海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第十四話 ティーカップと万年筆

 サイフォンが音を立てている。

 真崎勇気は、紫檀の長椅子に深く身を沈めたまま動けなかった。手元のコーヒーはもはや湯気を立てるのをやめ、漆黒の静面を保っている。乃木の原本。「東行先生」への手紙。石油という二つ目の黒い血。夜明けからこの方、積み重なった衝撃の質量が、今も真崎の思考を重く圧し潰し続けている。

 

 「真崎よ。陸軍の秀才殿が、そんな顔で固まっておってはどうしようもないぞ」

 

 高杉晋作は、いたずらっぽく目を細めた。老英雄は机の上に広げられた世界地図を一瞥し、懐からひとつずつ小道具を取り出し始めた。

 

 「いいか。世界を動かしておるのは、正義でも条約でもない。この『形』じゃ」

 

 高杉は、自らが飲んでいたティーカップを地図のイギリスの位置へと静かに置いた。白磁の底がコトリと鳴る。

 

 「これが、大英帝国だ。カイロ、ケープタウン、カルカッタ……アフリカの南端から印度洋を囲い込み、紅茶の権益で世界を仕切る巨大な壁を作った。『3C政策』というやつじゃな。今この瞬間も、世界中の人間が英国の繁栄に首根っこを握られて生きておる。シンガポール、香港、我々が今いるこの上海の租界も、そのカップの縁の上に乗っかっておるに過ぎん」

 

 次に高杉は、黒光りする万年筆を取り出し、ドイツ帝国の位置に置いた。

 

 「対するドイツのカイザーは、この紅茶の壁をぶち抜こうとしておる。ベルリン、ビザンチウム、バグダード。陸路で中東へ、真っ直ぐな鉄の棘を突き刺す――『3B政策』じゃ。海の覇権を持てぬなら、陸の鉄道で世界を繋ぐ」

 

 高杉は万年筆の尾栓を指先でギリギリと回した。黒い筒の先端から鋭い金ペン先がせり出し、地図の上を滑り、ティーカップの縁にカツリと硬くぶつかった。二つの「形」が、地図の上で激突した。

 

 「この衝突点に何があるか分かるか。……メソポタミアの砂漠の下に眠る、無尽蔵の『石油』じゃ」

 

 真崎は息を呑んだ。

 

 「チャーチルを知っておるか。あ奴はつい先日、自国のウェールズ炭を捨て、艦隊の全燃料を石油へ切り替えると宣言した。石油を使えば船は速くなり、装甲は厚くなり、主砲は巨大化する。暴力の速度を手に入れた代償として、英国は死んでも中東の油田を手放せなくなった。ドイツの鉄道の終着駅がペルシャ湾に届くことは、大英帝国の死を意味する。……これが、今まさに欧州で始まろうとしている大戦の、本当の正体じゃ」

 

 真崎の声がかすれた。

 

 「艦隊が石油で動くならば、いずれ陸の兵站もすべて石油に依存することになる。自動車、戦車、飛行機……。だが、我が国にあるのは越後に僅かに湧く油田程度だ。我らは、戦う前に干上がる」

 「ほう」

 

 高杉は、真崎の青ざめた顔をしばらく黙って眺めた。値踏みするような、確かめるような目だった。

 

 「三宅坂の連中がその計算式に辿り着くのは二十年先の話じゃ。……お前は今、自分の頭でそれを組み立てた。才覚は惜しすぎる」

 

 高杉は葉巻を灰皿に預け、節くれだった指を赤道直下のある一帯へとゆっくり滑らせた。

 

 「蘭印じゃ。英国は石油が欲しいが、欧州の戦線に縛られ極東を守る余裕がない。オランダは油田を持つが、守る軍事力がない。そして日本は陸軍を持つが、国を回す資源がない。……この三者の欠落は、ちょうどパズルのように噛み合っておる」

 

 真崎は三点を頭の中で結んだ。

 

 「……現在の日英同盟にオランダを組み込む。日英蘭三国同盟、ということか」

 「さすがじゃ」

 

 高杉は初めて、心底嬉しそうに目を細めた。

 

