海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第十六話 影の奇兵隊

 魔都上海の喧騒から隔絶されたように、高杉のアジトは静まり返っていた。

 真崎勇気は高杉に促されるまま、書斎の本棚の裏に隠された分厚い鋼鉄の扉を潜った。

 

 「さあ、入れ。ここがわしらの『泥の教室』じゃ」

 

 高杉の言葉とともに、真崎の嗅覚を強烈な匂いが打った。

 火薬の硝石が鼻を突く匂い、オゾンの焦げたような刺激臭、そして初期型真空管が放つじっとりとした熱気。

 地下空間には、大正三年の日本には存在し得ない、狂気じみた最新機材と実験設備が所狭しと並んでいた。その光景に圧倒されかけた真崎の背筋に、突如、氷を滑り込ませたような悪寒が走った。

 

 (――背後!)

 

 過酷な教練で培われた陸軍将校としての本能が警鐘を鳴らす。

 真崎は反射的に懐のモーゼルC96へ手をかけ、踵を軸に鋭く反転した。

 だが、真崎はふりむいただけで、撃鉄は落とさなかった。

 相手の正体もわからぬまま上海の地下で発砲する愚を犯すほど、彼は血の気が多いだけの素人ではなかったからだ。

 しかし、その一瞬の理性が生んだ「間」は、相手にとってはあまりにも長すぎた。

 

「おや、血の気が多いねぇ。撃ちたければ撃ってもいいが、その前にあんたの喉笛から綺麗な血の噴水が上がるよ」

 

 真崎の視線の先。

 いつの間にかそこに立っていたのは、くたびれた長袍(チャンパオ)を纏った男だった。

 身長は優に百八十センチを超えている。大正時代の人間としては見上げるほどの長身でありながら、その巨躯が真崎の背後へ忍び寄るまで、足音はおろか衣擦れの音一つ、呼吸の気配すら全くなかったのだ。

 男の両手には、両端が鋭く尖った鉄の短い棒が握られていた。中央のリングに中指を通す中国武術の暗器「峨嵋刺(がびし)」である。その切先が、長い腕を滑らせるようにして真崎の頸動脈へ、ぴたりと添えられていた。

 この男こそ、清朝崩壊により上海の青幇へと流れ着いた元宮廷暗殺者・李河(リーホォ)であった。

 峨嵋刺の冷たい鉄先が、頸動脈の鼓動を正確に数えるようにぴたりと密着している。呼吸するたびに皮膚が鉄に触れ、その冷たさが体温で少しずつ溶けていく。わずか数秒の間が、真崎には永遠のように長かった。

 

「……いつの間に」

 

 真崎は冷や汗を流しながら呻いた。

 

「踵から地面を叩いて、膝を伸ばし切って歩く。西洋式の兵隊さんってのは、わざわざ的になるための作法を教わるのかい? 面白いもんだねぇ」

 

 李河は、陽気な好々爺のような笑みを浮かべながら、真崎の歩行をからかうように音もなく間合いを外した。

 長身であるにもかかわらず、その動きはまるで重力に逆らうかのように滑らかだった。

 冷徹な高杉とは対極にある、底知れぬ陽気さが、かえって元暗殺者としての異常性を際立たせている。

 当時の近代軍人の歩き方――西洋式歩行は、革靴の踵からドスドスと地面を叩いて着地する。長距離行軍には適しているが、一歩ごとに頭部が上下に揺れ、足裏がベタッと地面にへばりつく「居着き(硬直の瞬間)」が必ず生じる。

 対して李河は、つま先や足の外側から滑るように着地し、膝を微かに曲げて重心を一定に保つ「泥歩(でいほ)」を用いていた。

 これは清朝末期に紫禁城の宦官・董海川が創始したとされる武術「八卦掌(はっけしょう)」のうち「タンニーブー」と呼ばれる歩法である。重心の上下動を完全に殺してすり足で進む。清朝崩壊とともに裏社会へと流れ着いた元宮廷暗殺者の歩法は、まさにその純粋な殺人術の結晶であった。

