海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第十五話 影の奇兵隊

 魔都上海の喧騒から隔絶されたように、高杉のアジトは静まり返っていた。

 真崎勇気は高杉に促されるまま、書斎の本棚の裏に隠された分厚い鋼鉄の扉を潜った。

 

 「さあ、入れ。ここがわしらの『泥の教室』じゃ」

 

 高杉の言葉とともに、真崎の嗅覚を強烈な匂いが打った。

 火薬の硝石が鼻を突く匂い、オゾンの焦げたような刺激臭、そして初期型真空管が放つじっとりとした熱気。

 地下空間には、大正三年の日本には存在し得ない、狂気じみた最新機材と実験設備が所狭しと並んでいた。その光景に圧倒されかけた真崎の背筋に、突如、氷を滑り込ませたような悪寒が走った。

 

 (――背後!)

 

 過酷な教練で培われた陸軍将校としての本能が警鐘を鳴らす。

 真崎は反射的に懐のモーゼルC96へ手をかけ、踵を軸に鋭く反転した。

 だが、真崎はふりむいただけで、撃鉄は落とさなかった。

 相手の正体もわからぬまま上海の地下で発砲する愚を犯すほど、彼は血の気が多いだけの素人ではなかったからだ。

 しかし、その一瞬の理性が生んだ「間」は、相手にとってはあまりにも長すぎた。

 

「おや、血の気が多いねぇ。撃ちたければ撃ってもいいが、その前にあんたの喉笛から綺麗な血の噴水が上がるよ」

 

 真崎の視線の先。

 いつの間にかそこに立っていたのは、くたびれた長袍(チャンパオ)を纏った男だった。

 身長は優に百八十センチを超えている。この時代の日本人から見れば、見上げるほどの長身でありながら、その巨躯が真崎の背後へ忍び寄るまで、足音はおろか衣擦れの音一つ、呼吸の気配すら全くなかったのだ。

 男の両手には、両端が鋭く尖った鉄の短い棒が握られていた。中央のリングに中指を通す中国武術の暗器「峨嵋刺(がびし)」である。その切先が、長い腕を滑らせるようにして真崎の頸動脈へ、ぴたりと添えられていた。

 この男こそ、清朝崩壊により上海の青幇へと流れ着いた元宮廷暗殺者・李河(リーホォ)であった。

 峨嵋刺の冷たい鉄先が、頸動脈の鼓動を正確に数えるようにぴたりと密着している。呼吸するたびに皮膚が鉄に触れ、その冷たさが体温で少しずつ溶けていく。わずか数秒の間が、真崎には永遠のように長かった。

 

「……いつの間に」

 

 真崎は冷や汗を流しながら呻いた。

 

「ところで、大尉殿。首の後ろは、もう痛まないかい?」

 

 真崎は、息を呑んだ。

 袋小路の夜。石畳に膝をついたとき、自分を米俵のように担ぎ上げた、足音のない長い影。

 

「……あの夜の」

「軽く撫でただけさ。先生が、丁寧に運べって言うんでね」

 

「踵から地面を叩いて、膝を伸ばし切って歩く。西洋式の兵隊さんってのは、わざわざ的になるための作法を教わるのかい? 面白いもんだねぇ」

 

 李河は、陽気な好々爺のような笑みを浮かべながら、真崎の歩行をからかうように音もなく間合いを外した。

 長身であるにもかかわらず、その動きはまるで重力に逆らうかのように滑らかだった。

 飄々とした高杉とも違う、底知れぬ陽気さが、かえって元暗殺者としての異常性を際立たせている。

「……的、だと?」

 

「お前さんたちの歩き方はな」

 李河は、自分の靴の踵を指でとんとんと叩いてみせた。

「長く歩くにはいい歩き方さ。だが、一歩ごとに頭が上下して、足の裏が地面に貼りつく。その一瞬、体が居着くんだ」

「居着く?」

「固まる、ってことさ。ほんの〇・一秒。だが、俺ならその間に、首を三度は掻き切れる」

 

 李河は、爪先から滑るように一歩踏み出した。膝をわずかに曲げたまま、頭の高さが少しも変わらない。長身の体が、氷の上を滑るように、音もなく真崎の周りを半周する。

 

「泥歩(でいほ)。八卦掌(はっけしょう)の歩き方だ。紫禁城の宦官が編み出して、宮廷の暗殺者が受け継いだ。……こうして歩けば、どっちへでも一瞬で跳べる」

 

