バルフォアは分別のある人だ、と」
「はい。分別のある人は、始まっていることを止めはせん、と」
「そうだ」チャーチルは、紙を畳んで、上着の内側へ入れた。「止めるのは、分別の無い人間の仕事だ」
「閣下」
「委員会へ持っていく。私の名前でな」チャーチルは言った。「帰れと言う男が持ってくれば、臆病者の数字だと言われる。続けろと言い続けてきた男が持ってくれば、誰も、日本人の言い訳だとは言えん」
部屋を出るとき、秋月は机の上のグラスに目をやった。
琥珀色は、今日も、ほとんど減っていなかった。
*
同じ週、東京の陸軍省で、軍務局長の田中義一は、ロンドンから回ってきた秋月の電報を読んでいた。
――英国ノダーダネルス委員会、撤退ヲ議ス。我ガ方ノ意向如何。
「撤退となれば、また議会が騒ぎますぞぉ」向かいの課長が言った。「何をしに地球の裏側まで行ったのか、と」
田中は、懐中時計を出して、また懐へ戻した。
「そうじゃな。議会には、わしが答える。六月にも答えた」
「では、異存なしと」
「異存は無い」田中は、返電の紙を引き寄せた。「ただし、帰すなら、一人残らずじゃ。一人でも置いてくるようなら、行かせた意味が無うなる」
――撤退ノ議ニ異存ナシ。但シ、一兵モ残スベカラズ。
*
「ブルガリアが、動員を始めた」
九月二十一日の夕方、海軍情報部の部屋で、ルパート・チェスタートンが言った。
「ドイツの側に付くつもりだ。そうなりゃ、ドイツからコンスタンティノープルまで、汽車が一本でつながる。重い大砲と砲弾が、ガリポリ半島へ山ほど流れ込むぞ」
「冬が来る前に、ですか」
「冬が来る前に、だ」チェスタートンは言った。「あの浜は、冬を越せない。今夜、委員会の連中は眠れんだろうな」
翌日の午後、チェスタートンが、紙を一枚持って戻ってきた。
「決まったよ、秋月」
委員会は、半島からの撤退を決めた。北のスヴラから、英国の師団がサロニカへ回される。沖を船が出入りしても、向こうには兵を他所へ回しているとしか見えない。その陰で、アンザックの浜を、九月のうちに空にする。
「チャーチルは、最後まで続けろと言ったそうだ」チェスタートンは言った。「言いながら、あの数字を読み上げたらしい。……全く変な男だよ」
秋月は、手帳を開き、一頁目に日付を一つ書いた。
――九月二十二日。