 氷の上を滑るように無音で、全方位へ一瞬で跳躍できるその体術の前では、真崎の「居着き」の〇・一秒は、首を三度掻き切られるに等しい致命的な隙であった。

 

「そのくらいにしておけ、リーホォ」

 

 高杉が飄々とした声で制止すると、李河は両手の峨嵋刺を風車のように回転させ、手品のように袖口へと消した。

 真崎はゆっくりと懐へ銃を収めた。

 極度の緊張から解放され、肺が強烈に酸素を求める。

 ――はぁっ。

 荒くなった呼吸音が、真空管のむせ返るような熱気に満ちた地下室に、痛いほど響き渡る。

 軍服の背中には、べっとりと冷たい汗が張り付いていた。自らの心臓が、肋骨を突き破るほどの早鐘を打っている。

 無音の死神に喉笛を撫でられた、その強烈な余韻。

 圧倒的な暴力の気配に呑まれ、重苦しい静寂が「泥の教室」を支配した。

 その、張り詰めた間を破るように。

 

「やれやれ、野蛮なチャンバラはよそでやってくれ」

 

 地下室の奥から、あまりにも気の抜けた声が響いた。

 黄色く染まった指先でボサボサの頭を掻きながら、薄汚れた白衣の男がのっそりと姿を現す。

 

「こっちの精密な計算が狂っちまう」

 

 男は東京砲兵工廠から流れてきた変人技師、井川修平(いがわしゅうへい)であった。

 

「……計算、だと?」

 

 真崎が鋭く問うと、井川は机の上のフラスコを指差した。

 

「ああ。三宅坂の猿どもには理解できない、化学式のことさ。真崎大尉とやら、あんたも『下瀬火薬』を有難がっている口か?」

 

 下瀬火薬(純粋ピクリン酸)は、日露戦争で威力を発揮した日本軍自慢の爆薬である。

 だが、井川はそれを鼻で笑った。

 

「あれは怒りっぽいヒステリー女と同じだ。鉄に触れただけで敏感な化合物を生み出し、敵に届く前に砲身の中で勝手に腔発しやがる。衝撃に鋭敏すぎるから、要塞のコンクリート壁に当たった瞬間に外側で爆発して、内部へ貫通しない」

 

 下瀬火薬には、致命的な弱点があった。鉄と接触すると、敏感なピクリン酸塩を生成する。発射の衝撃で砲身内部から自爆する「腔発(こうはつ)事故」は、日露戦争の前線で少なからぬ将兵を犠牲としていた。

 井川は、机の上の複雑な真鍮製の部品を手に取った。

 

「大和魂でコンクリートが砕けるか? 要塞を落とすのは『遅延火薬の〇・一秒の迂回路』だ。俺が調合した安定型のTNT爆薬を、この自作の遅延信管に詰める。外壁に当たった瞬間には起爆せず、分厚いコンクリートを物理的にブチ抜いたその直後……要塞の腹の中で爆発する」

 

 井川の目には、純粋科学に憑りつかれた狂気が宿っていた。

 満足げに信管を真崎の眼前に掲げ、「この撃針が……」と口を開きかけた、その瞬間。

 

「待て」

 

 真崎は短く制した。

 

「その撃針の傾斜角、七度か」

 

 井川の手が止まった。

 

「……なんで分かる」

「モーゼル系の撃発機構を流用したな。見れば分かる。その設計だと、零下十度を下回る環境ではバネ反力が三割落ちる。冬の遼東半島で使えば、起爆不良を起こすぞ」

 

 沈黙。

 井川はゆっくりと眼鏡を押し上げ、手元の信管と真崎の顔を交互に見た。眼鏡の奥の目が、初めて別の生き物を認識したような顔をしている。

 

「……陸軍大尉が、なんでそこまで知ってる」

「銃を分解しながら育った。撃発機構の設計なら、お前より長く触っている」

 

 井川の口元が、悔しそうに、しかし面白そうに歪んだ。

 

「……ちっ。じゃあ改善策は?」

「バネ鋼をニッケル合金に換えろ。低温耐性が倍になる」

 