「そのくらいにしておけ、リーホォ」

 

 高杉が飄々とした声で制止すると、李河は両手の峨嵋刺を風車のように回転させ、手品のように袖口へと消した。

 真崎はゆっくりと懐へ銃を収めた。

 極度の緊張から解放され、肺が強烈に酸素を求める。

 ――はぁっ。

 荒くなった呼吸音が、真空管のむせ返るような熱気に満ちた地下室に、痛いほど響き渡る。

 背広の下のシャツが、べっとりと冷たい汗で背中に張り付いていた。自らの心臓が、肋骨を突き破るほどの早鐘を打っている。

 無音の死神に喉笛を撫でられた、その強烈な余韻。

 圧倒的な暴力の気配に呑まれ、重苦しい静寂が「泥の教室」を支配した。

 その、張り詰めた間を破るように。

 

「おや、困りますねえ。チャンバラは、よそでお願いできますか」

 

 地下室の奥から、あまりにも気の抜けた声が響いた。

 黄色く染まった指先でボサボサの頭を掻きながら、白衣の腹のボタンを突っ張らせた小太りの男が、のっそりと姿を現す。

 

「こちらの計算が狂ってしまいます」

 

 男は東京砲兵工廠から流れてきた変人技師、井川修平(いがわしゅうへい)であった。

 

「……計算、だと?」

 

 真崎が鋭く問うと、井川は机の上のフラスコを指差した。

 

「化学式のことですよ。三宅坂の方々には、あまりご縁がないようですが。……大尉殿も、下瀬火薬をありがたがっている口ですか」

 

 下瀬火薬(純粋ピクリン酸)は、日露戦争で威力を発揮した日本軍自慢の爆薬である。

 だが、井川はそれを鼻で笑った。

 

「あれは怒りっぽいヒステリー女ですねえ。鉄に触れただけで敏感な化合物をこしらえて、敵に届く前に砲身の中で勝手に腔発(こうはつ)する。衝撃に鋭すぎるから、要塞のコンクリートに当たった瞬間、外側で爆発してしまう。中まで届かないんです」

 

 下瀬火薬には、致命的な弱点があった。鉄と接触すると、敏感なピクリン酸塩を生成する。発射の衝撃で砲身内部から自爆する「腔発事故」は、日露戦争の前線で少なからぬ将兵を犠牲としていた。

 井川は、机の上の複雑な真鍮製の部品を手に取った。

 

「大和魂でコンクリートが砕けますか? 要塞を落とすのは『遅延火薬の〇・一秒の迂回路』です。私が調合した安定型のTNT爆薬を、この自作の遅延信管に詰める。外壁に当たった瞬間には起爆せず、分厚いコンクリートを物理的にブチ抜いたその直後……要塞の腹の中で爆発する。いやはや、美しいでしょう」

 

 井川の目には、純粋科学に憑りつかれた狂気が宿っていた。

 満足げに信管を真崎の眼前に掲げ、「この撃針が……」と口を開きかけた、その瞬間。

 

「待て」

 

 真崎は短く制した。

 

「その信管、モーゼルの撃発機構の流用だな」

 

 井川の手が止まった。

 

「……おや。なぜ、お分かりに」

「旅順の冬の弾薬消費明細に、同じ型の不発が並んでいた。零下十度を割った週だけ、不発が三倍に跳ねている。冬の遼東半島で使えば、起爆不良を起こすぞ」

 

 沈黙。

 井川はゆっくりと眼鏡を押し上げ、手元の信管と真崎の顔を交互に見た。眼鏡の奥の目が、初めて別の生き物を認識したような顔をしている。

 

「……陸軍の大尉殿が、どうしてそんな帳簿までお読みに」

「読む奴がいないからだ。帳簿は嘘をつかん」

 

 井川の口元が、悔しそうに、しかし面白そうに歪んだ。

 

「……いやはや。では、どうしろと」

「それを考えるのは、お前の仕事だ。俺は、どこで壊れるかを数えるだけだ」

 

 井川は無言で手帳を引き寄せ、鉛筆を走らせた。白衣の袖口が、信管の油で黒く汚れていく。

 

 真崎は、机の上に散らばった紙の束に目を落とした。信管の断面図、火薬の配合式、試験の記録。どれも、井川本人にしか読めそうにない走り書きである。

 

