海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第十五話 無限の湯

 三味線の乾いた余韻が、薄暗い部屋の空気に溶けて消えた。

 

 高杉晋作は三味線を傍らに置くと、部屋の隅にある古びた鉄製の金庫へ歩み寄り、重々しいダイヤルを回した。カチャリという金属音とともに扉が開き、中から新聞紙で包まれた分厚い束を無造作に取り出す。

 

 ドサリ、と。

 

 それは真崎の前の卓上に放り出された。包みの隙間から覗くのは、大英帝国が保証するポンド紙幣と、上海の金融街を流通する銀元札の束だ。一介の陸軍将校の生涯賃金を優に超える、暴力的な質量を持った「カネ」である。

 

「当面の軍資金じゃ。お前の餞別と、無駄にさせてしまったホテル代も込みじゃよ」

 

 高杉は飄々(ひょうひょう)とした声で言った。

 真崎は眉をひそめ、その札束を押し戻した。

 

「お断りします。私は大日本帝国陸軍の将校です。素性の知れない裏金で己の身を潤すような真似は、軍人の矜持が許さない。活動資金ならば、自らの給金の中でやり繰りします」

 

 その言葉を聞いた瞬間、高杉の顔から好々爺の笑みが消えた。幕末の動乱を潜り抜けた血の匂いのする修羅の顔が現れる。

 

「……矜持、だと?」

 

 高杉の声は低く、地を這うように響いた。

 

「三宅坂の温室で培養された『表の軍人』の面など、さっさと黄浦江の泥水に捨ててしまえ。お前はこれから、国家という巨大な化け物を盤外から操る工作員になるんじゃぞ。自らの手を汚さず、清い貧しさに酔いしれるなど、三流の戯言に過ぎん。……いいか真崎。世界を騙し、列強と渡り合うには、こういうカネを平然と懐にねじ込み、泰然自若(たいぜんじぎゃく)として笑う『胆力』が必要なんじゃ。それができぬのなら、今すぐ東京へ帰れ」

 

 真崎は、高杉の圧倒的な凄みに射すくめられた。

 清廉潔白であることと、事を成すこととは違う。この老人は、目的のためならば泥を被ることを恐れず、むしろ泥を武器として戦ってきたのだ。

 

「……分かりました」

 

 真崎はゆっくりと手を伸ばし、分厚い札束を鷲掴みにすると、背広の懐へと強引にねじ込んだ。懐に加わった重みは、そのまま己が足を踏み入れた闇の深さだった。

 

「それでいい」

 

 高杉は再び口元に笑みを浮かべた。

 

「一つ、お尋ねしたい」

 

 真崎は懐の重みを感じながら、冷徹な視線を高杉に向けた。

 

「私が上海に着任した直後、弄堂(ロンタン)の裏路地で不自然な監視と襲撃を受けかけた。……あれは、あなたの差し金ですね。帝都から追放されてきた若造が、使い物になるかどうかを試すための」

 

「ほう、気づいておったか」

 

 高杉は悪びれる様子もなく頷いた。

 

「だが、直接仕向けたわけではない。ドイツの特務機関に、『日本から面白い玩具が来た』と少しばかり情報を流して泳がせたまでじゃ。奴らが青幇(チンパン)のゴロツキを金で雇って襲ってくるよう仕向けてな。見事に撒いたようじゃがな」

 

 自らの命を囮に使われたのだ。普通の人間であれば激怒する場面だったが、真崎の口元には不敵な笑みが浮かんだ。

 

「……裏の盤面へ上がるための、極上の洗礼として受け取っておきましょう」

 

「その意気や良し、じゃ。……さあ、今日はもう帰れ。そのカネで、アスター・ハウス・ホテルにもう一泊くらいして、西洋のバスタブでも楽しむんじゃな」

 

 高杉はそう言うと、再び葉巻に火を点けた。

 

   *

 

 アスター・ハウス・ホテルの特別室に戻った真崎は、背広を脱ぎ捨てバスルームへと向かった。

 猫足の巨大な西洋式バスタブ。真鍮製の蛇口をひねると、もうもうと湯気を立てる熱い湯が凄まじい勢いでほとばしり出た。帝都の庶民には銭湯が当たり前で、ひねれば無限に熱い湯が出るという設備は、石炭とボイラーとポンプが生み出す巨大な工業力の産物だ。その仕組み一つに、大和魂では決して代替できない「資本の暴力」が隠されている。

 真崎は熱い湯に身を沈め、天井を見上げた。

 

(……こんな途方もない富を持つ連中を相手に、精神論で戦争をしようとしているのか)

 

 この「無限の湯」の前に、大和魂がいかに無力であるか。真崎は湯気の中で、高杉の「肉の壁」という言葉を思い返していた。

 

   *

 

 翌日朝、高杉の元を辞した際に渡された土産の豆を、ホテルの給仕に頼んで淹れてもらった。砂糖を三つ、ミルクをたっぷり入れて飲み干した。苦いのには、慣れそうもなかった。

 

 真崎は上海の日本陸軍関連施設へと初出勤を果たした。厄介払いとして左遷された彼に与えられた任務など何もなく、午前中で埃まみれの書類整理を終えると、早々に施設を出た。

 上官の田辺武人少佐も特に仕事はなく、ひたすら新聞を読んでいるだけで、部下の行動は気にもとめていないようだった。週に二度、真崎は欧州情勢の分析レポートを書いて提出した。田辺は提出物を一瞥しただけで「すごいな」と言い、決裁印を押した。