 井川は無言で手帳を引き寄せ、鉛筆を走らせた。白衣の袖口が、信管の油で黒く汚れていく。

 高杉は紫煙を細く吐き出しながら、その一部始終をニヤリと眺めていた。

 今度は背後から規則的なカタカタという機械音が響いてきた。

 音の主は、琥珀色に発光する初期型真空管と、大理石の台座に固定された鉱石検波器に囲まれて座る、細身の青年――黒石透(くろいしとおる)であった。

 黒石の横では、モールス信号を視覚的に記録する「サイフォンレコーダー」が痙攣するように動き、青いインクの波線を刻んだ紙テープを延々と床に吐き出している。

 

 「真崎さん、ちょっとうるさいですよ。さすがにここでドンパチやられると無線が聞きにくいですよ」

 

 黒石はヘッドホンを片耳からずらし、淡々とした中性的な声で注意した。

 

「……あんた、暗号解読者か? 教えてくれ。いまの帝国陸軍に足りないのはなんだ?」

「そうですね」

 

 黒石は首に巻き付いた長大な紙テープを指で弾きながら、涼しげな顔で答えた。

 

「気合いで暗号は解けないってことですかね。必要なのは論理と『クリブ』です」

 

 当時の無線電信は空間に電波を垂れ流すため、適切なアンテナさえあれば傍受は容易であった。

 黒石は、鉱石検波器の針先をミリ単位で操作し、列強の暗号通信を拾い上げていた。

 

「例えば英国東洋艦隊。毎朝同じ時間に発信される『本日の天候は』といった定型文。それがクリブ(手がかり)になります。そこから文字の出現頻度を数学的に逆算すれば、コードブックなど無くとも、大英帝国の誇る暗号はただの紙屑に還元できる」

 

 黒石の足元には、そうして丸裸にされた各国の機密電報が、文字通り紙屑のように山と積まれていた。

 武術、化学、そして暗号。

 真崎は、己が信じてきた三宅坂の「正々堂々」たる軍学や大和魂が、ここでは全くの児戯に等しいことを痛烈に悟らされた。

 彼らは国家の枠組みから外れた異端児でありながら、その実力は帝国陸軍の常識を遥かに凌駕している。

 

「高杉先生……こいつらは一体何者なんだ。どこからこんな化け物じみた人材を集めてきた?」

 

 真崎が驚嘆と警戒の入り混じった声で問うと、高杉は葉巻の煙を細く吐き出しながらニヤリと笑った。

 

「お前が生まれるよりも、ずっと前からじゃよ。ただの狂人の集まりじゃが、名無しでは士気も上がらんでな。昔のよしみで『影の奇兵隊』という大層な看板を掲げてやったら、喜んで泥を啜りおる。随分と大所帯になったもんでな、もちろんこいつらだけではない。世界中に、同じような泥をかぶる仲間が散らばっておる」

 

 高杉は、三人の天才たちを見渡しながら静かに口を開いた。

 

「こいつらがお前に、三宅坂の軍務局では絶対に教えない『裏の教育』を担当する。いずれ欧州で大戦の火ぶたが切って落とされれば、その火の粉は必ず極東にも飛んでくる。お前にはその前に、敵を内側から食い破るための『本物の特務員』になってもらう」

 

 表舞台の教条主義的な軍学に縛られていた真崎のプライドは、すでに木っ端微塵に砕け散っていた。だが、彼の瞳の奥底には、それを燃料にして燃え上がる新たな炎が宿っていた。

 

「……いいだろう。三宅坂の常識など、とうの昔に捨てている。俺に、その泥の作法を叩き込んでくれ」

 

 

 




少しだけ種明かしを。
高杉が語った「義和団事件の柴五郎」は実在の人物です。
北京籠城戦で最も少ない兵力で最長期間守り抜いた柴中佐の奮戦は、列強の武官たちに「日本陸軍の真価」を刻み込んだと言われます。
高杉が「だから英国は同盟を結んだ」と言い切れる根拠がここにあります。

最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは本日19:40に更新予定です。
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