「ところで、井川。兵がこれを使うための説明書は、あるのか」

「……説明書?」

 井川は、鉛筆を止めてきょとんとした。

「……おや。作っておりませんねえ」

「おいおい」

 真崎は、思わず額を押さえた。

「どれだけ凄い兵器ができても、現場の兵が読んで分かる説明書がなけりゃ、戦場じゃ使い物にならんぞ。夜中に、手のかじかんだ一等卒が扱うんだ」

「そういうのは、私の仕事ではないと思っておりました」

「なら、誰の仕事だ」

 

 井川は答えず、手帳の隅に、小さく「説明書」とだけ書き足した。

 

 高杉は紫煙を細く吐き出しながら、その一部始終をニヤリと眺めていた。

 今度は背後から規則的なカタカタという機械音が響いてきた。

 音の主は、琥珀色に発光する初期型真空管と、大理石の台座に固定された鉱石検波器に囲まれて座る、少年のように細い、年の分からない青年――黒石透(くろいしとおる)であった。顔の筋肉が、どこも動いていない。

 黒石の横では、モールス信号を視覚的に記録する「サイフォンレコーダー」が痙攣するように動き、青いインクの波線を刻んだ紙テープを延々と床に吐き出している。

 

 「真崎さん。静かに。ここで撃たれると、無線、聞こえません」

 

 黒石はヘッドホンを片耳からずらし、淡々とした中性的な声で注意した。

 

「……あんた、暗号解読者か? 教えてくれ。いまの帝国陸軍に足りないのはなんだ?」

 

 黒石は首に巻き付いた長大な紙テープを指で弾きながら、涼しげな顔で答えた。

 

「気合いで、暗号は解けない。要るのは、論理と『クリブ』」

 

 当時の無線電信は空間に電波を垂れ流すため、適切なアンテナさえあれば傍受は容易であった。

 黒石は、鉱石検波器の針先をミリ単位で操作し、列強の暗号通信を拾い上げていた。

 

「たとえば英国の東洋艦隊。毎朝、同じ時刻。同じ定型文。『本日ノ天候ハ』。それがクリブ。手がかり。あとは、文字の出る回数を数えるだけ。コードブック、要りません」

 

 黒石の足元には、そうして丸裸にされた各国の機密電報が、文字通り紙屑のように山と積まれていた。

 武術、化学、そして暗号。

 真崎は、己が信じてきた三宅坂の「正々堂々」たる軍学や大和魂が、ここではまるで役に立たないことを、痛烈に悟らされた。

 彼らは国家の枠組みから外れた異端児でありながら、その実力は帝国陸軍の常識を遥かに凌駕している。

 

「高杉先生……こいつらは一体何者なんだ。どこからこんな化け物じみた人材を集めてきた?」

 

 真崎が驚嘆と警戒の入り混じった声で問うと、高杉は葉巻の煙を細く吐き出しながらニヤリと笑った。

 

「お前が生まれるよりも、ずっと前からじゃよ。ただの狂人の集まりじゃが、名無しでは士気も上がらんでな。昔のよしみで『影の奇兵隊』という大層な看板を掲げてやったら、喜んで泥を啜りおる。随分と大所帯になったもんでな、もちろんこいつらだけではない。世界中に、同じような泥をかぶる仲間が散らばっておる」

 

 高杉は、三人の天才たちを見渡しながら静かに口を開いた。

 

「こいつらがお前に、三宅坂の軍務局では絶対に教えない『裏の教育』を担当する。いずれ欧州で大戦の火ぶたが切って落とされれば、その火の粉は必ず極東にも飛んでくる。お前にはその前に、敵を内側から食い破るための『本物の特務員』になってもらう」

 

 三宅坂の軍学は、この地下ではほとんど役に立たない。ただ一つ、帳簿を読む目だけが、ここでも通じた。それが、真崎の瞳の奥底に新しい火を点けていた。

 

「……いいだろう。三宅坂の常識など、とうの昔に捨てている。俺に、その泥の作法を叩き込んでくれ」




少しだけ種明かしを。
井川が「怒りっぽいヒステリー女」と酷評した下瀬火薬。日露戦争中、この腔発事故で砲手が砲身ごと吹き飛ぶ事故が前線で相次いでいました。「精神論では止められない化学反応」を同時代の日本軍が実際に経験していた、その記録がここにあります。

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