 「三宅坂の連中が辿り着くのは、二十年先の話じゃろうな」

 「……高杉先生。あんたの描く図面は、余りにも奇麗すぎる」

 

 真崎は、冷え切ったカップを机に置いた。

 

 「日英蘭同盟だと? 冗談ではない。昨年のカリフォルニアを見てみろ。排日法案を平然と通した連中が、有色人種と対等に組むはずがない。オランダも同じだ。蘭印を後発の帝国主義国家に委ねるなど、金庫が盗まれるのを指をくわえて待つようなものだ。……連中は日本を、『番犬』ではなく『狂犬』としてしか見ない」

 

 しかし高杉晋作は、微塵も揺るがなかった。

 

 「真崎。日英同盟は、もう十二年続いておる。あれは愛情か? 連中は我々を愛してなどいない。だがな、外交とは愛の告白ではない。互いの『絶望』を縫い合わせる作業じゃ。恐怖は、愛よりも遥かに強い接着剤よ」

 

 論理は分かる。だが、綺麗な論理の裏には必ず汚い代価がある。高杉がまだそれを口にしていないという事実が、真崎の背筋を冷やし続けていた。

 

 「……そのパズルを組み合わせるための、代価は何ですか」

 「鋭いな」

 

 高杉の目が、笑わなくなった。

 

 「イギリスが我々に求めているのは、武士道だの精神性だのではない。機関銃の十字砲火の前に、何万人死のうが文句を言わずに、規律正しく突っ込んでいく。……安上がりな『肉の壁』としての価値じゃ」

 

 部屋の空気が、凝固した。

 

 「……肉の、壁」

 

 宇品港の岸壁が、脳裏を過った。万歳の声と、傷病兵の白い包帯。士官学校の教室に届いた、父の戦死の報せ。

 

 「……旅順で死んでいった俺たちの父親は、その『肉の壁』だったと、そう言うのですか」

 「そうじゃ」

 

 高杉は静かに、しかし容赦なく言い切った。

 

 「だが、嘆いておる暇はない。義和団事件を思い出せ。北京で柴五郎中佐の部隊は、最も少ない兵数で、最も長く前線を守り抜いた。白人どもはその実績を見て初めて、我々を同盟に値する存在と認めた。その三年後に日英同盟が結ばれたのは偶然ではない。真崎、この戦争の代価は『お前たちの血』だ。欧州の泥濘で帝国陸軍の血を流すことで、大英帝国の食卓に席をこじ開ける。それが、石油を手に入れるための唯一の、最も残酷な現実よ」

 

 真崎は、冷え切ったコーヒーをようやく一口啜った。冷えても苦い。むしろ冷えた方が苦い。だがこの苦味が今は丁度よかった。舌を刺すような覚醒が、揺らぎかけた意志を強引に立て直す。

 

 「……欧州の戦いに、日本を引きずり込むということか……」

 

 沈黙が落ちた。真崎は目を伏せ、一度だけ深く息を吐いた。

 自らの誇りを殺し、ただ結果だけを追い求める冷徹な眼差しで、真崎は高杉を見返した。

 

 「だが、具体的に何をすればいい」

 「はっはっは。案ずるな、陸軍大尉殿。なんのことはない、お前の日常業務の延長線じゃよ」

 

 高杉は満足げに大笑いし、再び三味線を手に取った。

 

 「毎週日曜はここに来い。陸軍の教科書によって作られた心身を、裏の作法で鍛え直してもらう。魔都の闇を生き抜くための作法をな」

 

 静寂の中、ベンベンと力強い弦の音が響いた。

 真崎はその音を、黙って聞いていた。

 




◆あとがき◆
少しだけ種明かしを。
高杉が語った「義和団事件の柴五郎」は実在の人物です。
北京籠城戦で最も少ない兵力で最長期間守り抜いた柴中佐の奮戦は、列強の武官たちに「日本陸軍の真価」を刻み込んだと言われます。
高杉が「だから英国は同盟を結んだ」と言い切れる根拠がここにあります。

最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは本日19:40に更新予定です。
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