 ある日、真崎は試しに白紙の用紙を一枚、報告書の束に紛れ込ませて提出した。

 田辺は一瞥し、「すごいな」と言い、決裁印を押した。真崎はその日から、レポートを半分の枚数にした。誰も読まない報告書を積み上げるその時間が、皮肉なことに、裏の仕事への集中を保証してくれた。

 

 真崎が向かったのは、外灘の中央に位置する「上海クラブ」だ。大英帝国の商人や外交官、軍人たちが集う東洋における白人社会の頂点で、三十メートルにも及ぶマホガニー製「ロングバー」が有名だった。人種的偏見が色濃いこの時代、有色人種が客として踏み込むことは極めて困難だ。

 しかし真崎は、高杉から渡された軍資金の一部で英国仕立てのスーツに身を包み、堂々とした足取りでエントランスを潜り抜けた。門番すらも、その圧倒的な覇気の前に道を譲らざるを得なかった。

 ロングバーの片隅で、真崎はジン・トニックのグラスを傾けた。周囲には英国紳士たちの高慢な笑い声が響いている。

 

「――お隣、よろしいかな」

 

 流暢な英語で声をかけられた。

 上質なツイードスーツを纏った英国人紳士が立っている。手帳と万年筆を胸に挿し、派手な装飾品は一切ない。だが、灰色の瞳の奥底には、荒れ狂う大海の岩礁のような冷徹な知性が光っていた。

 

「私はジュリアン・ヴァンス。英国海軍省のアドバイザーを務めている者だ。見かけない顔だが、日本の軍人さんかな」

 

「……真崎勇気。ただの旅行者ですよ」

 

「旅行者にしては、背筋が伸びすぎている」

 

 ヴァンスはグラスの琥珀色の液体を揺らしながら、柔らかく、しかし刃のような冷たさを伴った声で言った。

 

「時に真崎大尉。我々ヨーロッパの軍人たちは以前から、日本陸軍の戦いぶりに深い感銘を受けているのだよ」

 

 真崎の肩がわずかにピクリと動いた。なぜ自分の階級を知っているのか。

 

「十四年前の義和団事件、そして日露の戦役。凄惨な機関銃陣地を前にしても、祖国のために一糸乱れず前進を続けるあの『死を恐れぬ崇高な精神』。実に素晴らしい。欧州でいざ事態が起きれば、我々大英帝国は海を封鎖し、世界の秩序を守る。だが、広大な大陸の平和を維持するには、規律と……自己犠牲を厭わぬ高潔な軍隊が必要不可欠なのだ」

 

「……お褒めいただき、光栄です」

 

 真崎は、完璧な愛想笑いを浮かべながら短く応じた。

 

「事実だよ」

 

 ヴァンスはグラスの氷をカラリと鳴らし、視線を窓の外、遥か東方の海へと向けた。

 

「パナマ運河を開通させたアメリカという新興国が、資本という『見えない武器』で世界を飲み込もうと虎視眈々と狙っている。名誉よりも利益を重んじるあの国を牽制するためにも……我々大英帝国は、大義のために血を流す『真の友』を求めているのだよ」

 

 ヴァンスの言葉は美しく、高杉が語った地政学の絵図面と不気味なほど一致していた。

 だが真崎の脳は、その洗練された外交辞令の裏にある本音を、即座に自動翻訳した。

 

(……昨日高杉から聞いた言葉と、寸分の狂いもない)

 

 この男は「武士道」を称賛しているのではない。機関銃の前に規律正しく突っ込んでいく、費用対効果の高い「安上がりな肉の壁」として帝国陸軍を値踏みしているのだ。

 近い将来、欧州の火の粉は必ず極東にも飛んでくる。その時、この高慢な英国の審査員たちの前で、時代遅れの白兵突撃など絶対に見せるわけにはいかない。圧倒的な物量と精密な弾道計算による近代火力戦を見せつけ、奴らの評価を根底から粉砕してやる。

 

「ヴァンス閣下。ご期待に沿えるよう、我々日本陸軍も日々研鑽を積んでおります」

 

 真崎はジン・トニックを飲み干し、静かに立ち上がった。

 

「いずれ戦場で、その成果をお見せできる日を楽しみにしていますよ」

 

 真崎は完璧な会釈を残し、ロングバーを後にした。その背中を見送るヴァンスの灰色の瞳には、ただの有色人種へ向けるものではない、鋭い興味と評価の光が宿っていた。

 上海の熱気の中へ踏み出しながら、真崎は高杉の声を思い出した。

 

「毎週日曜はここに来い」

 

 今日は土曜だった。




少しだけ種明かしを。

上海クラブの「ロングバー」は実在の施設です。全長三十メートル、極東最長とされたこのバーは、大英帝国の紳士たちが集う白人社会の頂点であり、有色人種が客として踏み込むことは極めて困難な場所でした。
※当時の上海の列強の特権意識は凄まじく、同じ外灘にある黄浦公園には「犬と中国人は入場お断り」という掲示があったと伝えられているほどです(否定説も存在)。

真崎が正面から踏み込んだのは、単なる度胸試しではありません。「列強の日常」を肌で学ぶための実地教育です。

次話もお付き合いください。

※明日は2回(07:00 / 19:40)更新予定です。
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